「お帰りなさい、エースお兄ちゃん!」
マリア・Bがエースのところへ戻ってきたのは、それから三十分ほどしてからだった。
顔を輝かせベンチから立ち上がったパーシヴァルに、露骨に眉を寄せる。
「やあ、マリア! 今日も変わらず美しいな!」
だが、その大声など聞こえないように、マリア・Bは車の中にいる弟に向き直った。
「エース。エムが眠ってしまった」
言われて視線を向ければ、胸に抱かれた子供は小さく寝息を立てている。
「このまま連れ帰って、家で寝かせておこうと思うのだが、いいな?」
「ああ。頼むよ。明日からずっとここにいさせるのは無理かもな」
まだ小さい子供ならば、仕方がないことだ。だが、エースは昨日まで弟妹を持ったことがない。幼い頃の記憶はおぼろげで、この事態を予想できなかったのだ。
「マ……マリア……」
だが、姉は優しく笑う。
「何なら毎日午後には迎えに来るさ。気を揉むな」
「しかし姉貴にあまり負担をかけるのも」
「マリア……その、子は」
マリア・Bは、エースの言葉に更に視線を和らげた。
「うちの子のことでかかる手間など、負担にはならんよ」
どさ、と、傍らで鈍い音がして、ようやく姉弟は顔をそちらへ向ける。
午後の日差しに温められた石畳の上へ、一人の身なりのいい男が上半身を投げ出していた。
「……どうした、パーシヴァル。服が汚れるぞ」
呆れ顔で、マリア・Bは声をかけた。
「マリア! その子供は一体どうしたんだ!」
がば、と顔を上げ、男は大声を放つ。
「ああ、お前は初めて会うな。うちの子だ」
滅多に見せることのない、愛おしそうな表情に、パーシヴァルの勢いは削がれる。視線を泳がせ、ぶつぶつと呟き始める。
「そんな……一体……、いつの間に……、いや、そうだ、父親は誰だ!?」
が、一転して怒声を上げた。
「それが判らないのだ」
「……わか……?」
呆然として呟くパーシヴァルが流石に哀れに見えて、エースが口を開きかける。
「遅ればせながら、おめでとうございます。マリア・B」
だが、機先を制し、無表情のままケイトが小さく拍手した。
「ありがとう、ケイト」
「もっと早く知らせてくださってもよかったものを」
「いや、色々あったのでな」
「……二人ともそろそろ止めといた方がいいんじゃないか」
呆れた口調で告げるエースに、二人は異なる表情で同じような視線を向けてきた。
「嘘は言っていないぞ」
「ええ、嘘は聞いていません」
「止めろってば」
溜め息をついて、身を乗り出すと、路上の男の様子を見やる。
パーシヴァルは小さく呻きながらがっくりと肩を落としていた。
幸いと言っていいものか、ともかく客は近づいてきていない。色々と諦めた心持で、がらり、と背後の扉を開け、エースは男に歩み寄った。傍らにしゃがみこみ、ぽん、とその肩に手を置く。
「まあ、そう気落ちしなさんなよ、若旦那」
「エース……」
男は瞳を潤ませて見上げてきた。僅かに視線を逸らせながら、続ける。
「あの子はうちの新入りだ。先刻のは姉貴の悪い冗談だよ。そもそも、姉貴が仕事の時はほぼ毎日顔会わせてるんだろう?」
「しかし毎日じゃないし……」
「客じゃない時にまで何で一緒にいなきゃならない」
うじうじしている男の言葉に、不機嫌そうな顔で、マリア・Bが呟く。それに、パーシヴァルが叫び返す。
「だから、客じゃない関係になって毎日一緒にいようって言っているじゃないか!」
「断る」
彼の人生、幾度目かのプロポーズを、しかしマリア・Bはただ一言で拒絶した。
パーシヴァルの表情が凍りつく。
いい加減慣れりゃいいのに、と思う辺り、エースもやや疲弊気味だ。
「パーシヴァル様も懲りない方ですね。脈がないことぐらい判っていいと思うのですが」
ぽつり、とケイトが正直な感想を漏らす。
とりあえず女性陣は放っておいて、エースは更に声をかけた。
「だから気にするなって。脈なんてのは、相手にあるとかないとかじゃなくて、まずこっちからときめかせるもんだろ」
数秒間の沈黙の後、ケイトが小さく呟く。
「……彼の教育を誰に任せたんですかマリア・B」
「私の知らない人間じゃない筈なんだがなぁ」
呆れた風に返すと、姉は弟に声をかける。
「大体、お前は何故そいつの肩を持つんだ、エース。私を背後から撃つ気か?」
その、かなり不穏なものを含む声に、少年は純粋な瞳を向ける。
「俺はいつだって姉貴の幸福を願ってるに決まってるだろう」
「私の幸福ぐらいは自分で決める」
むっとして、しかしやや言葉の鋭さは鈍ってきた。
「それに、ヒギンズ家に睨まれたら今後仕事で困るし」
「保身か!」
「心配は要らない、エース。大事な義弟を睨んだりするものか」
マリア・Bからの怒声と、慌てたように取り繕うパーシヴァルの言葉に、視線を空へ向ける。
「……親方にも迷惑がかかるし」
「それは困りますね、エース。さあとっとと帰りますよパーシヴァル様」
滑らかに言い放つと、ケイトは街路に蹲ったままの男の襟首をむんずと掴んだ。
「ちょ、待てケイト! 擦り切れる!」
ずりずりと不吉に石畳の上を引き摺られかけて、パーシヴァルが悲鳴を上げた。
あの仕立てのいいスーツは、もう砂埃などでかなり汚れていそうだが。
「……パーシヴァル」
マリア・Bが小さく名を呼んだ。
ぱっ、と、顔を上げて見つめる男に、黒髪の美女はやや視線を逸らせる。
「また、夜にな」
「ああ! 待っている、マリア!」
一瞬で機嫌を直し、意気揚々と立ち去る男を、姉弟はしばらく見送った。
「……結局、姉貴が気を持たせてるところもあると思うんだ」
「仕方がないだろう。客の機嫌は取っておかないと」
僅かに苦々しく、マリア・Bは返した。
オレンジ色の夕焼けが、今日も山際を染める。
ガレットを販売していたバンは、既にカウンターを収納していた。助手席に少年が座っている。
広場に幾つも合流する街路の一つから、自転車が一台近づいてくる。それに気づいて、エースは扉を開けた。
「親方」
「おぅ、エースお疲れさん」
すぐ傍に自転車を停めた男は、僅かにきょとんとしてエースの背後や車の座席を覗きこんでいる。
「なに?」
「いや、今朝一緒だった子、どうした?」
きょろ、と周囲に視線を走らせて尋ねる。
「ああ、エムか。午後になって眠そうだったから、姉貴が連れて帰ったよ」
あっさりと返すと、体格のいい男は一瞬しょげた顔になった。
「そうか……、うん。これ、帰ったらやってくれ」
自転車の籠に入っていた紙袋を押しつけてくる。ふわり、と甘い香ばしさが感じられた。
「……親方。クッキーなんて焼いてる暇があったら早く戻ってきてくれよ」
「遅れてねぇよ!」
親方が使っている車の方には、オーブンレンジが備えつけられている。まだガレットしか任されていないエースの車よりも、色々と高性能だ。多分、これは営業中に作っていたのだろう。
「はいはい。ありがとうな。にしても親方、子供好きだったのか」
どのみち、本気で苦情を言った訳ではない。小さく笑いながら、エースは続ける。
「まあな。俺の作ったもん食って、美味いって言って貰えるのはそりゃ誰でも嬉しいが、それでも子供だと格別だよな」
ふと視線を和らげて、そう返された。
「……親方も結婚すりゃいいのに」
「莫迦野郎、そんな物好きはいねぇよ」
半ば冗談ぽく、半ば本気で気を悪くしたような口調で、親方はその大きな手でエースの髪をぐしゃぐしゃにかき回した。
少々迷ったが、結局エースは何も言わずに肩を竦め、バンの後部扉を開く。
親方が乗りこみ、ざっと状態をチェックするのを外から眺める。
冷蔵庫に残った食材のうち、日持ちしなさそうなものを手早く密閉容器に詰め出した。大きな紙袋に入れ、冷凍庫に常備している保冷材をぽん、と一番上に乗せる。
「ほらよ」
それらはエースの家の食料になる。寄付はいつだって歓迎だ。
まあ、本当のところはその分少々エースの給金が安くなっているのだが。
「ありがとう、親方。じゃあ、また明日」
「おぅ。遅れんなよ」
軽く挨拶を交わし、自転車に跨った。
いつもの挨拶に、いつもの風景。
今日はちょっと遠回りになる頑丈な方の橋を渡り、やがて門を抜ける。
玄関脇に自転車を停めていると、小さく軋む音と共に扉が開いた。
「お帰りなさい、エースお兄ちゃん!」
元気よく、幼い声が出迎える。嬉しそうに、エムが立っていた。
知らず、エースが笑みを浮かべる。
「ただいま、エム。お土産があるぞ」
わあ、と歓声が上がった。
年々、寂しくなってきたこの孤児院の空に。
そう。これが、今日からいつもの情景になるのだ。