表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

浮気男と縁を切ったら、悪魔の婚約者ができた件について

作者: 香月航

一迅社ゼロサムコミックス様より発売の『悪役(人外)に偏愛されてます! アンソロジーコミック』に収録していただいた作品の原作です。

漫画は押川いい先生にご担当いただきました。素晴らしいコミカライズを本当にありがとうございます!

2023年10月31日のハロウィン発売

 悪魔召喚。

 それは、魔法という奇跡の術がとうに失われた世界でも、禁忌中の禁忌だ。

 悪魔が現れたとされる記録を探せば、結果は悲劇一色。多くの人が苦しみ、絶望し、時には国単位で人命が失われている。

 子どもでも納得できるほど、理由が明らかな犯罪である。


「こんにちは、サーシャ。まさか君に呼んでもらえる日が来るなんて、嬉しいな」

「ご足労いただいたところ大変申し訳ないのですが、私は決っっして召喚主ではありません」


 ……なので、当然サーシャも罪を犯すつもりなどないし、そもそも召喚儀式の方法を欠片も知らない一般人なのだが。

 どんな運命の悪戯か。本日、悪魔と思しき存在Xと対面してしまった次第である。


(何がどうしてこんなことに!?)


 現実は変わらないとわかっていても、思わず頭を抱えてしまう。

 まず、この場所……とある公共施設の地下二階にいるのだって、サーシャの意思ではない。

 ここを指定して呼び出されたから仕方なく出向いたのであって、本来の目的は同施設の庭で行われているガーデンパーティーのほうだ。

 こうした行事は招待状が不要で、ある程度の教養があれば誰でも参加できるため、出会いと交流の場として注目を集めている。

 主催も有名な貴族数家の共同企画となれば、信頼性も抜群だ。

 ……一応、サーシャの生まれたリプセット家は伯爵位を賜る貴族なのだが、最近は〝とある事情〟で社交の表舞台に出づらい立場に置かれている。

 そんなサーシャでも参加が可能な、ありがたい社交の場。告知された日から三か月、ずっと楽しみにしていた。


(なのに、こんな場所に呼び出されたと思えばこれだもの……はあ)


 呼び出し主は、友人と呼ぶのは遠慮したい、ちょっと因縁のある相手だ。

『大事な話』という誘い文句を信じてしまった自分の落ち度とはいえ、まさか犯罪現場で、しかも悪魔をなすりつけられるなんて。一体誰が想像できようか。


(悪魔が、本当に存在したのも驚きだけど)


 悪魔という存在について、確たる説といわれているのは〝背中に黒い翼を持っていること〟だけなのだが――目の前にいる男性には、どう見ても飾りには見えない美しい翼があった。

 カラスのそれに似た羽毛はかなり大きく、艶やかに広がっている。

 光源が蝋燭だけの薄暗い部屋で邂逅しているのに、何故か不気味な雰囲気は一切なく、どこか神々しさすら感じる佇まいだ。


「どこから見ても、他は人よね。顔とか……」

「俺の顔に興味があるの?」

「わっ!?」


 呟いたサーシャに証明するように、男は上半身をかがめて顔を近づけてきた。

 とっさに一歩後ずさったが、そのまま視界に入った『美の暴力』にサーシャは息を呑む。

 褐色の肌に、翼と同じ艶やかな黒い髪。彫りの深い異国風の容貌は計算し尽くされた見事な配置で、もはや芸術品の域だ。

 長いまつ毛に縁取られた瞳は、空のような澄んだ青。

 そこに宿る熱が、かろうじて彼が生き物なのだと信じさせてくれた。


「ぜ、絶世の美形って、本当にいたんですね……」

「悪魔だからね。降りる時は器……身だしなみはちゃんとして来るよ。サーシャが俺の顔を気に入ってくれたなら、嬉しいな」

「気に入るとか、そんな。私ごときがおこがましいです」


 もう格が違いすぎて、見惚れる以外に何もできない。

 一応でも貴族令嬢として美術、芸術の類はそれなりに見てきたが、彼の前では全てがかすんでしまった。国宝と言われても信じられる。

 装いはシンプルな白いシャツとパンツだけなのに、その簡素さすらも本人の美しさを引き立てていた。


「そう? むしろサーシャにだけは思ってほしいけど」


 彼は二、三度目を瞬かせた後、ふわりと柔らかく微笑んだ。

 蕾が花開く瞬間のような、美しくも温かい笑い方だ。……今の表情だけで、心臓の弱い者は死んでしまいかねない。


(これが、古来から魂を奪うと言われている悪魔の魅力! 全部持っていかれるのも納得だわ)


 彼の魅力のすごさに、一周回って冷静になってくる。

 悪魔がかかわる事件は凄惨なものばかりが歴史に残っているが、これほどの美丈夫を傍に置いておけるのならば、命ぐらい喜んで差し出す者がいてもおかしくない。

 もしかしたら、戒めを兼ねた誇張記録の可能性もありそうだ。


(地味代表の私としては、隣じゃなくて三歩ぐらい後ろに立ちたいけどね)


 くすんだ灰色の髪にこげ茶色の目。顔立ちも特筆できるところがなく、パッとしない容姿の娘がサーシャだ。

 十七年もこの顔で生きてきたので、今更何も言うつもりはないが……少なくとも、『この美貌の悪魔を侍らせるために罪を犯したい』という思考には至らなかったので、地味で自信の持てない容姿に今だけは感謝である。


「……そうだ、魂!」


 現実逃避のようにあれこれ考えてしまったが、真の問題を思い出してハッとする。

 悪魔召喚が禁忌とされる理由の一つは、〝召喚主が対価として魂を捧げること〟だ。

 魂とやらが何なのか具体的にはわからないものの、単純に考えれば命だろう。

 つまり、召喚主は命と引き換えに悪魔と契約をかわすということ。


「あの、あなたを呼び出す準備をしたのは、本当に私ではないのですが」

「そうだろうね。毒虫とか仔羊の血とか使っているし、サーシャがこれらを集めて準備をしたとは俺も思っていないよ」

(そんなものが使われているの!?)


 薄暗いことも相まって、周囲を確認していなかった。

 ……というのも、サーシャがこの地下階に下りるタイミングを見計らわれていたのだと思われる。


(用意の周到さに涙が出そう)


 自分がそれほどまでに恨まれていたとは考えたくないが、事実悪魔は召喚されてしまっており、彼は『君に呼ばれた』と言っていた。


「準備をしたのが別人だとわかっていても、私が召喚主になるんでしょうか?」

「そうだと嬉しいけどね。でも、心配しないで。悪魔といっても、問答無用で魂をとったりしないから。全ては契約……俺が君の願いを叶えてからだ。召喚主と契約者が違うことだっていくらでもあるし」

「そうなんですか!」


 サーシャの視界がパッと開けた気がした。

 契約さえしなければ魂をとられないのなら、このまま彼と別れてしまえばいいのだ。

 後々現場にいたことを追及されるかもしれないが、ここに呼び出された証拠の手紙は持っているし、探られたところでサーシャに痛む腹はない。

 なんなら、第一発見者として通報してしまえば、捜査に協力する意思があると受け取ってもらえるはずだ。


(よし、じゃあ早速……)

「――本当にそれでいいの?」


 去ろうとしたサーシャの耳に、低く甘やかな声が飛び込んでくる。

 それは、悪魔の名に相応しく蠱惑的で、踏み出そうとした足も固まってしまった。


「君、今困っていることがあるだろう? 本当にこの機会を逃しても大丈夫?」

「な、なにを、いって……」

「俺は悪魔だ。ヒトの世には影響のない、第三者。別に契約を結ばないとしても、話を聞くことぐらいはできるよ」


 困っていることは、本当にない?

 全てを見透かすような青眼に見つめられて、心臓が止まったように錯覚する。

 ……実は、困っていることは、ある。

 それこそ、日々神霊の類に願うぐらいには、困っているとも。


(でも、まさか悪魔に?)


 冷え切った両手を祈りの形に組み、彼を見返す。

 まっすぐな視線はずっとサーシャを捉えているが、微笑みは柔らかく、そこには慈愛すら感じられた。

 見た目だけなら、それこそ天使と思えるような。


「聞いてくださる、だけ?」

「とりあえずはね」

「……困っていること、あります」


 するりとこぼれたサーシャの声は、意外にも震えていなかった。


 サーシャの困りごととは、自身の婚約者ブレイクについてである。

 家格は一つ上の侯爵位を賜るイアランド家。だが、彼の家は事業に失敗してしまい、多額の借金を負っていた。

 そこで、資金援助を条件に婚約したのが今から六年前のこと。彼も彼の家もサーシャたちに心から感謝をしてくれ、円満な関係を築いていた……はずだったのだ。


「完済にかかった期間は、三年ぐらいだったと思います」


 借金をきれいさっぱりなくし、利子付きでサーシャたちに返済も終えたイアランド侯爵家は、この出来事をバネにして急成長を遂げていく。

 四年が経つ頃には、借金をする前よりも資産がずっと増えていた。国内でも指折りの良家として評判になり、サーシャも自分のことのように喜んだものだ。

 ……ところがこうなってくると、ブレイクは婚約を不満に思い始めたらしい。

 破竹の勢いで成長していく彼に対して、婚約者のサーシャはパッとしない地味な女。

 ブレイクの中で『自分はもっといい女と縁を結べるはずなのに』という思いは日に日に強くなったようで、同時にサーシャへの対応もずさんになっていった。

 しかし、助けてもらっておいて用が済んだらサヨナラでは、あまりにも外聞が悪い。

 ――そうして彼が選んだ方法は、〝サーシャから婚約解消を言ってくるように、嫌がらせをすること〟だったのである。


「わあ、最低。ヒトってたまに、俺たちよりもはるかにタチが悪いよね」

「私もそう思います」


 呆れたように目をすがめた彼に、サーシャも苦笑しか返せない。

 本当に、人間はどこまでも厄介で残念な生き物だ。こんなものに付き合わされる彼ら悪魔も、ある意味被害者なのかもしれない。

 とにかく、現在の婚約者は、手紙は返さない、贈り物もしないし受け取らない、エスコートもしないと義務をまるっと無視した挙句、サーシャの悪評をないことないこと嘯いている。

 サーシャが最近社交の場に出られなくなったのも、このせいだ。

 しかも、新しく恋人を作って公に連れ回すようになった。

 実はその恋人……いや、浮気相手のシンシアこそが、本日ここにサーシャを呼び出した張本人である。


(恨まれているのはわかっていたけど、さすがに悪魔召喚の犯人に仕立て上げられるとは思わないわよ)


 サーシャだって彼に未練は微塵もない。悲しいとは思うが、最初から恋愛感情はない相手だったのだから。

 それに、早く縁を切りたくとも、共同でやっていた事業の清算があったり、あちらの親が解消に反対だったりと色々理由があったのだ。

 跡取り息子のブレイクが知らないとは思えないが……何にしても、彼の嫌がらせのせいで大変迷惑しているのが現状である。


「……サーシャはさ、今の婚約者と別れたくないと思っているの?」

「むしろ別れたいですね」


 おもむろにかけられた質問に、腕で×を作って返す。

 いくらパッとしない家の地味娘にだってプライドはある。結婚前から浮気する男なんて、大金を積まれてもお断りだ。

 即答したサーシャに一瞬瞠目した彼は、次の瞬間には蕩けるような甘い微笑を浮かべた。


「じゃあやっぱり、俺と契約……いや、婚約しようか」

「何故!?」


 ななめ上に飛んだ提案に、悲鳴のような声が出た。

 契約しなくてもいいと言うから話したのに、やっぱり悪魔は悪魔なのか。


「何故って、そのほうがサーシャにとって良いと思うからだね」


 依然ニコニコと笑ったままの彼は、サーシャの手を取るとゆっくりと解説を始める。

 まず、契約内容は〝サーシャが死ぬまで守る〟とする。これでサーシャは寿命以外で死ぬことはまずなくなるし、魂もその後に回収するので問題はない。

 次に、彼と婚約をすることで、今の阿呆な婚約者と円満に縁が切れる。今後、彼以上の相手が見つかれば、そちらと結ばれればいいこと。

 契約内容自体は婚姻にはかかわらないので、サーシャが別の人間と結婚しても、守る契約は継続される。


「もし他に、どうしても叶えたい願いがあるなら、そっちを優先するけど」

「命がけで叶えたい願いはないですね。……でも確かに、ご提案いただいた内容は、私には利点しかないです。あなたはいいんですか?」

「俺はサーシャが死ぬまで傍にいられるし、死後は魂がもらえるから問題ないよ。実は王侯貴族の願いでよくあるんだ。絶対強者である悪魔に〝寿命で死ぬまで守ってくれ〟っていう契約」

(それは……納得はできるわね)


 今すぐに魂を奪われるわけでもなく、むしろ死ぬまで守ってもらえるなんて、素晴らしい契約内容だ。

 過去の記録から考えても、人一人守りきることぐらい悪魔にとっては造作もないだろう。基本単位が『国』の存在なのだから。


「それでも、婚約するのはどうかと……。そもそも、悪魔に可能なんですか?」

「できるよ。実はこの国の貴族に伝手があってね。誰も殺めることなく、平和かつ安全に婚約を結べるんだ。もちろん、俺が悪魔だとバレない自信もある。約束するよ」

「そこまで……」


 彼の一言一言には自信が溢れていて、説得力もある。

 もしかしたら、これこそが悪魔の手口なのかもしれないが……どのみち、今のサーシャは貴族令嬢としては崖っぷちなのだ。

 婚約者が流した変な噂のせいで、最近は〝ぼっち〟にますます拍車がかかっている。ただでさえ友達も少なく、誤解を解くのが大変だというのに。


(どうせうまくいっていないなら、やれることを試すのはありなのかも)


 わずかな逡巡の後、サーシャは掴まれたままの手に力を入れて、彼の指を握り返した。

 それを返事と受け取ったのか、彼はその手を引き、サーシャの手の甲に唇を寄せる。


「ひゃ!?」

「俺はテレンス。君の命が終わるその時まで、共に在る悪魔だ」


 細められた青眼が、妖しく光る。

 選択を誤ったかと後悔したのは、ほんの一瞬のこと。

 瞬いた次の時には、周囲の景色がガラッと様変わりしていた。


「……え? な、なに?」


 薄暗く、なんとなくごちゃごちゃしていた空間はスッキリと片付き、大型のランプが煌々と何もない床を照らしている。

 彼……テレンスの装いも、簡素な私服からきちんとした正装に変わっていた。

 白を基調としたのは変わらず、上着の中には同色のベストと仕立ての良い黒のシャツ。青薔薇のピンを留めたクラヴァットが洒落ていて、どこから見ても貴族の令息にしか見えない。


(いつの間にこんな……それに、明るくなって気付いたけど、この人顔だけじゃなくてスタイルもいいのね)


 身長はサーシャよりも頭一つ分高く、すらっと伸びた脚も長い。衣服の着こなしから察するに、引き締まった体つきも想像できた。

 先ほどまで広げられていた翼がなくなったことも相まって、異国の王子様といった印象だ。


「さあ行こうか、サーシャ。お客様がお待ちだよ」


 白手袋をはめた彼の手が、掴んだままのサーシャの手を丁寧に引いて、エスコートしてくれる。


「お客様?」

「ここに呼び出された時点で、なんとなく察しはついていただろう? まあ、俺に任せてくれれば大丈夫だから、傍から離れないでね」


 彼の誘う声は、どこか嬉しそうにも聞こえる。

 不思議に思いつつも先導されるままに足を進めて――その意味は、建物を出てすぐにわかった。


「出て来たわね! この犯罪者!!」


 高らかに響く糾弾の声に、サーシャの思考がまたしても固まってしまう。

 施設の出入り口には多くの人が集まっており、その大半は紺色の制服を来た警備隊員たちだった。

 彼らの後ろには観衆も集まっており、その先頭にいる人物には見覚えがありすぎる。

 ――サーシャの婚約者ブレイクと、その浮気相手のシンシアだ。


「……何事ですか?」


 サーシャをさっと背に庇い、一歩前に出たテレンスが問う。

 彼のあまりの美貌に警備隊員たちもたじろいだが、すぐに表情を引き締めると、腰の警棒に手をかけながら近付いてきた。


「実はこの建物で、悪魔召喚の儀式を行っている者がいる、と通報を受けてね」

「はあ……悪魔、ですか?」


 テレンスは驚きの表情を作った後、訝しげに首を傾げた。

 なんとも白々しいが、演技っぽさは一切感じられない。


「もしかして、俺のことでしょうか?」

「確かに、お兄さんはびっくりするぐらいの美形だが、化け物には見えないね。……後ろの建物、調べさせてもらってもいいかな?」

「もちろんです。俺はサーシャがこの建物に呼び出しを受けたので、心配でついてきただけですから」


 どうぞ、とテレンスが体を横にどけると、すぐに何人かが中へ駆け入った。

 残った警備隊員が『呼び出し』について確認してくるので、サーシャも受け取った手紙を迷うことなく差し出す。


「……なるほど、ここが指定されているね。差し出し人のシンシアという女性は?」

「そこの派手なお嬢さんですよ。サーシャの婚約者の浮気相手ですね」

「ああ、そういう……」


 色恋のいざこざというしょうもないオチを悟った警備隊員たちが、冷めた視線をシンシアに向ける。

 あまり意識したことはなかったが、金色の巻き毛に化粧もバッチリ決めた彼女は、〝派手な女性〟で間違いない。

 その彼女は、ぽーっとした顔でテレンスを見つめて突っ立っていた。


「彼女は通報者だね。ということは、ただの嫌がらせだった可能性もあるかな」

「俺はそう思いますよ。サーシャと別れさせるために、社交界でもおかしな噂を撒いていたようですし」

「隊長、内部にも特に異常はありません。備品のランプが一つ動かされていましたが、それ以外は何も」

「だろうな。悪魔召喚の儀式跡といったら、例外なく惨状になってるそうだ。オレは現場を担当したことはないが、建物に入った時点でひどい異臭がするからすぐにわかるらしい」

(そうなの!?)


 淡々とした彼らの会話にサーシャのほうが驚いてしまう。

 何せ、テレンスが現れるまで何の異変にも気付かずにホイホイ入ってしまったのだ。

 ……いや、先ほど一瞬で痕跡を消したテレンスなら、隠せていても不思議ではないが。


「邪魔したね二人とも。警備隊は色恋ごとには不介入だから、後はまあ頑張って話し合いをしてくれるかな。悪戯通報の件は、こっちからも注意しておくよ」

「お疲れ様です。こちらこそ、何やらご迷惑をおかけしてすみません」


 やれやれ、と肩をすくめた警備隊員たちは、シンシアを睨みつけながら会場から去っていく。

 一気に白けた空気になったせいか、集まっていた人々……恐らくガーデンパーティーの参加者たちも、あっという間に散り散りになった。


「え? ちょっと!? そんなはずないわ……どうして!?」


 ただ一人、現実を見て我に返ったシンシアだけは、抗議の声を上げている。

 やはり、テレンスを呼び出した本当の召喚主は、彼女で間違いなさそうだ。


「さて、じゃあ行こうか、サーシャ」

「ど、どこに?」

「すぐそこの浮気野郎に、引導を渡しに」


 にっこりと極上の笑みを浮かべたテレンスにエスコートされて、サーシャは婚約者と浮気相手の前に連れ出される。

 彼らが浮かべる表情は不快のみで、今も婚約関係にあるのが嘘のようだ。


「あの……」

「初めまして、浮気性のクソ野郎様。かねてからのあなたのご要望通りに、婚約解消をお伝えしに参りました」

(いきなり何を言うの、この悪魔!?)


 キラッキラの顔から飛び出た悪意百パーセントの言葉に、サーシャはもちろん、相手の二人も絶句する。

 まずその美しいご尊顔から『クソ』なんて言葉は聞きたくなかった。


「……名乗りもなく失礼な男だな。お前はその女の何だ?」


 だが、さすがは侯爵令息。すぐに気を取り直したブレイクは、冷たい声で問いを返す。……顔が醜く歪んでしまっているのは触らないであげよう。

 一方のテレンスは冷たい視線も物ともせず、それはそれは嬉しそうに答えた。


「俺はテレンス・アシュバートン。サーシャの新しい婚約者です」

(アシュバートン……アシュバートン侯爵家!?)


 彼の名乗りに、空気がガラッと変わる。

 というのも、その家は色んな意味で特別で、複雑だからだ。

 アシュバートン侯爵家は、今から十年と少し前に――犯罪者を出した家なのである。


(忘れもしないわ。……私はあの日、捕縛現場にいたもの)


 かの家とサーシャの家には取引関係があり、当日は運悪くその場に居合わせてしまっていた。

 罪を犯したのは、その家の一人息子だけ。

 罪状からあっという間に彼は極刑となり、アシュバートン侯爵家も取り潰されるものと思われていた。

 しかしながら、両親が国王に重用される優秀な人物であったため、大半の領地を返還することで取り潰しを免れたのだ。

 夫妻は被害者の一人である孤児を養子として迎え、ひっそりと余生を送るはずだった。


 ……ここまでならただの悪名なのだが、かの家はその後、一つ大きな功績をあげている。

 国内で唯一、とても貴重な果実の生産に成功したのだ。

 屋敷を含んだわずかな領地での生産にもかかわらず、その希少性から売り上げ高は凄まじく、今ではすっかり名誉を挽回している。

 国王も領地を戻して生産を増やしてほしいと再三頼んでいるものの、謙虚な夫妻は逆に爵位返上を申し出るほどで、それがますますアシュバートン侯爵家の評価を上げた。

 ちなみに、彼らは生産を増やすこと自体には賛成で、度々方法を教えたり苗木を分けたりしているのだが……残念ながら、よその土地では一度も成功していない。

 宝は謙虚な者のもとでしか育たない、と有名な話である。


「じゃあ、あなたが……」

「そう、その養子だよ。社交界に出なかったのは、まあこんな顔だからね」


 パチンとウインクした彼に、正体を知っているサーシャも押し黙る。……こんな超絶美形が社交界に現れたら、大変なことになるのは火を見るよりも明らかだ。

 アシュバートン侯爵夫妻の性格を考えても、養子が目立つのを嫌がれば受け入れてくれるだろう。

 そもそも実子が捕縛された時点で、夫妻は貴族としての人生を完全に捨てている。


「伝手って、そういうことだったんですね」

「うん。とは言っても、当主夫妻は俺に家を継がせるつもりはないみたいだから、アシュバートン侯爵家は絶える予定なんだ。ただ、あの土地と果物は、俺の結婚相手に全部渡してくれる約束をしてる」


 ……つまりは、絶世の美丈夫が婿入りしてくれるだけでなく、狭くとも莫大な利益を上げている土地がオマケでついてくるということ。

 それなら、ブレイクの家と縁を断っても両親は喜んでくれること間違いなしだ。利益だけで考えても、圧倒的にテレンスとの結婚に軍配が上がる。

 もっとも、サーシャの両親は野心のない地味な貴族なので、婚約解消となった娘をもらってくれる相手というだけで喜びそうだが。


「そういうことですので、あなたはその浮気相手さんとお幸せに。俺がサーシャを幸せにしますので、ご心配なく」

「ハッ、所詮は社交界を知らぬ凡人の選択か。そんなつまらない女を選んだこと、一生後悔するぞ」

(そのつまらない女に頭を下げなければ路頭に迷っていた男が、よく言うわ)


 喉元過ぎれば何とやら。やはり悲しくはあるが、こんな男と縁がなかったことを喜ぶべきかもしれない。

 とにかく、これでサーシャの変な噂が流されることもなくなるはずだ。


「……ははっ」


 と、テレンスの口から小さな笑いがこぼれた。

 何かと思えば、彼はサーシャの手をぐいっと引き、腕の中に抱き寄せてくる。


「えっ、あの!?」


 突然のことに困惑するものの、思った以上に腕は逞しく胸板も厚い。これは逃れられそうにない。

 諦めてテレンスの顔を見上げれば、彼は口角を吊り上げて笑っていた。

 それはもう、背筋が寒くなるほど、壮絶に艶やかな顔で。


「……後悔するのはどちらだろうね。ああ、本当に、俺のサーシャを手放してくれてありがとう」


 晴れた空の下にいるのに、肌が粟立つ。

『元』になった婚約者の足元から、ジャリッと後ずさる音が聞こえた。


「そしてご愁傷様。後は堕ちるだけだ。永遠に、地の底まで。……絶望を楽しむといい」


 低く、重く、聞いたことを後悔しそうな冷たい声に、サーシャも呼吸を忘れる。

 彼の顔は笑っているし、視線はずっとサーシャに向けられている。

 ――だからこそ、〝それ以外〟に向けられた冷酷さに、喜びよりも恐ろしさが勝った。

 彼は、やっぱり悪魔だ。人間の命を路傍の石ころ程度にしか思っていない悪魔だ。


(なのに、どうして……)


 サーシャのことだけは、蜂蜜に砂糖を足したような甘ったるい目で見つめてくるのか。

 まるで、長い間焦がれていたものをようやく手に入れたような。

 渇望や執着と呼べる、そんな目で。


(それに、おかしいこともあるわ)


 サーシャは今日、テレンスと初めて会ったはずだ。

 なのに彼は、サーシャの名前を知っていた。困っていることも知っていた。

 アシュバートン侯爵家との繋がりについても、サーシャにとって都合がよすぎる。

 本当に、今日起こったことは全て、偶然なのか……。


「さ、用も済んだし、一緒に帰ろうサーシャ。ご両親に婚約解消と新しい婚約の話をしないと。大丈夫、俺に任せてくれれば絶対に幸せにしてみせるよ」

「あ……」


 自信と愛情に満ちた青眼に、困惑するサーシャの顔が映っている。

 抱擁はまだ解けず、温かな檻のようだ。


(彼の言う通り。私は彼と一緒にいれば、多分幸せになれるわ。でも……)


 ――この悪魔からは、逃れられない。

 そんな確信が心を埋め尽くす。果たしてそれは、本当に幸せなのか。

 自分の選択は、本当に――。


「…………いや、やめよう。重いことを考えたら悪化するに決まってるわ」

「サーシャ?」


 思考を途中で切ったサーシャに、彼がこてんと首を傾げる。

 こんな超絶美形が、地味でパッとしない自分に何らかの執着を持っているのだとしたら、それが幸運以外の何だというのか。


(怖いと思うから怖いのよ。なんかとんでもなく良い男と婚約できた! だけ思えば、最高じゃない)


 おもむろに、彼の頬に手を伸ばしてみる。

 テレンスは少し驚いたが、そうっと手のひらに顔を寄せてくれた。

「どうしたの?」と、ちょっと照れたような、くすぐったい表情を浮かべて。


「……私、あなたを好きになりたいと思います」

「本当?」


 無意識にこぼれた言葉に、テレンスはますます嬉しそうに笑う。

 先ほど見せた色っぽいものとは違う、どこかあどけない笑い方だ。

 ……少なくともサーシャは、今の笑顔はとても素敵で、好ましいと思えている。


「契約でも婚約者ですから。ブレイクは失敗しましたけど、やっぱり好きな人と結婚したいですし」

「そう思ってくれるなら嬉しいな。俺も頑張るから、これからよろしくね」

「はい、こちらこそ」


 恋人のようにぴったりとくっついているのに、「これから好きになる」なんて変な話だ。

 でも、逃れられない運命なら、本当に好きになってしまったほうが絶対にいい。

 彼が相手ならば、そう遠くない内に溺れてしまいそうな予感もある。


(ここからが本番ね。縁は結ばれてしまったのだもの。悪魔に飲み込まれないように、私は私にできることを精一杯やっていこう!)


 きっと、いや絶対に、これからの未来は明るい。

 そう強引に信じ込ませて、サーシャは新しい一歩を踏み出した。


   * * *


 ――ああ、やっと。やっと、サーシャが手に入った。

 大声で快哉を叫びたい気持ちをぐっと抑えながら、テレンスは腕に抱いた愛しい少女にただただ微笑み続ける。

 長い悪魔の寿命で考えれば大した時間でもないのに、今日に辿りつくまではずいぶん長く感じたものだ。


 ……サーシャも察している通り、テレンスは彼女を知っているし、昔一度会ったことがある。

 というのも、かのアシュバートン侯爵家の子息こそが、テレンスの前の契約者だったのだ。

 すでに罪を犯しており、逃れられない状況でテレンスを呼び出した彼の願いは『自分の代わりに処刑されること』だった。

 つまり、十年と少し前のあの日、サーシャが捕縛現場で見た子息は、化けたテレンスだったのである。


(罪状は何だったかな。もう覚えていないな)


 少なくとも、極刑になるような重罪だったことは間違いない。

 元は自分たちを守っていた領地の警備隊に縄をかけられ、衆人環視のもとで連れられていくのは、ヒトにとっては耐えがたい状況だったようだ。

 集まった人々からは罵声が飛び交い、護送車の準備をしている間には、いくつも石を投げつけられた。

 その程度、悪魔のテレンスにとっては、何でもないことだったのに。


「……大丈夫ですか?」


 警備隊に一度下げられた自分のもとに、幼い少女がハンカチを差し出してきた。

 どうやら、投げられた石が当たって、額から出血していたらしい。

 彼女は両手を縛られているのを確認すると、恐々と傷にハンカチを当てて、小さな手で労わってくれた。


「……お嬢さんは、犯罪者が怖くないのかな?」


 常とは違う作った声で訊ねれば、彼女は少しだけ困った顔をした後に、囁くように答えた。


「悪い人だからって怪我をさせたら、自分も悪い人と同じになっちゃいますから。……それと、うまく言えないんですけど……〝あなたは違う〟気がしたので」


 ぽつぽつとこぼす彼女に、少しだけ焦りが走る。

 まさかこの少女は、悪魔が化けていることに気付いているのか?

 警戒しながら探ってみるが、彼女もうまく言語化できないのか、結局唇をもにょもにょさせるだけで黙ってしまった。

 ――それでも、去り際に彼女が問うた言葉は、確かにテレンスに届いた。


「心が嫌がるお仕事は、しなくてもいい時もあると思います。あなたは、大丈夫ですか?」

「…………」


 彼女が、何を思ってテレンスに問いかけたのかはわからない。

 しかしながら、それは当時のテレンスにとって、とても意味のある言葉だった。

 ――テレンスは、同族の中でも召喚に応える機会の多い悪魔だったのだ。


 初めはヒトというものへの好奇心から。悪魔には力があるのだから、弱者に乞われたら応えてやるべきだと思い、そうしていた。

 だが、悪魔に託す願いなんて、大抵は命のやりとりをする重いものばかりだ。

 ヒトの死に何度も何度も触れ続けて、要りもしない魂だけが溜まっていく。

 ……別に悪魔は、魂を食べずとも存在していられる。魂はあくまで対価だ。


(悪魔が召喚に応えてやるのは、娯楽であり暇潰し。だから、俺も辞めればよかったのにな)


 同族たちは早々に飽きて、価値のない魂からの召喚には応じなくなった。

 唯一テレンスだけが、義務感で淡々と応じ続けた。

『誰かが応えてやらなければ、可哀想だ』そんな風に思っていたのは、果たしていつまでだったか。


 気がつくとテレンスは、何も感じなくなっていた。

 思考を停止し、ただ呼び声に応えるだけの『モノ』になり果てていたのだ。

 同族曰く、ヒトの世では〝過労鬱〟という精神状態だったらしい。


(そんな俺に、サーシャだけが「大丈夫か」と心を配ってくれた)


 あの日サーシャのくれた言葉が、死体同然だったテレンスを起こした。

 単なるきっかけと言えばその通り。むしろ、悪魔の気配をなんとなくでも感知していた彼女の鋭さは、警戒すべきだ。

 それでもテレンスは、目を覚ます一言をくれた彼女に、とても惹かれた。

 初めて誰かをほしいと思い――悪魔らしく、誰にも渡さないと誓った。


(心さえ決まれば、やるべきことは沢山あったな)


 まずは子息としてサクッと処刑され、契約者の魂を回収すると、テレンスはサーシャと再会するために行動を始めていく。

 この辺りは『代わりに処刑されろ』だけを願い、その後の人生について何の約束もしなかった子息の落ち度ともいえよう。

 息子を失った侯爵家には養子縁組をさせ、対価として希少果実の苗を授けた。

 ……契約を終えた悪魔はヒトの世には留まれないので、養子関係が書類上だけというのは、サーシャには内緒だ。

 代わりに与えた果実は、実は大昔の悪魔がヒトの世で作ったものだ。

 育成に条件があり、〝悪魔が許した土地でなければ育たない〟という特異植物である。

 できるものは美味しくて栄養価が高いだけの実だと思われていたが、これが多くの病の特効薬にもなるらしい。

 絶えるだけだったアシュバートン侯爵家は、それなりの評価を取り戻せた。


(そこからは本当に、忍耐力との勝負だったな)


 契約していない悪魔ができる干渉など、ごくわずかなものだ。

 それこそ、よそに放った蝶の動きで影響を及ぼしていくような、気が遠くなる作業。

 でも、サーシャのことは譲れなかった。

 ……彼女が普通ではないと気付いてからは、なおさらに。


(本人に自覚はないみたいだけど、サーシャは〝幸運の招き人〟だ)


 魔の力から遠ざかった今の世では、十万人に一人いるかどうかの貴重な特性。彼女は己が大切に思う者に幸運を招く、奇跡の存在でもあったのだ。

 イアランド侯爵家が持ち直せたのもこのためで、運を味方につけた者はとにかく強い。

 彼女の生家リプセット伯爵家も目立たないようにしているだけで、もちろん恩恵を受けている。ただの地味な伯爵家に、傾いた侯爵家を助けられるほどの財力があるわけがないのだから。

 ……あの愚かな元婚約者は、気付いていなかったようだが。


(招き人は、本人が特別にならないのも特徴だからな)


 有名な四つ葉のクローバーが野草であるように、その価値はわかる者にしかわからない。

 だから、テレンスがあの男に告げた言葉は、ただの自業自得なのだ。

 今まで当然のようにあった幸運を失ったブレイクは、後は堕ちていくだけ。

 頂きを知った以上、〝元に戻るだけ〟でも屈辱に感じるだろうし、根拠のない自信と傲慢さは彼をどんどん蝕んでいく。


(俺は違う。俺はサーシャだからほしい)


 無論、招き人であったことは喜ばしい付加価値だが、他の悪魔にも目をつけられてしまう危うさでもあった。

 ゆえに今日、強引にでもサーシャと契約を結ぶしかなかったということだ。


(あのシンシアという女も、強欲な愚か者でよかった。よくぞちゃんと召喚儀式の準備をしてくれた)


 今日の儀式も、テレンスがだいぶ遠くからだが手を回して実現したものだ。

 この日、この時間、他の誰でもなく一番初めにサーシャと会えること。

 綱渡りのような賭けに、テレンスは見事勝利し、初恋の彼女との契約に辿りついた。


(やっとだ。今日まで君の頑張りを、ずっと見ていたよ、サーシャ)


 周囲から軽んじられ、自分の価値を低く捉えても、決して誰かを傷つけたり恨んだりすることなく、今日までまっすぐ生きてきてくれたサーシャ。

 だから今日からは、テレンスが幸せにするのだ。

 この身、この力。国を平らげることすら可能な全てを、たった一人のために。




「……そうだ、お名前どうしましょうか。アシュバートン様?」

「テレンスと呼び捨てでいいよ。俺が婿に入るのだしね」


 なるべく優しい声で答えると、サーシャは頬を林檎のように染めながら、そっと視線を逸らして頷いた。

 こんなに愛らしい彼女を手放すなんて、やはりヒトの雄は馬鹿ばかりだ。


「サーシャ、必ず幸せにするからね」


 俺が初めて好きになったヒト。

 細い肩をしっかりと抱き寄せて、明るい空の下を二人で歩く。


 ――さあ、これから君が眠りにつく日まで、受け取ってくれ。

 どの生き物よりも一途で重い、悪魔の愛を。

フェアリーキスピュア様より発売中の書籍「悪魔な兄が過保護で困ってます」シリーズと同世界観(別の国)の短編でした。

興味を持ってくださいましたら、KindleUnlimitedなどにも入っておりますのでぜひ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ