喪女とギャル
ある梅雨の中休み。雨は前日の放課後に降り止んで、丸一日中、晴天が続いていた。しかしながら丸い太陽の隣には灰色の雲の塊が未だ浮かんでいて、気の抜けない空模様であった。雨の気配をチラつかせる天候が続き、更に風もないのでもうしばらくはこの天気が続くと思われる。また無風状態は地表も同じで、たっぷりと湿気を含んだ大気が流れ運ばれることなく、堂々と顔を出した太陽に照り付けられている。
どっちつかずで、晴れと雨の悪いとこ取りをしたような天気。
ある学校の、そんな放課後。
校舎に唯一ある屋外の吹き抜け空間で、2人の女生徒がなんとも言えない距離感で立っていた。昇降口から校門までの道を逸れて、正門から少し離れたところにあるこのピロティは、上を音楽室、横を教員用駐車場と第二グラウンド、背後を特別教室棟の勝手口、正面を構内道路に囲まれた吹き抜け空間である。学校の前を走る車道からフェンスを挟んで程近く、他の登下校者の邪魔にならないこの辺りは、音楽室を支える白い数本の柱が目印として分かりやすいことも相まって、送迎の待ち合わせ場所に推奨されている。学校側がこの場所以外では送り迎えしないでくださいと、定期的にプリントやホームページで注意喚起をしているのだ。
無論、2人の女生徒らは親の迎えを待っていた。
蒸籠の中の小籠包になったかと錯覚できるほど蒸し暑いなか、最低限、直射日光を避けるかのようにピロティの陰に2人は立つ。音楽室の底が影を落とした空間は、背後の特別教室棟に近づくほど涼しくなっている。
しかし彼女らが立つのは、塗装が剥げかけていて一番建物から遠い柱。その付近は日陰と日向による気温差が毛ほどしか無く、直射日光を避けるのは、気温面では殆ど気休めみたいなものだった。
彼女らは、同じ柱に並んで立っていた。微妙な距離を空けて。
他にもこのピロティで親を待つ生徒はいた。けれど皆、他の柱を根城とする者たちで、しかも送迎車が来て早々に全員帰ってしまった。
現在、他の柱では閑古鳥が鳴いていた。
放課後の残骸のような光景。一つの柱に気まずそうな雰囲気が漂う。2人は取り残された者同士という仲間意識こそ芽生えていたが、互いの気質や所属グループの違いから敵意に似た別の何かを感じていた。同じクラスで1ヶ月と少し過ごしていれば、多少のすれ違いを以て僅かばかりでも人となりが分かるというもの。それで得た人柄が真実かはともかく、印象は付けられる。
2人とも、入学してからの1ヶ月やそこらで、互いに馬が合わないことを重々理解していた。
梅雨。蝉が鳴こうにも、空気が重い。
それを紛らわせるかのように、あるいは意識しないようにか、両者ともにスマホを指でつついていた。別段この柱でスマホをいじることに固執する理由はなかったが、他の空いた柱にわざわざ移動するのも変に意識しているようで憚られた。2人ともが、そう思って行動せずにいた。
……うざい。
ギャルはそう——時折目の前を通る自家用車以上の音量はしない広々とした屋外で——そう思った。
耳障りなのではなく、目の端が目障りなのでもなく。空気がなんとなく——気障りだと思わされた。
具体的なうざい対象については、深く考えるまでもなかった。
ギャルの内側で、何かがピークに達しようとしていた。
スマホを両手で抱えるように持って、左右の親指の腹で画面を操作していたギャルが口を開いた。
——開いただけですぐさま閉じた。
いつもの癖というか、ギャルの性分というのか、言う文言を決める前に口を動かしていた。
そして、隣に立って片手でスマホを握る喪女は、言葉の出かかった隣人の口元を目ざとく察知していた。が、唇を舐めて湿らせるだけに留まり、気付かぬふりをした。切りすぎて深爪になってしまっている親指の先で画面をスワイプする。
——気まずい沈黙が加速した。
緊張がどこかへ押し流されるのを待つように、両者の親指が液晶の上を滑る。しかし、風は凪いでいた。いくら待っても湿気を過分に溜め込んだ空気は、居心地の悪い空気感は、停滞して居座ったままだった。
指先を動かそうにも動かせないほど、重くのしかかる大気に耐えかねて。堪らず、ギャルは声を上げた。今度こそは、はっきりと。言うべき文句を決めて、口に出した。
「あーーのさ、あんた。なみゃえはなん……て…………」
噛んだ。緊張によって喉はカラカラに渇き、舌すらも萎縮してしまっていたがために、名前をなみゃえと言い間違えた。
間違えたので、言いさしてやめた。
ギャルは流し目に喪女を睨め付けつつ、完全に口を噤む。
喪女は首筋に脂汗を垂らしながら、ギャルと同じように瞳孔を横にスライドさせて下唇を噛み閉ざした。見ている方向はギャルのいないほうだった。
尻すぼみに小さくなっていった声を最後に、再び微妙な静寂が舞い戻ってきた。
先のギャルの発言には、そもそも、内容自体に意味はなかった。ギャルは名前を訊こうとしたが、すでに喪女の名前を知っていたからだ。質問の意図するところは、少しでもこの雰囲気を解消しよう、というところだった。
ギャルなりのコミュニケーション、というわけだった。
シケた空気と、暑さや羞恥によって滲み出た汗が接着剤の役割を果たして、前髪をおでこにくっ付けた。
不愉快な思いを、ギャルは前髪を一束つまんで剥がす。しかし、嫌な汗を吸った前髪は幾ばくもしないうちに再びペタリと張り付いた。分かりやすく、顔を顰める。
その横顔をチラ見で窺っていた喪女は、首筋に伝う脂汗の数を増やした。目線を正面のスマホに持ってきて、ギャルが不快げな顔をした理由を自分以外に求めるように、しばらく瞳を泳がせる。スマホを握っていないほうの、脇腹あたりに垂らした手は強張って、自然、手汗を握る。
何事か焦らされたかのように喪女は、唇を小刻みに振るわせながら小さく開口した。歯が覗けないほど横に細く切り開かれた口は——開口から暫くして発せられた声も手伝って——さながら腹話術のように見えた。ギャルの流し目には、そう写った。
「……あの、俺たち、同じクラスなので……名前、知ってると思うんですけど……」
ギャルは痛いところを突かれた。ウチの意図分かれよっ、という怒りと、ウチあんたの名前覚えてるからっ、という憤りから、暴挙に出そうになった。仮に、この場に腹話術の人形があったとしたら、そいつの上唇を引っ掴んで腕から引っこ抜き、タイルの地面に脳天から叩きつけていたことだろう。衝撃吸収性能を担保された強靭でかつ激かわいいスマホカバーを握力の限りで握りしめて、ギャルはギリギリで踏みとどまる。
喪女はと言えば、ギャルに提言したことで、息が詰まったかのように顔を真っ赤にしていた。これ以上ギャルにかまう余裕など無いようだった。
——喪女のたった一言で、2人は会話不能になってしまった。
ほどなくして、ギャルは沸騰しかけた感情を静めるために俯いていた顔を上げた。フェンス越しの公道を見、ずり下がった眼鏡を鼻骨に乗せ直して、首を曲げ横を見ると、いけ好かないクラスメイトがなぜか顔面を真っ赤っかに染めていた。まるで茹でたての蟹のような鮮やかな赤だと、ギャルは思った。
ゴクリと唾を飲み込み、舌舐めずりをして、先制パンチを食らわせてきた喪女に言葉を返す。
「確かに知ってるよ、あんたの名前。熊倉萌菜ちゃん、だよね? 一対一で話したことないし、自己紹介し合ったことないから、勝手に名前呼んじゃ嫌かなぁって思ったんだけど、余計な気遣いだったね。因みに一応、ウチは九間渕瑠璃花って名前」
喪女は瞠目し、先んじて口を開けてから、返事を考える。
「っ……っ…………と、えっと、そうだよね、知ってるよねー、名前。俺も、九間渕さんって、知ってたしー…………」
……お母さん早く来て。
喪女はそう、切に願った。呼んでないけどお父さんでも良いっ、なにかの偶然で親戚の車よ通りかかれっ、中学の時の友達の父兄でも可っ、そう沢山願った。
けれど、公道にも、学校敷地内の道路にも、自動車は一台とて走らなかった。横切る人影もなかった。
——照りつけられたアスファルトに、蟻んこ一匹探せなかった。
喪女には、何がなんだか、わけが分からなかった。自分と九間渕さんにはクラスメイト以上の接点という接点がないし、なんなら嫌われていると思っていたからだ。だから喪女自身も、半ば苦手意識を持っていた。
それがなぜ、今こうして改めて名前から知り合っているのか。しかも高圧的な態度で。
不思議で不思議で仕方がないが、今じっくり考える余裕は皆無であった。
——会話に意識を割かれてスマホの操作を誤り、この日中に画面輝度を最低にしてしまったからだ。
ほぼ暗転に近くなった液晶に太陽光が反射して、いっそう画面が見にくくなる。そんな状態のスマホと、喪女は脳の10分の1程度を使い、格闘する。
傍目から見れば——即ち、ギャルの目には——喪女が四苦八苦している様子には見えない。人に話しかけられてもスマホから目を離さない、失礼な人に写った。
さっきまでは赤面していたのに、今度はスマホかぁ——と思いを忍ばせ、軽く顎を上げて、ギャルは喪女を見据える。
ある種の、堂に入った立ち姿、斜に構えた態度で、ギャルが口を尖らせる。
「あのさぁ、熊倉ちゃんって、SNS何やってるの?」
喪女の肩が小さく跳ねる。動揺した喪女は、脳の10分の9を稼働させて質問に返答する。
「SNSって……ソーシャル・ネットワーキング・サービスの頭文字を取った“SNS”のことで合ってる?」
「他のSNSってなに?」
「いや、私も知らないけど……」
「じゃあ、ソーシャル・ネットワーキング・サービスのことだよ」
「だよね」
((……「だよね」って何?))
2人の心がシンクロした。
喪女は、えっと、とスマホを軽く下げて視界から外す。前方数メートル先にあるフェンスの足元が現れて、喪女は学校内外を分つ雑草を注視する。
「青い鳥のアプリとか、やってる……。九間渕さんは——俺の周りだとやってる人はいないけど——赤い炎のアプリとか、やってそうだよね」
「赤い炎……? って、あ、いや、別にマッチングアプリはやってないよっ。そもそも高校生だからできないし、もっとそもそもを言うなら出会い系をやる気がないよ」
「まあそっか。頼るまでもないもんね」
「ん? ……うん……よく分かんないけど、そう。てか、青い鳥も赤い炎も背景色に白抜きされたアイコンだから、実質、白い鳥と白い炎ではあるよねー」
アハハー、と愛想笑いを浮かべるギャル。
合わせて引き攣った笑みを作る喪女。
「アイコンのマークの色を気にするなんて細かいねぇー」
「こま……っ!?」
会話のキャッチボールの流れで、急にナイフが投げ返された。ギャルのミットは傷モノである。
驚きのあまりギャルの心に怒りが湧く隙間などなく、驚嘆が埋め尽くした。広げた口内で、舌先を彷徨わせる。
喪女は——ボールを投げる動作で自然にナイフを投げつけた張本人は、ギャルのそんな反応を見て、急いで前言撤回する。
「いや違くて、その、細かいって言うか、イイ目の付け所だねーって。他の人がスルーしてしまうような所によく気づいたって言うか。目ざといって言うか。もしかして、それ伊達メガネ? 本当は視力良いの隠してるでしょ。能ある鷹は爪を隠すって諺もあるし、目が早い人は伊達メガネをする、ってそういうこと?」
「いや、聞かれても。熊倉ちゃんが超理論展開してたのに、最後はこっちに振らないでよ。あと、フォローもそこまで行ったらもうディスだよ。伊達メガネかどうか疑うってなに? これは本物メガネ」
「あ、そうだよね……伊達メガネは偽物だよね」
「いやそんな過激派メガネオタクみたいなことは一言も言ってないんだけど」
「そう、だよねぇ」
いや、だから「だよね」ってなに?
という文句を、ギャルは口の中で留める。なかなか噛み合わない会話の応酬に疲れていたし、シケった暑さで肉体的にも疲れを感じ始めていたからだ。
対峙している喪女も同様に疲れを感じていて、とっくのとうに頭がいっぱいいっぱいだった。
——2人とも、脳みその普段使わない部分が疲労困憊だった。
深く呼吸をする両人。
気まずさも濡れた暑さも、この短い雑談の間では吹いて飛ばなかった。奇妙な汗をかいたギャルは、制服の胸元を摘んではためかせる。ギャルからすれば、気まずい沈黙よりも、気まずい会話のほうが幾分か楽であった。
「あ、あーのさ、……ずっと——言おうか迷ってたんだけど……ウチの名前の発音、“きゅう”で区切るんじゃなくて、“きゅうまぶち”ってずっと真っ直ぐなんだよね。熊倉ちゃんの発音だと、“旧間渕”って感じがするのよ。それはやめて、みんなみたいに“九間渕”って呼んでくれない?」
「そっか、分かった。九間渕、さんね」
「うん」
「確かに、“旧間渕”だと側から聞いた人に、(昔は間渕さんだったけど今は違うのかな? 今の苗字が気に入らないから友達に“旧間渕”って呼ばせてるのかな? )って思われるもんね」
「いや普通に、“旧間渕”呼びが嫌だからだけど。要らない詮索をされるっていう、妄想を勝手に繰り広げないでよ。苗字が変わった感はまぁ理解できるとして、だからって“旧間渕”呼びは逆に虐めだよ? 仮に呼ばせるとしたら“間渕”だけだよ」
「覚えたよ、九間渕さん」
「ありがとう、熊倉さん」
絶妙にズレてるような、ズレてないようなやり取りに辟易しつつ、ギャルは肩からずり下がった鞄を掛け直す。この雰囲気にも、若干慣れつつあった。
喪女は、スイスイっと親指を滑らせてスマホを閉じ、リュックの脇ポケットに逆さに入れ込む。ぐっ、とポケットの底に押し込んで、茹だる暑さの下、本日初めて喪女から話題を提供する。
「それなら、俺からも一つ、言って良いかな——俺の名前、くまくらで読み方も発音も合ってるんだけど、漢字はどう書くと思う?」
「漢字? 動物の“熊”に、倉庫の“倉”で、“くまくら”でしょ?」
「半分正解。“熊”は合ってる。誤答は“倉”のほう。でも安心して、私の名前は正答率50%だから」
「ん? うん」
「“くら”をよく、倉庫とか、冷蔵庫とかの、倉・蔵・庫って間違われるんだけど……正しくは、馬の背中に被せる“鞍”。 熊の革が安い、で“熊鞍”なんだ」
「ん? うん」
丁度、喪女の解説が終わったタイミングで、紺色の軽自動車がフェンスの内側に入り、2人が立つ柱の前で止まった。
一瞬も躊躇うことなく喪女は、後部座席のドアをスライドし開けて、いそいそと乗り込む。ボタン式のドアが閉じ切る前に、軽自動車は颯爽と走り出し、逃げるように去ってしまった。
最後の1人、あまり者となったギャルは寂しさのなか、独りごちる。直前の会話で口を挟みたいことはいっぱいあったが、今となっては後の祭り。それでも思うところを、寂寥に負けずぽつりと呟く。
「熊鞍ちゃん、あんたも充分細かいよ……」
ひゅーっ、と風がようやく吹いた。
たとえ鼻ででも笑っていただければ、作者としては御の字。
何かありましたら何かしていただけると幸いです。