巡る幻想
僕は、メントノフ・ドルイヤ。
アルフレッド・フィアラ…“アルちゃん”の師匠だ。
何年経とうと…この世界が滅ぼうと…僕自身が消えてしまおうと…その事実だけは誰にも消すことはできない。
今、僕は浄土の仕事をほっぽりだして、天界の“ある場所”に来ている。
アルちゃん…それから、彼の仲間達のことが心配だからだ。
雲の地面をしっかりと踏みしめ歩き続けている僕は、昔のことを考えていた。
アルちゃんと過ごした大事な日々を………。
五十年前、天界の外れにある浄土。
「ふう…退屈だなあ。」
メントノフ・ドルイヤは、雲のソファに寝そべりぽつりと呟いた。
白いはちまきを巻かれた短い青髪が、重力で下にさらっと流れる。
白い雲の地面を移す大きな瞳は、澄んだ灰色だった。
少年のような幼い顔立ちと、十歳になるかならない子供と同じぐらいの低さというのが、彼…いや、彼女の悩みである。
本来、浄土という場所は天界人の修行の場であり、退屈する暇は毛頭無い。
だが、
「ドルイヤ師匠ー。自分はもう修行は十分なので明日にはここを出ますー。」
「んー…わかったよ。バイバイ、レイちゃん。元気でねー!」
という会話からもわかるように、彼女は修行者ではなく、むしろ監督する存在だったのだ。
「レイちゃんも去っちゃうのかあ…。だけど…やっぱり寂しいって感じないなあ…。僕…おかしいのかな…?はあ…。」
誰にともなく愚痴を言って、大きなため息をつくメントノフ。
と、そこへ。
「…あんたがメントノフ・ドルイヤか?」
「ん…?」
一人の青年がやって来た。
緑に近い青髪と澄んだオレンジ色の瞳。
黒いフードコートを羽織り、肩に大鎌をかけている。
一般的に、“死神”と呼ばれる者の出で立ちだ。
メントノフは、けだるそうに体を起こし、ちょこんとソファに腰掛ける。
「確かに僕がメントノフ・ドルイヤ…通称メンちゃんだけど…。君は修行の希望者?」
「…私はアルフレッド・フィアラ。知り合いからは、“アルフ”と呼ばれている。閻魔の勧めにより、ここへ来た。」
「あー!君が、あの…アルちゃんなんだ!」
アルちゃん…と言葉を繰り返し、アルフというらしい死神は不服そうに眉を潜めた。
メントノフは、アルフの発言を遮り、有無は言わさないとばかりににっこり笑って言ったのだった。
「アルちゃん…すごーく真面目なんだね。」
アルフが修行を始めて一週間が経った頃。
メントノフは、そんか素朴な疑問をアルフにぶつけてみた。
「“修行”だからな…当然のことだ。」
アルフは、数十体のかかしを大鎌でスパンスパンと斬り裂きながら答える。
斬られたかかしは真っ二つになり、パラッ…と雲の地面に倒れていく。
「あはっ、確かにそうだねー。サボってたら“修行”じゃないよね!」
「………話はそれだけか?ならば、気が散るから話しかけないでほしいのだが。」
メントノフと会話をする間も、修行の手を止めないアルフ。
瞳はかかしではなく遠くの一点を見つめており、冷めた表情である。
メントノフは雲の地面に直接座り込み、じっとアルフの動きを観察していた。
「…つれないなあ、アルちゃん。僕はアルちゃんと仲良くなりたくて、コミュニケーションとってるのに。」
「………。」
「ねえ、アルちゃんはどうして修行しようと思ったの?僕が見る限り、アルちゃんはそのままでも強そうなのに。」
ピタリ…と大鎌を振るアルフの手が止まった。
二時間も修行をしているというのに、呼吸は平静で汗もかいていなかった。
「そのくらい教えてくれてもいいでしょー!アルちゃんは僕のお弟子さんなんだから!」
「…反対に聞くが、あんたはなぜここで師匠として指導しているんだ?」
「えっ…?」
聞き返されるとは夢にも思っていなかったようで、メントノフは面食らったような目を見開いた。
「メントノフ・ドルイヤ…心の天使という異名を持つほどの大天使のあんたが、なぜ浄土の師匠を?」
「それはえっと…その…」
メントノフは少し言葉に詰まったが、そうだと思い付いたように声を上げた。
「天使の仕事に飽きたからだよ!毎日毎日、新しい魂を下界に運ぶ…そんな変わりない日常に飽きちゃったんだ。それで、閻魔様にお願いして転職したというわけだよ。」
「………そうか。」
アルフはそう返しただけで、それ以上は追求しなかった。
「あ…質問の答え、聞いてないよ!アルちゃんはどうして…」
「強くなりたいからだ。」
修行を再開し、アルフは小さな小さな声で答えた。
「強く…?」
「肉体的な強さも勿論だが、精神的な強さも鍛えるためだ。私は…あらゆる状況に耐えうる“力”を得たいのだよ。」
「………?よくわかんないや。」
メントノフは頭をかきながら、眉を潜めた。
「…“力”とは、暴力で人を従えるものではない。本当に強い“力”とは、心の強さだ。何事にも負けず、自分というものを持ち続けること…あんたのように。」
「僕のように…?」
「………話し過ぎたな。休憩時間はもう終わりだ。しばらく…一人で修行させてほしい。」
アルフはそう言うと、その日はもうメントノフと言葉を交わそうとしなかった。
「メントノフ・ドルイヤ…手合わせを願いたい。」
アルフがそうメントノフに申し出たのは、彼が浄土へ来て二ヶ月以上が経った日だった。
メントノフは、その日も退屈そうに雲の椅子に座り込んでいたのだった。
「えっ…?僕と手合わせ…?」
「ああ。」
「いいけど…突然どうしたの、アルちゃん?」
「………今日までの私の修行の成果を試したいのだよ。」
アルフの表情は真剣そのものだった。
オレンジ色の瞳はじっとメントノフを見据えており、口元はいつもよりもきつく結ばれている。
「修行の成果、かあ…そだね!僕もアルちゃんがどれくらい強いのか見てみたいな!」
「では、早速…始めてもいいか?」
そう尋ねて、アルフは大鎌を胸の前に構え、やや前かがみの姿勢をとる。
「うん!よーい…始め!」
緊張感の無い掛け声と共に、メントノフが動く。
武器である背中の羽衣を左手にとり、アルフに向かってえいっと投げつけた。
「吸着布!」
羽衣は蛇のようにくねくねと動き、アルフの大鎌にピタリと巻きつく。
「なっ…!?」
振り上げた大鎌を捉えられ、アルフは驚きの表情を見せた。
「くっ…この程度…!」
アルフは大鎌を大きく左右に振り、刃の部分で布をピッと斬った。
斬られた布の切れ端が、パラッ…と地面に落ちる。
「やるね、アルちゃん!」
「…あんたもな。翔転牙!」
今度はアルフの攻撃。
大鎌の柄の端を持ち、自分自身を軸にクルリと一回転する。
「うわっ…とと!」
メントノフは紙一重で攻撃を避けたものの、体勢を崩しよろめく。
すかさず、アルフはメントノフの背後に回り、大鎌を振り下ろした。
だが、
「………っ!?」
大鎌は地面の雲をわずかに斬り裂いただけで、メントノフの姿は忽然と消えてしまっていた。
「一体どこに…」
「えへ…僕の勝ちだね、アルちゃん!」
アルフの真上からメントノフの声が聞こえた。
左手に携えれた羽衣は、アルフの体をぐるりと一巻きしている。
「………。」
「アルちゃんさ、一つ訊きたいんだけど…」
「なんだ…?」
「どーして手を抜いたの、アルちゃん?僕はさ…真剣勝負で手を抜く人は好きじゃないんだよね。」
メントノフの表情が険しくなる。
普段の彼女とは別人かのように、瞳は蔑むように冷たくアルフに向けられている。
「…なんのことかわからないが。」
「僕は…アルちゃんのことを過信しすぎてたのかな?アルちゃんの力はこんなものじゃないって気がするんだけど…。」
「本気…か。」
アルフは言葉の意味を確認するかのように、そう繰り返した。
「そう、僕に見せてよ…アルちゃんの本気を。」
「………ならば、あんたも見せてほしい。あんたの本気の力を…。」
「えー、疑うの?僕はいつでも本気…わっ!?」
メントノフは、再び体勢を崩された。
ほんの一瞬の間に羽衣はズタズタに斬り刻まれ、巻かれていたはずのアルフの姿が見えない。
「そんな…まさか…」
「そのまさか、だ。」
「えっ…っ…。」
気付けば、今度はメントノフが動けなくなっていた。
腹部に、正面から大鎌の刃が突きつけられていたのだ。
ほんの少しでも動けば、刃は惑うことなく彼女の腹部を切り裂くであろう。
その大鎌の持ち主であるアルフは、メントノフの目の前に立っていた。
「これが私の本気…だ。」
「ふふ…そうなんだ。」
「…なぜ笑う?」
袋のネズミに違い状況でにこにこ笑うメントノフに、アルフは怪訝そうに訊いた。
「なんだか嬉しくって。本気を見せてくれるってことは、僕を師匠として認めてくれたのかなって思ったから!」
「…別にそういうわけではない。」
「そう返されると思ったよ!でもね、僕が勝手に思うくらいはいいでしょ、アルちゃん?」
メントノフはそう問いかけると、大鎌の刃の先を素手で掴みぶんっと放り投げた。
「………っ!?」
反動でアルフは後ろによろめく。
メントノフは奪った大鎌をアルフに向ける…ことはしなかった。
柄の部分に持ち替えず、指先は刃の先端を持ったまま、前方の一点を見つめていた。
刃でケガをしたらしく、人差し指からはポタポタと赤黒い血が流れ落ちている。
そしてそれは、白い雲をじわじわと赤く染めていく。
「血が…!」
「大丈夫だよ、アルちゃん。僕、全然痛くないから。」
「………?」
メントノフの奇妙な答えに、アルフは怪訝そうに眉を潜めた。
「そう…普通は、ケガをしたら痛いんだよね。慌てて止血するんだよね…でも、僕はそうしない。失う物が無い者は…強いんだよ。」
「何を言っているんだ、あんた…?」
「アルちゃん、この前言ってたよね。『僕のように強くなりたい』って。だけどね、僕を目指すのは止めたほうがいいよ?僕は…“堕ちた者”だから!」
メントノフはそう宣言するように言うと、大鎌をゆっくりと雲の地面に置き、どこかへ飛び去ってしまった。
雲の地面には、彼女の指から流れた血が、道しるべのように転々と落ちていく。
アルフは、刃にべっとりと血がついた大鎌を拾い上げ、
「………そういうことか。」
全てを理解したように呟いた。
「やっぱり…ダメだった。」
浄土の北部にある公園。
今ではすっかり血が止まった右手を見つめ、悲しげに言った。
(痛みを感じることができるようになれば…僕の“罪”は許される。そう…閻魔様は言ったけど、まだ許されていないんだ。)
封じていたはずの悲しい記憶。
それが彼女の中に蘇ってくる…。
『命を…何だと思っているんだ!?』
『ご…ごめんなさい…。でも、僕…』
『お前は“あの子が…そして“あの子の親になるはずだった男女”がどれだけ苦しい思いをしているのか…。わかっているのか!?』
『本当にごめんなさい…。僕…どうやって償えば…?』
『落ち着いて下さい…メントノフはわざとそうしたわけじゃ…』
『うるさい!お前は…引っ込んでろ!』
『…っ…!?う…わあああ…!?』
『タ…タイちゃああん!!』
「こんな所に居たのか…。」
「ア…アルちゃん…。」
メントノフに声をかけてきたのはアルフだった。
彼女の正面から歩いて来ると、向かって右隣の椅子に腰を下ろした。
「………堕天使、なんだな。」
アルフの一言に、メントノフの体がびくっと反応する。
「だからどうというわけではないが。」
「訊かないの?僕の過去のこと…。痛みを感じない罰のこと…。僕の罪のこと…。」
「興味無いな。だが…話したいなら勝手に話せばいい。それで、あんたの気が済むならな。」
「…興味無いとは失礼だな、アルちゃん。」
メントノフは、クスッと小さく笑った。
「………僕はね、癒やしの天使だった。天使の仕事は…新しい命を下界に運ぶ素敵な仕事。恋人のタイレン…タイちゃんと一緒に働いて、たくさんの人の笑顔を見れて…幸せな毎日だったなあ、あの頃は。」
「…幸せ、か。」
「だけど、ある日…僕は全てを失った。僕自身が起こした大きな失敗でね…。」
メントノフは自分を抱くようにして両手を両肩に回し、悲しげにうつむいた。
体は小刻みにフルフルと震えている。
「………。」
アルフは無言でメントノフを見つめた。
「あの日…僕は一人で仕事していた。タイちゃんをびっくりさせようと思ったんだ。違う意味でびっくりさせることになったんだけどね…。天気は…大荒れだった。地面を叩きつけるような大雨に…台風並の強風。仕事に向いてる天気じゃなかった。だけど…仕事をもらった僕は、新しい命を届けに行っていた。もう少しで目的の家に着くって時に、今まで以上の突風が吹いて近くで雷が鳴って…」
「新しい命を落としてしまったというわけか…。」
要約するアルフを見返し、メントノフは無言でうなずく。
「新しい命は…川の中に落ちた。激しい急流に巻き込まれ、あっという間に…流れていった。僕は…呆然と見ていることしかできなかったんだ…。」
「それが堕ちた原因となる“罪か…。」
「それだけじゃないよ。もう一つ…あるんだ。…天界に報告に戻った僕は、上司からたっぷりお説教を受けた。“責任はとれるのか”ってね。僕が困惑してどうすればいいかわからなくなった時…タイちゃんが庇ってくれた。けれどそのせいで、タイちゃんは…上司に突き飛ばされ、態勢を崩してクラウドホール…雲の穴に落ち消滅した。」
全てを語り終えたが、メントノフは力なくアルフに微笑みかけた。
「僕のこと…軽蔑していいよ。僕は、最低な堕天使…」
「師匠。」
「えっ…?アル…ちゃん?」
メントノフは、アルフの呼び方の変化に驚いたような声を上げた。
しかし、アルフは何を驚いているのかといわんばかりに平然としている。
「僕のこと…何って?」
「…師匠と呼びました。あんたは、堕天使なのかもしれない。けれど、それが何だというんですか?私にとっては、様々なことを教えてくれる師匠です。」
「アルちゃん…。」
「…修行を見て頂けませんか?至らない所があれば教え…」
「アルちゃああん!!」
「なっ…?」
不意にメントノフに抱きつかれ、アルフは面くらったような顔をした。
けれど、メントノフの手を振り払おうとはなしなかった。
「アルちゃん…僕は痛みを感じれない。泣けない…。だけど、アルちゃんの優しさが胸に響いて心が痛くて泣きそうだよ…。ありがとう…アルちゃん。」
「…どういたしまして、師匠。」
端的に言葉を返すと、アルフは小さな子をあやすようにメントノフの頭を数回撫でたのだった…。
堕天使…その事実は変わらない。
僕にできることは、限られているのかもしれない。
けれど…僕は、アルちゃんを守るためなら何でもする。
僕の心を救ってくれた…大切な大切な人だから。
タイちゃん…僕、頑張るから。
もう少しだけ、僕のこと…見守っててね?
-To be continued…