憐みのゆくえ1 遠きミャンマーの夢
ルインはとても控えめな娘だった。キリッとした目と少し大きな鼻は、父親そっくりだった。私と陸士五七期で同期だったコーアウンは、戸惑う私をヤンゴンにあるネウインの事務所へと引っ張り出していた。
「真面目な貴様だから、紹介するんだぞ」
彼は多分そんなことを言っていたと思う。大英帝国の帝政から日本軍の軍政に移り、ミャンマーには幾人かの軍人が日本の陸士留学から帰国していた。コーアウンもその一人だった。
事務所とは言っても、簡単な木造の家だった。嵐が来たら潰れてしまいそうだった。ミャンマーは仏教国であったから、寺院は立派なもの。それは国民の敬虔さからくる風景だった。
事務所の中から出てきたのは、黒髪の長い小柄な娘だった。
「私は、マールインルインです」
「マールインルインさんね?」
アウンが慌てて横から口を出した。
「ミャンマーでの名乗り方をするんだよ!」
「あっ、そうだね…私はウーユースケユースケ」
何故か彼女はアウンを睨んでいる。
二人で何やら「あーでもないこーでもない」と口論となっている。そんなゴタゴタを中断して、アウンがミャンマー語で詰ってきた。
「ユースケ……貴様、結婚しているなんて聞いていないぞ?」
「俺も初めて俺が結婚していると聞くぞ? 俺はこの娘さんと結婚しているのか?」
私がこう言うと、今度は彼女は私を睨んできた。これは拙かった。混乱した言葉がさらに混乱を呼んだようだ。先ほどの笑顔は消え去り、美しい眉は怒りを含んだ形になった。最後に、彼女はプイと横を向いて事務所の中へ戻ってしまった。
「ウーユースケ!」
アウンが私を糾弾していた。
「友人に未婚だと言って嘘を言うことはよくない! 俺は貴様に独身の適齢の女性を紹介するために骨を折っているのに!」
「俺がいつ結婚したのか教えてくれ?」
「つい先ほど、彼女へ既婚者ユースケだと言っていたではないか!」
「コーアウン? どういうことだ? 士官候補生として学んでいた時から、貴様は俺が見込んであることを知っていたはずだぞ?」
「そうだとも! だからこそ、いつの間にか既婚者となっていた貴様に、俺は騙されたんだな!」
「俺は結婚していない!」
「ああ、士官学校時代は、な」
ミャンマー語は過去形と現在形が同じであるため、この種の説明は厄介だった。特に私の片言のミャンマー語では込み入った議論が難しかった。ウーユースケという名乗り方は、ミャンマー人の年下の部下から教えてもらった現地での名乗り方だった。年下の部下からみれば、私は既婚者と考えるのが自然だったのかもしれない。しかし、それが間違いの元だったらしい。
やっとの事でコーアウンに理解してもらったが、原因はやはり私の名乗り方らしかった。
「『未婚ユースケユースケ』、こう名乗るんだぞ!」
コーアウンは、そう言うと、もう一度事務所へ向かい、わたしもそれに続いていた。しかし、彼女は連絡事務のために出かけてしまっていた。アウンとわたしはしばらく事務所の前で待たせてもらうことにした。
ミャンマーでは、ここの国の女性と同じように、空の雲行きも急変する。程なく、スコールに見舞われた。そのスコールの合間を縫って、未婚ルインは事務所へ戻ってきた。スコールの間、事務所の人たちは親切に雨宿りをさせてくれるのだが、彼女はまだ怒った顔をして私に道を開けろと言わんばかりに、目の前を乱暴に擦り行けていった。アウンが慌ててルインを追いかけていった後、わたしは玄関先で所在なく雨を見たり、晴れてきた空を見上げたりしていた。
さて、ルインはアウンから何かしらの説得を受けたのだろうか。疑わしげな目線で私を見上げながら近づいて来た。
「コーユースケ……先程はごめんなさい……貴方は結婚していないのですね?」
やっと振り出しに戻ったようだ。
「マールイン……今日お知り合いになれて嬉しい!」
決まり切った外交辞令だった。私は、異性との話し方なんて、陸軍士官学校で教えられてはいなかった。もちろん通信将校ではあったから、最低限の話の仕方は分かっているつもりだった。それであってさえも、私自身は仕事では『堅苦しい』とか、『融通がきかない』とか、あまりよく言われていなかった。挙げ句の果てに、ミャンマー人職員の間では、『唐変木』とさえ言われている始末であった。多分、マールインも、私が変な日本人であることをあらかじめ聞き知っていたのだろう。しかし、それでも知り合いになれたのも、いや結婚まで行けたのは、最初の出会いの時に、結婚しているかどうかが話題になり、それでも紹介されたということが結婚を意識した交際に自ずとつながったのだ、と今では考えている。
「あの、まずお食事でも。」
しかし、ヤンゴンに若い男女のペアが訪れるような気の利いた店はほとんどなかった。それでも、コーアウンはルインと私をどこか景色の良いところへ連れていってくれるといってくれた。
しばらく歩くと、東南アジア特有の金色の仏教寺院が見えて来た。名をスレーパヤというらしい。
「ここに、はるばる来た甲斐があった」
思わずため息のような独り言が出ていた。マハバンドゥーラ公園から午後の陽に照らされたスレーパヤを見て、この国の人々の心の中を見たような気がした。そんな感慨を覚えたまま横を見ると、ルインが私を見つめていた。
「私達は一人一人がここに心を寄せているのです……父に引き取られるまで、私はこの姿を見ることだけが楽しみでした」
「貴女のご母堂様は? なぜ『ひきとられた』などとおっしゃるのか? 亡くなったのでしょうか?」
ルインは私から目を逸らして答えなかった。これは聞いてはいけない質問だった。私は時々カンが鋭すぎて周りを困惑させることがある。コーアウンが私を慌てて日本語で耳打ちして説明してくれた。
「彼女の母親は娼婦で若いネウィンとの間に彼女が生まれたのだ……しかし、一昨年母親はマラリヤで病死して今はいない……」
「そうだったのか。」
私は思わず祈っていた。彼女の目を見て察するべきだった。ありふれたことなのに、そこまで考えが行かなかった。
「ごめん……俺は知らなかった……いや、察する能力がなさすぎた!」
私が、自責の念に駆られて十字を切ったのを見たからだろうか。ルインが突然に提案して来た。
「夕方にセントメアリー寺院へご一緒しませんか?。」
コーアウンと別れ、ルインに連れられた私は、二つの鐘楼がそびえ立つカテドラルに圧倒されながら前庭を進んでいた。カテドラルの中は薄暗く、古い椅子が整然と並べられ、いたって静かであった。ミサの時間ではなかったが、それでもルインは告解をするという。
「私は待っているよ……でも、機会があるなら、私も……」
ルインは告解が終わると、驚いたような顔をして出てきた。それを見ながら私も礼拝堂の奥にある告解室へ入り込んだ。その時告解を受けてくれたマザーは、日本人らしく権淑香という名だった。
マザー権淑香は、私たち二人が結婚するのではないかと指摘した。先ほどのルインの驚いて戸惑った顔はそのせいだった。
たしかに、その後、私達は熱病のような恋に落ちた。そして一ヶ月後、このカテドラルで辻堂とアウンの同席の元で結婚した……
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帝国海軍連合艦隊はレイテ海戦で壊滅した。東南アジア戦線でもメイテクーラで帝国陸軍が新潟部隊の兵士たちを多数犠牲にして敗北に至り、敗色が濃くなっていた。硫黄島が陥落したことを軍の通信で知った私は、軍の計らいで身重になっていたルインを、サイゴンの陸軍病院へ移した。
その三ヶ月後の一九四五年四月にルインは男の子を産んだ。ルインは初産ということもあって産後のひだちが良くなかったものの、初子の名を「汰欣」[つまりミャンマー語で「御旗」という意味]と名付けていた。せめて、思いを込めた旗だけは大切にしたいと考えたからだった。
その年の五月に日本軍はヤンゴンから撤退することになった。私も陸士同期の辻堂が持ち出した第五飛行師団の一〇〇式司令部偵察機で、サイゴンへ脱出した。基地についたその足で私は陸軍病院へ急いだ。感染症のために様態の芳しくないルインを見舞うためだった。
サイゴンは、内陸のヤンゴンやプノンペンよりも過ごしやすい。ルインの入院している病室も、風通しの良い二階にあった。私が階段を登りきると、一室に軍医と看護師たちが激しく出入りしている部屋がある。そこにルインが臥せっているのだろうか。やはり、素人目にもルインの症状は良くないと思われた。
処置が一通り終わった時、私はようやく入室を許された。
「マールイン………」
結婚後も私はルインを口癖のようにそう呼んでいた。ルインは半分怒りながら返事をしてくれていたものである。この時もそう呼びかけつつベッドへ近づいた。
「ウーユースケ?。」
ルインの声はかすれていた。
「やっと帰ってきてくれたのね…」
ルインは涙声になっていた。感情が高ぶったせいか、激しく咳き込み始めている。額の濡れ手拭いがずれ落ち、熱で火照ったルインの顔が赤く上気していた。
「俺はもう何処へも行かないよ! 既婚者ルイン?」
その呼び方にルインは少しだけ笑った。このまま感情が落ち着いてくれるだろうか。
「安心して少し眠りなよ……俺はどこにも行かないから」
ルインは私の手を握って胸元へ引き寄せると、安心したように目を瞑っている。私は一緒にいるときには、いつも彼女にしてあげたように、そのまましばらくルインの頬を撫でながらミャンマーの子守唄を歌って聞かせていた。そうすると、ルインは眠ってしまった。
そっとルインの手を離し、病室の外へ出ると、ちょうど通りかかった看護婦に呼び止められた。初子の所へ連れて行ってくれるという。そこは新生児たちが寝かされるところなのだが、息子の汰欣は生後二ヶ月ながらそこにいることを許されていた。今では担当の看護師たちに笑顔を振りまくという。
不足しがちなルインの母乳に加えて、ベトナム人の母乳が出ている方の好意により、幼子はすくすく育っていた。病室に帰るとまだルインは眠っていた。
戦局は日に日に敗色が濃くなった。第五飛行師団は、すでにほぼ壊滅していた。日本本国も東京をはじめとした各都市は焼け野原になったという。辻堂も東京の妻と子の行方が分からなくなったと言ってきた。
それでも通信将校の仕事はさらに忙しくなった。仕事の合間にルインの病室を訪ねては、ルインを励まし続けた。栄養が豊富であれば体力に心配はないのだが、彼女の消耗は激しかった。それでもそれでも私はルインを励まし続けた。
「ルイン ここにいるよ!」
「タゴンはどこにいるの?」
「ああ、隣の乳児室だよ」
「もう、私は長くないわ……だから………」
「何を言っているんだ?」
しかし、ルインは自分の体力を冷静に見ていた。自分は死につつあることを私以上にわかっているようで、絶え絶えの息の下で自分は見るはずのない子供の楽しい将来ばかりを言っていた。
「彼はあなたによく似ているわ。」
「俺はあまりハンサムぢゃあないからなあ。」
「うふふ、我が強い子みたい………泣き出したら手に負えないみたいよ」
「俺は控え目だぞ! 我が強いのは、きっと母親似だぞ……俺は苦手だなあ」
「あら、誰のことを言っているのかしら?」
私たちはあえて明るい話題だけを話すようにしていた。何かが怖かった。何かを見ないように、何かを考えないように気をつけながら話していた。
いく日かはそうして過ぎていった。しかし、六月にはいると、ルインはもう何も話せなくなっていた。最期の日となった六月七日は、ちょうど昨年ルインとセントメアリー寺院へ初めて出かけた日だった。
「ユースケ………あい…しています。小さな私の…命…をかけて…あなたを…」
「ルイン、俺も君だけが最初で最後の愛した妻!」
外では午前中の喧騒が大きくなっていた。しかし、みるみるルインの目は暗くなっていく。
「もう、夜…なのね……綺麗な…星……貴方は…どこなの? 星ばかり…貴方が…見え…ない……」
私はただ彼女の細い手と腕を握るしかなかった。
「ルイン! 俺はここにいる!」
「汰欣を…貴方と私の子を…お願い………」
そう言ってルインは静かに息を引き取った。
その時、ふと以前にルインに言われた言葉を思い出した。
「私はあなたの妻になってやっぱり良かった。あのマザーは、たしかな人だったわ。」
あの日以降、マザーとは会えなかった。そのままヤンゴンを脱出してしまったので調べようもないのだが、マザーの言葉によってルインは若い輝きを私に捧げ尽くしてくれていた。
やがて約二ヶ月後には敗戦となり、子持ちの士官となった私は、ミャンマーの人たちの口添えによって早く日本に戻ることになった。
「我が愛するルイン…… 日本に戻るこの手には、君の忘れ形見がある......君がつけた名前は汰欣だ」




