12.小さな古い町の片隅で
生まれて初めて足を踏み入れた隣町マディセスは、ちょっとくすんだ感じの場所だった。町並みが古びているからか、それともどことなく活気がないからか。
こうしてみると、わたくしの屋敷があるリルケの町は、それでも栄えていたほうなのかもしれないなと思った。
そんな町の中を、ユリウスはためらうことなくすいすいと歩いている。
初めてリルケの町に二人で行った時、ユリウスは「この町のことはよく知らない」と言っていた。その割には、やけに迷いなく歩いていたけれど。
きっと彼は、このマディセスの町については前から知っていたのだろう。その表情や足取りから、そんなことがうかがわれた。
どこに連れていってもらえるのかしら。大切な場所がどうとか言っていたから、とっておきのお店とか?
ユリウスについて歩きながら、こっそりとそんなことを考えていた。けれどじきに、首をかしげることになった。
彼は大通りを外れ、細い路地を抜け……どんどん町の奥の、妙にさびれた区画に向かっていたのだ。
「こんなところに、何があるの?」
いつもの町歩きと同じように、口調もちゃんと平民らしく改めて、小声で問いかける。
「もう少しのお楽しみだよ。普段、こういう区画には立ち入らないし不安だろうが……大丈夫だからさ」
わたくしの不安を察してくれたのか、ユリウスが励ますように朗らかに答える。同い年のわたくしを、まるで妹か何かみたいに扱っていますわね。ちょっとだけ面白くないですわ。
彼に見られないようにこっそりと口をとがらせていたら、突然目の前が開けた。
そこには、日の当たる広場が広がっていた。というか、何もない空き地というか。むき出しの土の地面は、どこもかしこもよく踏み固められている。広場の奥には、古びた教会が建っていた。
その広場を、たくさんの子供たちがきゃあきゃあとはしゃぎながら走っている。よちよち歩きの小さな子から、十歳は超えているだろう大きめの子まで。
「あ、ユリウスだ!」
「ユリウス、帰ってきたの?」
「可愛い子連れてる! 誰?」
そんなことを言いながら、子供たちはわたくしたちを取り囲んでしまった。着ているものは粗末だしちょっと薄汚れているけれど、みんなとっても元気そうだ。
ユリウスはとても優しく笑いながら、子供たちの頭をなでている。
「こいつはコニー。俺の……友達」
あ、今ちょっとためらいましたわ。わたくしが婚約者なのだと言いたくなかったのかしら。
わたくしのもの言いたげな視線には気づいているだろうに、ユリウスは涼しい顔で子供たちと話し続けている。
「ちょっと遊びにきただけだよ。ところで、グスタフはどうしてる?」
「いつも通り。帳簿とにらめっこしてる」
「僕たちには見せないようにしてるけど、ここのやりくりが大変みたい」
「あたし、かたたたきしてあげた!」
さらにわいわいと騒ぐ子供たちを、軽く片手を挙げてユリウスが止める。
「じゃあ、ちょっとあいさつしてくるわ。俺、二、三日ここに泊まってくから。俺の部屋、まだ空いてるよな」
「うん。まだ新入りは来てないから」
「いつ戻ってきてもいいように、掃除しておいたよ」
「あとであそんでね、ユリウス!」
そんな子供たちの声に見送られ、ユリウスに連れられて教会の中に入っていく。外観と同様に古びてはいたけれど、きちんと掃除の行き届いた場所だった。
天窓から入る日差しを頼りに、薄暗い廊下を歩く。
「ねえ、ここってもしかして……あなたが育ったっている孤児院? グスタフってどなた?」
気になっていたことを小声の早口で尋ねると、ユリウスは苦笑してぽんとわたくしの頭に手を置いた。とても愛おしそうに、飾り気一つない廊下を眺めている。
「俺は八歳で、この孤児院に来たんだ。グスタフは神父兼院長。この教会、奥のほうに住居棟があって、子供たちはそこで暮らしてる」
そう語る彼の横顔に、思わず見とれた。普段見せない、とても柔らかな表情。つい嫉妬してしまいそうになるような、飛び切り優しいまなざし。
「っと、ついたぜ。おーい、グスタフ!」
ユリウスの軽やかな声で、我に返る。彼は廊下にある一つのドアを、ノックすらせずにいきなり開けた。そして、さっさと中に入ってしまう。
……これ、わたくしも入っていいのかしら。ユリウスの口ぶりからすると、この中にグスタフという方がいるのでしょうけれど。
開けっ放しの扉の外で少し悩んで、そろそろと中の様子をうかがう。
その部屋は、やはり質素だった。最低限の家具しかない。窓辺には机が置かれていて、その前の椅子に誰か腰かけている。でも逆光になっていて、顔がよく見えない。
そしてその誰かと、ユリウスが親しく語り合っていた。ユリウスが扉のところで立ち止まっているわたくしに気がついて、明るくこちらに笑いかけてくる。
「どうした、コニー。あんたもこっちに来いよ」
「けれどユリウス、ノックもせずに入室するのは……」
まだためらうわたくしに、逆光の誰かがおっとりと声をかけてきた。
「構いませんよ。どうぞ、こちらへ。近くであなたの顔を見たいのです。コニーさん……いえ、コンスタンツェ・リルケ様」
突然本名を呼ばれて、すぐさま部屋の中に駆け込む。ばたんと扉を閉めて、二人のすぐそばまで走っていった。
そうして思い切り声をひそめて、グスタフらしき人物に話しかける。
「ええ、確かにわたくしはコンスタンツェ・リルケですわ。ですがどうして、わたくしの名を? それと……あなたがグスタフさん、でしょうか」
「名乗りが遅れましたね。いかにも私がグスタフ、ここの院長です」
近くで見たグスタフは、好感の持てる人物だった。まだ五十歳にはなっていないだろう、穏やかな表情の、とても優しそうな男性だ。ただその表情には疲れの色が見えるけれど。
「ユリウスがここを出る際に、私にだけ事情を教えてくれたのです」
そう言って彼は、そっとユリウスに目配せする。
「……貴族として生きた経験のない彼が、いきなり貴族のもとに婿入りなど……どうなることかと思っていたのですが、どうやら取り越し苦労だったようですね」
「そうなんだよ。コニーが『理解を深めたい』とか言い出した時は驚いたけど……ま、案外悪くない提案だったかもな」
さらりとそう流したユリウスに、グスタフがくすりと笑う。
「ユリウス、君は相変わらず素直ではないのですね。『案外悪くない』どころか、かなり気に入ってしまっているでしょう? その提案のことも、コンスタンツェ様のことも」
「ばれてたか。貴族の世界のことを学ぶのも楽しいし、世間知らずのお嬢様に平民の暮らしを見せて、あれこれと吹き込むのも楽しくてな」
「……なんだか、わたくしがいけないことを教えられているような、そんな心持ちになってしまうのですけれど」
「はは、気のせいだろ」
そうやって言葉を交わすわたくしたちを見て、グスタフが目を細める。ほっとしたような、泣きそうな笑顔になった。
「コンスタンツェ様……ユリウスを見つけてくださって、ありがとうございます。私は彼を、ここまで育てることはできました。でも私には、彼に広い世界を見せてやることはできません」
そうして彼は、窓の外に目をやる。とても気持ちよく晴れた青空が、そこには広がっていた。
「たくさんの孤児を育て、世に送り出してきたからこそ分かるのです。彼はこんな狭い世界にいるべき人間ではない。もっと広い空にはばたいていくべきなのだと」
「おいグスタフ、俺はそんなたいそうな者じゃないぞ。つか、聞いてると耳がこそばゆくなるんだけどさ。普段のあんたは、いっつも俺にお説教ばかりだったしな」
そうやって不満を述べているユリウスの顔も、やはり優しく微笑んでいた。ああ、この二人には、じっくりと時間をかけて育まれた絆があるんだな。そんなことが、容易にうかがわれる姿だった。
「コンスタンツェ様。どうか、これからもユリウスのことをよろしくお願いいたします。彼は素直ではないし強がりですが、根はまっすぐな子なのです」
そしてユリウスの反論をするりとかわして、グスタフがわたくしに向き直る。そのまま、深々と頭を下げた。
その頭に向かって、ゆったりと言葉を返す。
「ユリウスが素敵な方だということは、よく分かっております。彼がわたくしを拒まない限り、わたくしは彼と共にありますわ」
「……ありがとうございます。恩に着ます」
「礼を述べるのはこちらのほうですわ。彼をここまで育ててくださってありがとう」
にこにこと微笑みながら礼を言い合うわたくしたちを、ユリウスはいても立ってもいられないような、むずがゆくてたまらないような表情でちらちらと見ていた。




