20.お嬢様が望むこと
ユリウスと離れなくてはならないかもしれない。そう考えたとたん、わたくしの口は勝手に動いていた。
「あなたが貴族になれなかったら、一緒に商売をやって欲しいの。経験なんてないけれど、あなたがいれば何とかなる気がするから」
ユリウスが驚きに目を丸くしている。でも止まることなく、さらに話し続ける。
「リルケの家がなくなっても、財産までは没収されないわ。領地は全てなくなるから、貴族として暮らし続けるのは難しいけれど」
わたくしは自然と早口になりながら、奇妙に明るい声で言い立てていた。
「だからその財産を元手に、新たな人生を始めたいの。手伝ってもらえると……助かるわ」
するとユリウスはぽかんとしたまま、戸惑いもあらわに尋ねてきた。
「……なあ、あんたはリルケの家を存続させるために俺を呼びつけたんだろう? 取引やら契約やらを持ち掛けてきてまで」
「ええ」
「だったらどうして、そんなに簡単にあきらめるんだ? もし万が一俺が駄目でも、その時は他の男を探せばいいだろう。まだ一年半あるんだ。必死に探せば、何とかなるさ」
ああ、彼は心配してくれているんだ。そのことに、胸がぎゅっとしめつけられる。
「だって……嫌なんですもの」
うつむいて、小声でつぶやく。
「そうしたら、もうあなたと一緒にいられなくなるから……」
ユリウスは何も言わない。わたくしも、それ以上言葉を見つけられない。
「……そっか。奇遇だな。俺も、正直言うとあんたを他の男に、それも面白みのかけらもない貴族の男なんかに渡したくないんだ」
弾かれるように顔を上げると、満面に笑みを浮かべたユリウスと目が合った。でも気のせいか、ちょっぴり照れているようにも見える。
そんなわたくしの視線に気づいたのか、ユリウスはついと視線をそらすと、やけに軽やかに言った。
「でもまあ、婚約者を不安にさせたままってのも、男がすたるよな」
そしてまた、彼はわたくしをまっすぐに見た。とってもいたずらっぽい目で。
「特別に、見せてやるよ。俺の交渉の道具を。俺に流れるヘルツフェルトの血を証明してくれるものを」
そうしてユリウスは、わたくしを自分の部屋に連れていった。
急いで入り口の扉に鍵をかけると、その前に椅子を積み上げてしまった。うっかり誰かが入ってこないように、ということかしら。
さらに窓を閉め、カーテンもきっちりと閉ざしてしまう。昼なのに夜のように暗くなった部屋で、彼と並んで寝台に腰かけた。
「いいか、大声を出すなよ。俺がこれを持っているのは内緒なんだ。俺の他は、父さんしか知らない。絶対に秘密だからな」
そんな秘密を明かしてもらえるというのは光栄だけれど、同時にちょっと緊張する。顔を引き締めて、こくこくとうなずいた。
それを見届けると、ユリウスは首元のボタンをはずして、えりの中に手を入れた。
「ほら、これだよ」
そう言って、彼は首にかけていた紐を慎重に引っ張り出した。続いて服の中からするりと姿を現したのは、古めかしい指輪。大きな黒い石がはめ込まれている。
「これは、代々ヘルツフェルト家の当主に伝わる指輪なんだ」
「……どうしてそんなものを、あなたが持っているの?」
「色々あるんだよ。というか、あるらしい。実は俺もぼんやりとしか聞いてなくて」
「もしかして、ヘルツフェルトの当主があなたを呼びつけたのって、あなたがこれを持っているかもって思ったから、とか……」
「あり得るな。ま、話の流れ次第では渡してやってもいいんだが……これがないと、俺の身元を証明するのが難しくなりそうだしな」
「でもそれ、ただの指輪……ですわよね。持っているからといって、身元を証明してくれるとは限らないんじゃ」
ふとそう尋ねると、ユリウスがふっと笑みを浮かべた。
「それが、あるんだよ。ほら、見てみろ」
そうして彼は、指輪の石にそっと指で触れた。
とたん、石がふわりと光を放ったのだ。月の光を映した夜の湖のような、そんな風情だ。
「この石、ヘルツフェルトの血を引く人間がこうして手で触れると光るんだとさ。あんたも触ってみるか?」
うながされて、指輪の石に触れてみる。何も起こらない。
「不思議ですのね……」
「ああ、そうだな。ともかく、俺はこれを活用して、ちゃんと俺がヘルツフェルトの一員なんだって、当主に認めさせてみせるぜ」
張り切りながら、ユリウスはまた指輪を服の中にしっかりとしまい込んでしまう。
「そうして貴族の籍を作らせれば、あんたとの婚姻届も作れる。一緒にのんびり過ごすことができる」
暗い部屋の中、指輪の光を受けて笑うユリウスが、とても頼もしく思えた。
そうして、ヘルツフェルト伯爵カスパルからの手紙が届いて数日後。わたくしたちはオットーに屋敷のことを任せて、ヘルツフェルトの屋敷へと向かっていた。
「できることなら、オットーにもついてきてもらいたかったけれど……」
「あんたと俺が留守の間、屋敷を一番安心して任せられるのはオットーだしな」
「そうなのよね。お父様の大失態以降、親戚には縁を切られるし、使用人たちもすっかり減ってしまったし……でもそのおかげで、あなたたちに巡り合えたのだけれど」
「人生、何がどう転ぶか分からないってやつだな。……それはそうとして」
馬車の中でだらだらと話していたら、ユリウスが不意に声をひそめた。
「……その数少ない同行者に、あいつらが混ざっているってのもどうかと思うんだが……あんたは、それでいいのか?」
あいつら。つまり、カミラとマルコとフランクの三人組だ。
三人は、ユリウスが敵地におもむくと聞いて、ぜひとも連れていけと騒いだのだ。まだ敵地と決まった訳ではないのですけれど。
「ええ。あなたの大切な家族で、友人でしょう? そして今では、将来有望な使用人たち。彼らがいてくれて心強いわ」
「心強いのは確かなんだが、あいつら、俺以上に貴族の世界は不慣れだろ? 何かやらかさないか心配でさ」
「そうなったら、わたくしたちがきっちり責任を取ればいいだけの話よ。使用人の過ちは、主人の過ち、ってこと」
「だったら、頭を下げる覚悟だけしておきゃいいか。あいつらのためなら、頭の一つや二つや三つや四つ、惜しみなく下げられるがな」
「そういうことよ。でも……ふふっ」
「どうした、何笑ってんだ?」
ついつい笑い声をもらしてしまったわたくしに、ユリウスが不思議そうな顔で問いかけてくる。
「いえ……なんだか、子供の心配をしている父親みたいだなって」
思ったまんまを伝えると、ユリウスは思い切り目を見開いて、それから頭を抱えてしまった。
「それ、あいつらには絶対に言わないでくれよ……間違いなく、しばらくからかわれるから」
「分かったわ」
そう答えながらも、笑いが止まらない。気づくとユリウスの口元にも、小さく笑みが浮かんでいた。
リルケの屋敷を出た時に感じていた不安が、ふわりと軽くなっていくのを感じていた。
途中の町で一泊して、いよいよヘルツフェルトの屋敷に乗り込む。そこはリルケの屋敷の倍くらい大きくて、そして倍くらい古そうな、いかめしい建物だった。
そうしてその一室では、一人の男性がわたくしたちを待ち受けていた。
「……実際に顔を合わせるのは初めてだな、ユリウス」




