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眠る

鯖と塩

作者: 浅田新太郎

 小さなちゃぶ台の上には、米が茶碗1杯、水がコップ1杯。おかずはない。強いて言えば、今日の思い出だろう。頭上の電球がこれらを寂しく照らしてくれる。今日を振り返りながら、私は箸を持って、米を頬張る。


 8月13日、火曜日、13時35分。暑すぎる。目覚めた瞬間の感想である。それもそのはず、今日の東京の最高気温は、35度近くであった。起き上がろうとするも、体が思うように動かない。軽度の脱水症状を起こしているのだろう。頭が働くことを拒否している。のどが痛い。世界が回っている。私は、最後の力を振り絞って、冷蔵庫に向かい、麦茶を1杯、2杯。ある程度、症状も治まったので、次の行動に移ろう。エアコンを起動し、引き続き惰眠を貪るのである。この姿を見て、勘のいい人間なら気づくだろうが、私は所謂無職である。

 人は私を醜く、哀れに思うだろうが、私はそう思わない。私は最高の二十歳である。それはなぜか。天才だから、女を誑かす才が私にはある。女性とは、幾度となく交遊してきた。名前などいちいち、覚えていないが。

 自分には、生きる価値がある、なんて軽い自己暗示をかけたところで、今日の予定を確認する。予定など無い、と勘違いしていたが、今日は彼女と会う約束をしていたのだ。集合は、15時30分に、上戸駅前の喫茶店。少しだけ寝てから、準備するか。 


 15時00分、私はアパートの階段を下りた。築50年のボロボロなアパートだが、駅近で家賃は1万円、私にはお似合いの物件だ。 

 しかし、今日は、なんて暑さだ。最高気温35度と言っていたが、40度あるのではないか?これも、地球温暖化の影響というやつだろう。皆がエアコンをつけているせいだ。全く、糞な時代に生きているもんだ。

 少し歩くと、最寄り駅に到着した。この時点で、着ている服は、汗でビショビショに濡れていた。まぁいい。私は改札を抜け、ホームに向かった。電車は既に到着しており、やっときたか、とでも言うように、乗車した瞬間に、発車の音楽が流れ出した。電車内は冷房が利いており、なかなかに快適であった。おまけに乗車客など皆無で、席は選び放題であった。私は中央の左端の席に座り、外の景色を眺望していた。見回す限り、家と緑しか無かったが、この景色は嫌いではない。

 電車に揺られ、4、50分。上戸駅に到着した。駅周辺は、なかなかの都会なので、乗客が一気に増えていた。上戸駅は人でごった返していたため、人口密度が異常な程、高かった。ここにいては、死んでしまう。そう思い、即刻、駅を出て、喫茶店に向かった。

 喫茶店へは早かった。駅から徒歩3分といったところだろうか。扉にはベルが付いており、チャリン、という音と共に入店した。中には、アイスコーヒーを上品に飲んでいる女がいた。黒い漆を塗りたくったような黒髪が肩の辺りまでのびている、美人さん。名は結香と書いてゆか。

「遅いよー!」結香は、眉間にしわを寄せ言った。

「すまん」

「それに汗だくじゃん!」

「あー。すまん」

 彼女は不機嫌そうに口をつねらせ、「まぁいいけど。」と無邪気に笑った。

「じゃあ行こっか!」

「どこ行くんだっけ」

「もう!映画見に行くって約束したじゃん」

 あぁ、そういえばそんなことも言ったような、言わないような。

「じゃあ行こっか。」

 喫茶店を出て、徒歩で映画館へ向かった。外は、まだ暑かった。


 鑑賞代金は、彼女が払ってくれた。チケットを渡されたときは、惨めすぎて、とうとう死んでみようか、という考えさえ浮かんだ。いつもそうだ。彼女と交遊する際は、いつも彼女が金を払ってくれる。

 いつしか、ヒモの男を侮蔑し、「ああなりたくはないな。」と思っていたが、今の私とあいつらで、一体なにが違うというのだろう。そう考えると、いよいよ死にたくなるので、この話はここで終結させよう。チケットには大きくタイトルが書かれており、その下に、18時30分と記されていた。あと、1時間30分ほど時間がある。これからどうするか。疑問に答えるように、

「ご飯食べに行こっか。美味しい定食屋さんがあるんだ。」

「でも、俺金ない。」

「いいよ、それくらい。奢ってあげる!」

「ありがとう。」

 なにも考えない。ただついて行くだけ。

 映画館を出て、5分ほど歩くと、古臭い商店街に到着した。人の存在を感じさせない、薄暗い通り。どの店も、閑古鳥が雄叫びをあげているようで、閉まったシャッターに飾られる看板には、「閉店」の文字が小さく書かれていた。女は突然立ち止まって、

「ここだ!」

 目前の店を指差しながら言った。なかなかに古臭くて、いかにも人気の無さそうな店である。中に入ってみると、客が数人。2人組のサラリーマンと1人のやせ細った爺さん。すぐさま、サラリーマン組を視界から除外し、あいている奥の4人掛けの席に向かい合わせで座った。

 店の人間には、婆さんがいた。婆さんしかいなかった。ヨボヨボだが、芯があり、頼りがいのある婆さん。

 婆さんを尻目に見た後、壁に垂れ下がっている、メニューを見た。結香は、

「私は、鯖の塩焼き定食にしようかな。」と言った。

「じゃあ俺は、肉じゃが。」

「え?定食じゃなくて?」

 私は奢ってもらう立場だということを弁えている。

「うん。おなかすいてなくて。」

 嘘だ、おなかはすいている。どれくらいすいているかといわれれば、肉じゃが定食を食べきった後、もう一度肉じゃが定食を食べきれる程度にはすいている。だが我慢だ。

 

 料理が届いた。豚肉とジャガイモ、インゲン豆が入った、一般的な肉じゃが、これこそ王道。美味そうだ。そして、これまた美味そうな匂いが漂ってくる、鯖の塩焼き。塩のいい匂いに手繰り寄せられ、目が離せなくなるが、あまり人様の食事を覗いてはいけない。自分の肉じゃがに目を移す。それでは、いただきます。

 一口大のジャガイモを崩し、食べる。崩し、食べる。たまに、豚肉やインゲンと一緒に食す。ちまちまと食べる素晴らしさを、私は知っている。目を閉じながら、舌で旨さ、甘さを慎重に味わう。目を開けてみると、既に、肉じゃがは無くなっていた。いつのまに。肉じゃがを堪能したので、結香の方を見ると、既に完食しているようだった。速すぎるだろう。時間を確認すると、18時10分を指していた。私の方がゆっくりしすぎていたらしい。結香は、

 「遅すぎ!早く映画行かないと。」

 彼女は支払いを済ませてくれたようで、私と結香は、婆さんに「ごちそうさま。」と告げ、映画館へ足早に向かった。


 映画は実につまらないものだった。内容は、根暗な女とやんちゃな男の恋愛物語とだけ言っておこう。これ以上は、恥ずかしくて、私の口からは出せない。

 結香の方を見ると、泣いていた。嘘だろう!これで?初めは女を幼稚だと考えていたが、冷静に考えると、つまらなく感じたのは、私が無職で、ヒモで、ひねくれているからだろう。

「感動したね!この映画面白すぎ!」

「そうだね。」

 私と結香は、映画館を出て、駅へ向かった。歩いている途中、結香は、映画の面白かったところ、感動したところをツラツラと語っていた。私にとって、それらはつまらなかったところだが。

 駅に着くと、結香は、

「また遊ぼうね。」

 そう言って、封筒を手渡してきた。中には、10万円ほど入っていた。私の生活費となる10万円。

「ありがと」

 私はそれを受け取って、改札へ向かった。結香とは、改札で分かれた。帰りの電車の中で、考え続けた。私が死ねば、結香は悲しむのか、それとも喜ぶのか、或いは・・・。死んでみるのもありかもしれない。そうだ、死んでみよう。        

 家に着くと、最後の晩餐として、茶碗一杯の米とコップ一杯の水を飲食した。味はよく分からなかった。さて、首でもつるか。私は凧糸を握った。

    

 8月14日、水曜日、12時15分。相変わらず、猛暑が続いていた。私は生きていた、というより死ぬことをやめた。死ぬのが怖くなったのではない。結香から貰った、10万円を使い切ってから死んだ方が良いのではないか?そう考えたのである。金を使うといっても、私には趣味がない。そのため、結香に使うことにした。結香から貰った金を結香の為に使う。向こうから見たら、「何を言っているのだコイツは。なら返してくれ」と思うだろう。うるさい。もう決めたのだ。私は死ぬために、金を使うのだ。もう何も言うな。

 そうと決まれば、結香に何をしてやろう。10万もあるのだ。ある程度のことはできるだろう。服を買ってやろうか、本を大量に買ってやろうか。そういえば、結香の趣味を知らない。次、会う時にそれとなく聞いてみるか。今日はもう、寝よう。扇風機を起動させ、布団に入った。おやすみなさい、日本よ。      

 

 8月17日、土曜日、9時30分。今日は少しばかり、涼しく感じた。といっても最高気温30度だが。目覚めもいい。自殺を計画してから、妙に調子がいい。久しぶりに朝食を食べるか。寝室を出てすぐの、キッチンに向かった。いや、シンクと冷蔵庫、電子レンジがあるだけの場所をキッチンと呼んでいいものか。冷蔵庫を確認すると、レトルトの米と卵が数個ほどあった。卵かけご飯以外の選択肢などおそらくないだろう。米を電子レンジに投入し、2分程待つ。その間に今日の予定を確認した。

 今日する事は、結香の趣味について、2人の思い出を頼りにいくつか候補をあげておく、それが終わったら寝る。以上。予定確認は5秒で済んだため、1分と少々、ボーッとラジオを流して待っていた。

 チン!可愛らしい音が鳴った。電子レンジから米を取り出し、卵を米の頭上に落下させる。割り箸を割り、これらをかき混ぜ、腹にかきこむ。旨い。10秒で食い終わってしまった。茶碗をシンクへ置き、水に浸す。割り箸はそのまま、ゴミ箱行き。

 さて、腹を満たしたので、早速本題に入ろう。結香との思い出を振り返ってみることにした、が全くといっていいほど、記憶が無い。脳みそのどこを探しても、見当たらない。そっか。彼女と出かける時は、脳死状態で行くようにしているのだった。惨めなのが嫌だったから。しかし、先程食べた卵かけご飯の効果があったようで、1つ思い出した。結香との出会いである。

 

 結香とは、高等学校1年目の春。たった5人で構成されている家庭料理同好会で出会った。当時は、私には、違う彼女がいた。声が大きく、よく目立つ女だった。一方、結香は、今では想像のつかないほどに根暗であった。そんな私たちが、交わる筈も無かった。

 結香と出会ってから数ヶ月後、ある事件が起きた。同好会に所属している、1人の生徒が喚いていた。

「財布が無い!!家庭科室に来るまでは、あったのに!!」

 それは、私の彼女だった。うるさいなぁ。そんな事でいちいち、喚くな。第一、盗まれて困るような物を学校に、持ってくるな。勿論、その様なことが、言えるはずもなく、私は、

「可哀想に。今までの行動を振り返ってみようか。」

「いいや!!きっと、この中の誰かが、私の財布を盗んだに違いないわ!皆、鞄の中を見せて!」

 あぁ、うるさいなぁ。この女は、ヒステリック気味で、一緒にいて鬱陶しい。今すぐにでも、別れたいのだが、彼女を取り巻くハイエナ女共が一斉に、「最低」だの「キモイ」だの、私に噛みつき、私が力尽きるまで離さないだろう。

 各々が愚痴を言いながらも、鞄を用意すると、女は、それを奪い取り、中身を確認すれば、そこら辺に放り出し、奪い取っては、放り出した。すぐに、結香の順番がまわってきた。女は、薄ら笑いを浮かべながら、鞄を奪い取り、中身を確認すると、財布が出てきた。

「あなた、これどういうこと!!」

 女は、ニヤニヤしながら、結香を問い詰めた。

「私、知らない。」

 結香は、無表情だったが、どこか狼狽しているようだった。結香の表情から、嘘を言っているようには見えなかった。それに、女は卑しい笑みを浮かべていたので、これはきっと、女が何かしらの動機で、結香の鞄に財布をぶち込んだのだろう。そう思った。これはチャンスだ。女と別れるチャンスだ。

「実は、俺見ちゃったんだ。お前が結香さんの鞄を、触っているところ。今思えば、財布入れてたんだな。屑野郎。」

 女は、見てたのか、と言わんばかりに、私を睨みつけていた。

どうやら、図星だったらしい。哀れだなぁ。

 周りを見れば、結香以外の2人は侮蔑するように、女を見つめていた。当たり前といえば当たり前かもしれない。女は傲慢な性格の為、日頃から威張り散らしている。当然、鬱陶しく思う者も出てくるだろう。2人は侮蔑の視線と共に、「最低。」「犯罪者。」など日頃の鬱憤をはらすように、罵倒する言葉が次々と送られていた。女とは怖いなぁ。私が嘘を言っているとは、疑わないのだろうか。いや、嘘だと見抜いたうえで、攻撃しているのかもしれない。

 結香の方を見てみた。綺麗だった。女に同情しているのか、今すぐにでも泣きそうであったが、それを堪える姿は、まるで、天女。天女など見たこともないが。反対に、女を見てみると、なんともまあ。結香と同じように、涙を堪えているが、その姿は鬼の形相。よくもまあ、この女と付き合いが続けられたものだな。

 数秒後、結香は泣いてしまった。何故これだけのことで泣くのだろうか。結香は今、何を考えているのだろう。

 ―2人共、この卑しくも、哀れな醜女を許してやってくれ、とでも考えているのだろうか。そんな事を考えていると、結香は、

「私は怒ってないよ。これからも一緒に料理しようね。」

 と言った。

 なんて慈悲深い御言葉だろう。今までの状況を見ていた者ならば、結香を褒め称えるだろう。しかし、加害者にとってその言葉は、とどめの一言である。女もとうとう、泣き出してしまった。

 「うるさい!もう話しかけるな!前から鬱陶しかったんだよ!!」

 女は、逃げ出した。走り去って行った。作戦成功だ。これで、私達の関係は、自然と消滅していくだろう。

 翌日、女はクラスメイトに避けられていた。勿論、ハイエナ女共にもである。昨日、女を罵倒していた2人組が、話を広めたのだろう。今まで、同じ釜の飯を食べていたのに、弱みを見せた瞬間に、皆に公表して、社会的に抹殺しようとでも考えていたに違いない。しかし、結香は違うだろう。人の弱みを広げるような性格には見えない。そもそも、話す相手がいないだろう。そうだ、私が話しかけてあげよう。


 思い出した。結香とは、同じ同好会に所属していたのだ。今となれば、あの財布女は、私と結香をつなぎ合わせた、鬼顔の恋のキューピットであった。

 …そんな事は、どうでもいい。結香はおそらく、食に興味があるのだろう。候補に食事と書いておこう。他に思い出せることは…。無いな。結香と会うのは、明日なのだがこれ以上候補が浮かばない。とりあえず、寝よう。そして、明日に備えよう。


 翌日の8月18日、日曜日、9時00分。今日はかなり涼しく感じられた、というより、寒い。今までの猛暑はどこへ行ったのですか?と、地球に問いただしたい。結香とは、ファミレスで食事をする事になった。集合時間まであと3時間程あったので、外出の準備を済ませた後、昨日の続き、候補をあげておくことにした。朝食の食パンにかじりつき、頭に入っている記憶の部屋から、結香との思い出を頂戴する。


 財布泥棒偽造事件以来、財布女は家庭科室に顔を出すことは無くなった。つまり、私達4人での活動になり、会の空気は穏やかになったような気がする。それと変化がもう1つ、私と結香が仲良くなった事だ。結香は、見る限り根暗であったが、話しかけてみると、これはびっくり。なんとも無邪気な笑みを浮かべるではないか。話し方にも品があり、どことなくお嬢様を連想させるような、立ち振る舞いは、見事と言わざるを得なかった。話していて、気持ちが良いとはまさにこの事である。この事実を周囲の人間が知ったら、結香には友人が増えるだろうが、秘密にしなくてはいけない。私だけが知っていればよい。私は結香に惚れてしまった。恋をしてしまった。今まで付き合ってきた女とは、違う感情を持っているのは明確だった。それからの行動は、早かった。

 今まで培ってきた、女との対人スキルを用いて、結香を口説いた。料理ができるアピールもしたし、彼女と喋る時は、笑顔を保って、優しいアピールもした。

 口説き初めて、2週間が経過したある日の放課後。いつも通り4人で仲良く活動していると、彼女は私の耳に囁いた。

「終わったら、少し残って。」

 彼女の顔を見ると、耳まで赤くなっていた。私は遂に来たか、と内心叫び出したくなるほど嬉しかったが、冷静に笑顔で返事をした。

「うん。分かった。」

 彼女は、罵倒女達(財布女を罵倒していた2人)に、

「少し外すね。」

 と告げ、家庭科室を出て、走り出して行った。罵倒女達は、私を見つめながら、ニヤニヤしていた。先程の会話が聞こえていたようだ。噂に関して前科のある彼女達に聞かれたのは、幸い中の不幸であったが、まぁいい。…早く終わらないかなあ。

 活動終了時間が過ぎると、罵倒女達はすぐさま退室した。気遣いの出来る連中だったのか、と感心していると結香が話し始めた。顔は夕陽に照らされ、一層綺麗になっていた。

「私ね、君の事が好きみたい。」

「そっか。嬉しいよ。」

「それでさ、つきあってみない?」

 待望していた一言が告げられた。これまで、幾度となく告白されてきたが、初めての感覚であった。私は涙が噴き出すのを堪えて、

「本当?嬉しいよ。」

 彼女はそれを聞いて、微笑みながら言った。

「これからは、隣にいさせてね。」


 今の記憶からでは候補があげられないではないか。無駄な時間を過ごした。時計に目をやると既に、11時を回っていた。そろそろ行くか。アパートの階段を下り、ファミレスへ向かった。

 集合時間ぴったりに到着した。結香は、もう来ているだろうと考え、店員には「待ち合わせです。」と告げ、彼女を探した。案の定、彼女は既に席に座って、アイスコーヒーを飲んでいた。

「おまたせ。」

「珍しいね!時間通りなんて。」

「最近は調子が良くてね。」

「ふーん。…まぁいいけど。」

 彼女は疑惑を抱いているような表情で言った。今まで無気力で、遅刻ばかりするような奴が時間通りに来て「調子がいい。」と言えば、不思議に思うのも当然だろう。メニュー表を取り出し、中を見る。私は、オムライスを注文する事にした。彼女は、メニューを見ずに、

「決まった!」

 私に合図をしてきたので、近くのボタンを押し、店員を呼んだ。彼女は鯖の塩焼き定食を注文し、私はオムライスを注文した。注文を終えた後、彼女は照れくさそうに笑い、

「君から誘ってくれるなんて珍しいね!急にどうしたの?」

「実は…もう会えなくなるかもしれないんだ。だから、結香と遊んでおこうと思って。」

 結香は、…え?と素っ頓狂な声を出し、目を大きく見開いた。続けて、

「それって、どういう事?しっかり説明して。」

 彼女は瞬時に落ち着きを取り戻しており、私の目をしっかりと見つめていた。その瞳には、不安と疑惑が込められていた。ここで、「私は死ぬからお金を使っておきたい。」とは言えない。

「詳しくは話せない。分かってくれ。」

 彼女は、無言で聞いていた。

「君とは、かなり長い付き合いだ。遠くに行く前に、君との思い出を作っておきたい。」

「…分かった。」

 彼女はすぐに頷いた。晴れ晴れとした、不思議な顔で頷いた。前回渡した金を返せとは言わなかった。

 そこに、オムライスと鯖の塩焼き定食が届けられた。鯖の塩焼きから漂う、良い匂いから、いつの日かも食べていたことを思い出した。結香は、鯖の塩焼きが好きなのか。知らなかった。オムライスの味は美味しかったが、幸福感は満たされなかった。虚しかった。

 食べ終えた後、翌日も会う事に決め、2人で帰路についた。会話は無かった。途中、彼女の好きなものを聞くことを忘れていることに気づいたが、今更、どうでもいい。覚束無い足取りで

歩いていると、

「ねえ、泊まってもいい?」

 隣からそんな言葉が聞こえてきた。私は反射的に、

「うん。」

 と答えてしまった。今の状況で良くはないだろうが、つい答えてしまった。一緒に過ごしたかったのだ。

 部屋に着くと、彼女は、

「汚すぎる!」

 ある程度は整っているはずだが、上品な彼女から見れば、汚いのか。彼女は綺麗好きらしい。彼女が片付けてくれている間、私は風呂に入り、今日を振り返ってみた。結香は、鯖の塩焼きが好きで、綺麗好き。それくらいしか分からない自分に嫌気がさす。そっと目を閉じ、10数えて出ることにした。風呂はあまり好きではないのだ。

 結香と交代すると、私とは対極的に、長風呂であった。水の滴る音、シャワーのザアザアという音、扉を開ける音、そのどれもが艶めかしいものであった。これは男として、仕様が無い。許せ。

 風呂上がりの結香は初見だった。湯に濡れた前髪からはシースルーのような、可愛らしさが感じられ、白いワンピース型の寝間着が、火照った身体をより際立たせている。今の彼女は何というか、大人の色気を最大限引き上げている。私は、前屈みになりながら、言葉を必死に模索した。

「さっきの話の続きだけどさ、」

「ちょっと待って!」

 彼女は持っていたウエストポーチから、手鏡と真っ赤なリップを取り出し、メイクを始めた。

 数分後、彼女はそこまで変化をつけていなかった。ただ、リップを塗っていただけ。だが、風呂上がりの彼女の妖艶な雰囲気を醸し出すには、十分であった。その姿に見とれていると、

「じゃあさ、旅行行こっか。」

 彼女の意志を瞬時に読み取った。おそらく、2人の最後の思い出は旅にしよう、ということだろう。私は、

「いいね。どこ行く?」

「実はさ、行きたいところがあるんだ。」

「どこ?」

「内緒!明日どうせ暇でしょ?」

「まぁ。」

 彼女はそれを聞くと、どこかに電話を始めた。会話の内容からするに、自動車を借りるようだ。免許を持っていたのか。電話を終えると、さっさと布団に寝ころんでしまった。一人暮らしの宅に布団など当然2つとないため、彼女に背中を預けるように彼女の隣に失礼した。

 横になって、私は考えた。いっそのこと死ぬのはやめようか。いやいや、私達の関係を終結させようと告げてしまったうえ、彼女も1つ決心をしたのだろう。今更「やはり大丈夫でした。」と言えば、私に失望してしまうだろう。死ななければならないのだ。嫌われないために。それしかない。そんな事を考えていると、彼女はくるりと振り向き、頬にキスをしてきた。私は仰天して目を見開いた。それを見た彼女は、満足そうにククク、と笑い「じゃあ、おやすみ。」と言って、顔を背けてしまった。なんて強い女性だ。


 翌日、8月19日、月曜日。日が昇る前、午前4時に起こされた。

「行くよ!」

 彼女は、既に自動車を借りており、私を助手席に連れ出し、出発した。意識が朦朧としており、鍵は閉めたか、電気は消したか、何も思い出せなかった。だが、1つだけ分かった。しまった、旅行なのになにも持ってきていない。彼女にその旨を伝えると、そんなこと分かっている、とでも言いたげな表情で前を見ていた。何も言わなかった。

 数時間か走り続け、正午になろうかという時間に車は停止した。目前には、蒼い海が広がっていた。白く輝く砂浜に車を駐車させ、

「着いた。」

 彼女はそう言い、さっさと白い砂浜に降り立ってしまった。

「こんな所に止めていいのかよ。」

「…後の事は誰かに任せよう。」

 何を言っているのかよく分からなかった。疑惑が生じたと同時に、彼女に手を引かれた。彼女は、向こう側を眺めており、その瞳には蒼い海、青空、白雲だけが写っていた。私達の足は海に向かっていた。ここで1つの単語が頭をよぎっていった。心中。ということは、彼女は私が自殺しようとしている事を察したのだろうか。いやいや、今はそれどころかではない。彼女だけは死んではいけない。止めなければ。しかし、波打ち際に足を踏み入れた瞬間、彼女の足は静止した。

「ねぇ、確認なんだけどさぁ。…死んじゃうの?」

 彼女はストレートに質問してきたので、私は、いやいや、何を言っているんだい?それより、思い出の旅を開始しようじゃないか。と言いたかった。言えなかった。

「うん。」

 私は何を言っているのだ。正気なのか。今の私は自殺する前に恋人に連絡して、「さようなら」と言いながら、恋人が来るのを待つ女々しい人間と同様である。なんとも見苦しい。誤魔化しの言葉を模索しているうちに、彼女は口を開いた。

「じゃあさ、ご飯食べに行こうよ。美味しいご飯。勿論、君の奢りで。」

 急にどうした、とは思わなかった。最後の晩餐ということだろう。私は誤魔化す事も忘れ、ただ「うん。」と頷くだけだった。


 海を後にしてから、30分。昔ながらの趣ある家々を横切り、先程の海を跨ぐ大きな赤いアーチ橋を渡り、やっと着いた先は古びた定食屋だった。中に入ると、4人掛けのテーブル席が3つあるだけの狭い店内にポツリと爺さん1人が腰掛けていた。私たちに気づくと、「いらっしゃい。」と言い、奥のキッチンへ入っていった。一番手前の席に座り、メニューを見ていると、1人の女が入店してきた。その顔には見覚えがあった。それもそのはず、その顔はいつしかの財布女にそっくりであった。私達に「いらっしゃい。」と優しく告げると、奥のキッチンに入っていき「遅くなりました。」と謝罪していた。ここでようやく、この店の店員だと判明した。私と結香は、顔を見合わせたが何も言わなかった。


 店主を呼び、鯖の塩焼き定食を2人分注文した後、

「君は生きるべきだ。」

 彼女はそれを聞いて、

「そんなの、自分勝手すぎるよ。」と言った。

「ごめん。」

 彼女は右上を眺めながら、

「…もう会うのは最後になる、て言われた時すぐに気づいたよ。前々から、死にそうな顔をしてたけど、いよいよ死んでしまうのかって。」

 私は黙って聞いていた。

「それを聞いたら、私も死にたくなっちゃって。人生の不安とか焦燥が溜まっている風船を割られた気分だったよ。清々しい気分だった。」

 私は自殺を止められないと思った。止めてはいけないと思った。彼女は私が生きる事を決意しても、1人で逝くだろう。それならば、私も同行して地獄でも何でも、2人で暮らしていけば、今より幾倍か幸せだろう。その時、

「お待ちどう。」

 財布女が食事を運んでくれた。彼女の顔はたくましく、優しかった。私は、財布女を直視出来ずにいた。

 鯖の塩焼きは、どこかで嗅いだ事のあるいい匂いがした。どこだったか、まあいいか。鯖の塩焼きのほかに、米と味噌汁が付属していた。

 鯖の塩焼きは、身に脂がつきすぎていて、クドい。米はお粥のようにベチャベチャして、気持ち悪い。味噌汁も味が薄く、具材として豆腐しか入っていないので、見た目も悪い。はっきり言って、この定食は不味い。だが、嫌いではない。好きではないが、嫌いではない。結香も同じ気持ちだろう。2人は黙って、食べ続けた。


 支払いを済ませるためにレジに向かった。レジの横に募金箱が置いてあった。私は、支払いを終えると、すべての金を投入した。これは、善でもなければ、偽善ですらない。ただ、使い道の無い金を置いただけ。

 店を出ると、先程通った赤いアーチ橋へ向かった。橋の中央辺りまで進めると、彼女は車を道の端に駐車させ、

「じゃあいこっか。」と言った。

 橋の上から下を見下ろすと、なかなか高い。ざっと、50mはあるだろうか。しかし、これぐらいなら、死因は溺死になるだろう。溺死は辛いだろうなあ。嫌だなあ。ダメだ。ダメだ。ここで弱音を吐くのは、彼女への最大の侮辱になり得る。人生で初めて、覚悟を決める時、それが今だ。

 偶然にも、車は1台も横切らなかった。まるで、世界中の人々が私達を後押ししている様であった。チャンスは今しかない。 

 高欄をくぐると、彼女は私の手を強く握って離さなかった。死に対する不安感か高揚感か、その手は汗ばんでいた。彼女は優しく微笑んで、

「隣にいてよ。」と囁いた。

 夕陽の差す家庭科室、「隣にいさせてよ。」という言葉が走馬灯のように、フラッシュバックしてきて、私は何故だか、足がぶるぶると震えだした。私が情けない声で、

「やっぱり、」

 と言い終える前に、結香は私の手を握ったまま、瞼を閉じ、人生最後の1歩を踏み出していた。


 この2人の物語を聞いて、バッドエンドだと言えるでしょうか。今となっては、そんな事、誰にも分かりません。

 しかし、結香さんなら、こう答えるでしょう。めでたし、めでたし。


 


 

 

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