24.息子は父を超え
一瞬のことで、何が起こったのか分からなかった。気がついたら、アンドレアスが床にへたり込んでいた。ぽかんとした顔で、頬を押さえて。
「見損なったぜ、父さん」
そしてアンドレアスのすぐそばに、ユリウスが立っている。握ったこぶしが、かすかに揺れていた。
「コンスタンツェの苦境に、父さんが多少なりとも関わっていたのは確かだろうさ」
アンドレアスとユリウスは、じっと見つめ合っている。……あら、もしかして……さっきユリウスは、アンドレアスを殴りましたの?
「そのことについて、父さんが責任を感じるのも分かる」
強い口調で堂々と言い放つユリウスの姿に、アンドレアスは見とれているようにも思えた。
「でもさ、『修道士になりたい』はないだろう!? 『贖罪の祈り』って、何だよそれ」
そしてユリウスは、怒っているようだった。そのくせどことなく悲しさをはらんだ声で、さらに続ける。
「……まだ小っちゃかった俺に、父さんはよく言ってただろ。『ただ考え込んでいても何も変わらない、何かを変えたかったら前に進め。そうやって父さんは母さんと一緒になれたんだ』って」
その言葉が、目の前のアンドレアスとどうにも結びつかない。わたくしから見たアンドレアスは、めそめそした気弱な人物でしかなかったから。
……もしかしてこの方、妻子と引き離されたせいでこうなってるだけで、昔は結構前向きで行動的だったのかしら。そう、ユリウスみたいに。
「今の父さんはただ考え込んで、立ち止まってる。……違うな。回れ右して、後ろ向きに突っ走ろうとしている」
床に座り込んだままのアンドレアスが、ぐっと身をこわばらせる。と、ユリウスの声がふっと和らいだ。
「父さんが俺たちと引き離されて悲しかったのは分かるさ、俺も同じだったから」
ユリウスはさらりとそんなことを口にする。けれどその口調の軽さが、逆に彼の苦しみをありありと表しているように感じられて仕方がなかった。
「でも俺たちは、いつか父さんに再会できる日を信じて懸命に生きてた」
アンドレアスは、ユリウスから目が離せないようだった。そんな父親をたしなめるような口調で、ユリウスはゆっくりと語りかける。
「それなのにさ、ようやっと会えた父さんが『修道士になる』なんて情けないこと言い出すなんて……母さんが聞いたら、ものすごく嘆くぞ」
けれどまた、ユリウスは優しく微笑む。彼のほうが年上ではないかと錯覚してしまいそうになるくらいに、穏やかに。
「なあ、父さん。色々あったけどさ、こうしてまた会えたんだ。過去を悔やむより、もう一度、前を向いていかないか?」
そう言って、ユリウスはアンドレアスに手を差し伸べる。その顔には、いつもと同じ軽やかな笑みが浮かんでいた。
「ああ、お前はなんと立派になったのだろうか。私も、お前に恥ずかしくない父親にならねばな……」
息子の手を取り、アンドレアスがつぶやく。
彼は助け起こされるようにして立ち上がると、すぐ近くにある息子の顔をじっと見つめた。彼の表情が泣き笑いにゆがみ、それから凛々しく引き締められる。
「私は……兄上に、会ってこようと思う」
きっぱりと、アンドレアスは言った。顔を上げて、背筋を伸ばして。
「私はこの別荘に閉じ込められているが……それは、エミーリアやお前のもとに戻ってしまわないように、という兄上の思惑によるものだ」
ああ、やっぱりそうでしたのね。あのカスパルならそれくらいやりかねませんわ。
「逃げるのでも、戻るのでもない。兄上に会い、話をするために私はここを出る。それならば、見張りたちも止めはしないだろう」
見張りって、あのやけにたくましくて数の多い使用人たちのことでしょうね。アンドレアスがカスパルに会って何を話すつもりか分からないけれど、彼はやる気になっている。そのことだけは確かだった。
「やっと、俺の知ってる父さんに戻ってくれた」
ユリウスはほっとしたように、柔らかく微笑んでいた。
そうしてその日は、アンドレアスの別荘に泊まることになった。夕食までの時間を、お喋りしながら過ごす。
古めかしい椅子にめいめい腰を下ろしたところで、ゆったりと頭を下げた。
「改めて、自己紹介が遅れました。コンスタンツェ・リルケです」
「あんたがそうやってかしこまっているのを見ると、笑いが込み上げてくるんだが」
「ちょっとユリウス、茶化さないでくださいまし!」
アンドレアスに上品に名乗っているわたくしを見て、ユリウスがおかしそうに笑う。
「だってなあ。あんた、やっぱり平民に交ざって無邪気に笑ってるほうが似合うんだよ」
そんなユリウスの言葉に、アンドレアスが首をかしげている。
「平民に交ざって……? どういうことだろうか」
「ああ、こいつちょっと変わってて。平民育ちの俺のことを理解したいとか、そんなことを言い出したんだよ」
そしてアンドレアスに説明しているユリウスは、なんだか得意げだ。
「だから俺は、こいつを平民の娘に変装させて町中に連れ出した。俺が育ったマディセスの孤児院や、シトーにある母さんの墓にも連れてった」
「なんと……そのようなことが……」
「そうこうしているうちに、こいつも平民のふりがすっかりうまくなっててさ。一緒に遊んでると楽しいんだ」
屈託のないユリウスの笑みに、アンドレアスはそうか、と言いながらしんみりと笑っている。そしてわたくしは、どうにも落ち着かずに視線をそらしていた。
どうもさっきから、ユリウスがわたくしのことをやけに褒めているような。
嬉しいですけれど、ちょっと……恥ずかしいですわ。彼は普段、わたくしをからかっていることが多いですから、なおさら褒め言葉が胸に響いてしまって。
困ってしまって黙りこくるわたくしに、アンドレアスが穏やかに笑いかけてきた。
「ありがとう、コンスタンツェ殿。息子があなたに出会えたことを、心から喜ばしく思う」
ちょっぴり誇らしげな気持ちで、その言葉に応えた。
「はい、ありがとうございます、アンドレアス様」
するとすかさず、またユリウスが首を突っ込んできた。父親に再会できたからか、彼はさっきからやけにご機嫌だ。
「『アンドレアス様』……うわあ、むずむずするんだけど。俺たちと暮らしてた頃の父さんは、ただ『アンディ』とだけ呼ばれてたからさ」
「懐かしいな、その呼び名も」
アンドレアスと微笑み合って、またすぐにユリウスがこちらを向いた。本当にせわしない。
「だいたい、父さんはじきにあんたにとっても義理の父親になるんだし、そこまでかしこまらなくてもいいんじゃないか?」
アンドレアスが義理の父親になる。そういえばそうでしたわ。今さらながらに意識してしまって、ちょっとどきりとする。
「あらユリウス、貴族同士ではこれくらいかしこまるのも普通ですわよ。実の親子の間であっても」
「でも父さんも、平民に交ざって暮らしてたくちだからなあ……あ、いつか落ち着いたら、みんなで母さんの墓参りに行こうぜ」
うきうきとした様子でそこまで言ったユリウスが、ふっと遠い目をする。
「……ま、それもこれも、カスパルが俺をヘルツフェルトの一員だときっちり認めてくれたら、の話なんだが」
すると今度は、アンドレアスが真剣な顔になった。
「ユリウス。……私がお前に渡した、あれは……」
「ああ、大丈夫だ。あれがないと、さすがに交渉のしようがないしな」
「ならば、良かった。今のお前にとって、あれは有用なものだろう。私にとっては、疎ましいものでしかなかったのだが」
どうやら二人は、ユリウスが隠し持っているあの指輪について話しているのだろう。使用人たちに聞かれてもいいように、言葉を選びながら。
おかげで、事情を知らない者からすると何が何やらといった感じになっているけれど。
「ま、俺もやれるだけやるよ。もしうまくいかなくっても、コンスタンツェは覚悟を決めてくれているからな。……本当に、貴族にしておくには惜しい、素敵な子だよ」
油断していたところに飛んできた褒め言葉に、うっかり表情を崩してしまう。ああもう、頬が熱いですわ。
そんなわたくしを見て、アンドレアスが嬉しそうに目元をほころばせていた。ユリウスが時折見せる優しい表情に、とてもよく似ていた。




