「そうか、入れ違いか……」
きゅぅうううううう……。
その音が車の中に鳴り響いたのは、正午を幾らか過ぎた頃だった。
エムが真っ赤になって腹を押さえる。
客の入りはピークに近い。普段エースが昼食を摂るのは、もう二、三時間は後になる。
「エム。そこのナップサックの中に赤い布包みがあるから、出せ」
額に汗を滲ませて、エースは視線も向けずに告げた。きょとんとして、エムは作業台の片隅に置かれたナップサックを開く。
中には青と赤の布包みがあった。赤い方を取り出して、膝の上で開く。
入っていたのは、朝に焼いていた丸いパンだった。厚みの半ばまで切りこみを入れ、レタスやハムなどを挟んでいる。
エースは素早く、紙皿にラタトゥイユを一掬いして作業台の上を押しやった。
「引き出しにスプーンがあるから。先に食べてな」
この義理の兄は、全てを考え、それに備えているのだろうか。
幼い子供にとって、大人は万能である。その一端をエースにも見出して、エムはありがたく昼食にかぶりついた。
「あー。疲れた……」
ようやく客が途切れるようになってきた。
Tシャツの首元を引っ張りながら、エースは冷蔵庫に入れておいたミネラルウォーターをあおる。口腔を、喉を潤す冷たい液体に生き返る気分だ。
さほど火力がない電気調理器とはいえ、ずっとその前にいては熱気にやられてしまう。
少年は壁にもたれ、立ったままで自分の分の昼食を口にした。
その間にも、両手サイズの端末を触り、今日の売り上げ数などを見ている。
余裕ができたのだと見てとって、エムが口を開く。
「これがエースお兄ちゃんのお仕事?」
「おぅ」
尋ねられた言葉に、短く返す。
「お客さん、みんな嬉しそうだったねぇ」
少女は満面の笑みでガレットを受け取っていた人々を思い返し、口にする。
「そうか?」
少し驚いたような顔をして、その後エースは照れたように笑った。
「マリアお姉さんは、どんなお仕事をしてるの?」
「ああ、マリア姉は……」
純粋に好奇心、といった風に続けられる。口を開きかけて、少々迷う。
「エース。ちゃんとやっているか?」
だが、そこに当の本人が現れた。
「おはよう、マリア姉」
弟は軽く片手を上げる。
朝に帰宅したマリア・Bは、大体昼頃まで睡眠を取り、その後、時々こうして街にくる。
「エムはいい子にしていたか?」
長い黒髪の美女は、カウンターから覗きこんで問いかける。流石に下着姿でもドレス姿でもなく、一般的なTシャツにデニムだった。それでも、彼女の容姿はかなり人の目を惹く。
「ああ。いい子だったぜ」
あっさりと肯定されて、エムがえへへ、と笑う。
「よしよし。これから、エムを買い物に連れて行こうと思うんだが」
「ん? 何か足りないものあったっけ?」
エースの言葉に、呆れた視線が返される。
「うちは長い間、小さな子供はいなかったんだ。今では使えないものは多いだろう。服とか生活用品とか」
「今までは自助努力と寄付で賄うべきだとか言ってたのに、エムにはいきなり甘いよな……」
清貧に生活していた過去を回想して、少年は呟く。
「まあそう言うな。久しぶりの子供だ。それに、今、抱えている人数は少ないからな」
苦笑して、姉はそれを宥めた。
「家計を握ってんのは姉貴だ。俺は構わないよ」
だがはっきりと反抗するつもりでもなく、あっさりエースは頷いた。
マリア・Bが反対側に回りこみ、ドアを開ける。
「よし、じゃあお買い物に行こうか、エム。何が欲しい?」
「お買い物? ぼく、初めて!」
満面の笑みを浮かべる少女を、軽々と抱き上げる。
「夕方までには戻る」
「いいもの買って貰えよ」
尤もその場にいた家族は、全員が笑いあっていたのだが。
穏やかな午後の日差しの下、人々はのんびりと広場を歩いていく。
ぽつぽつとやってくる客が離れるのを見計らっていたかのように。
「おぅ、エース! 調子はどうだ?」
大きな声が、響いた。
カウンターの前に現れたのは、まだ二十代半ばを過ぎたばかりの男だった。輝く黄金の髪を、一筋の乱れもなくぴしりとセットしている。緑色の瞳に浮かぶ表情は尊大で傲慢だ。純白のスーツに、レモンイエローのシャツ。紺に白のストライプが入ったネクタイは幅広く、胸元のチーフには皺ひとつない。
背後に、大体同じような年頃の女性が、黒のパンツスーツで控えている。男に比べればやや落ち着いた色合いの金髪を短目にカットし、ブラウンの瞳は酷く無表情だ。
「……やぁ、若旦那。まずまずですよ」
僅かにげんなりした口調を隠し切れず、エースが答える。
この男は、パーシヴァル・ヒギンズ。この街を表と裏の両方から牛耳る、ヒギンズ家の次男坊だ。
そもそも小さな街であるから、さほど大した組織ではない。が、街の住民からすれば充分以上の権力を持っている男であった。
パーシヴァルは馴れ馴れしく片手をカウンターに置いた。
「マリアは? 今日は来てないのか?」
「先刻来ましたよ」
短く答えると、僅かに失望したような表情を浮かべた。
「そうか、入れ違いか……」
「しばらくしたら戻ってくるとは思いますけど」
しかし、エースの言葉に、またぱっと自信に満ちた顔になる。
結構単純な人間だった。
「よし、ならしばらく待たせて貰おう!」
そう言って、すぐ傍にあるベンチにどしん、と座りこむ。
黒服の女性は、彼の傍には近づかずに、入れ替わるようにカウンターへと寄ってきた。
「いつもの?」
「ええ」
慣れた風に会話を交わす。
エースはトッピングなしの、ラタトゥイユを挟んだだけのガレットを焼き始める。
「全く、こんな時間にお昼ご飯なんて、お腹が空くでしょう」
「エースのガレットが食べたいから」
小さく返された言葉に、少年は苦笑した。
「親方のラタトゥイユが、でしょう? ケイトさん」
ほんの僅か、女性の頬が染まる。
「北の広場に行けば直接買えるのに」
「あっち側はクリフォード様の担当だから、私は行きにくいのよ。それに、直接とか、そんな……」
視線を逸らせて呟く相手を、半ば呆れて見つめる。
マフィアの息子の警護を一手に任されているというのに、彼女は酷く奥手だ。
「はい、どうぞ」
カウンターに紙皿を置く。硬貨をエースに渡すと、ケイトはそわそわ周囲を見回すパーシヴァルの隣に座った。
パーシヴァルが少しばかり眉を寄せる。
「向こうで食べろ。マリアが誤解したらどうする」
「警護対象から離れる訳にはいきません」
「警護そっちのけで食べてるのにか?」
「そもそも、マリアは誤解しませんよ」
あの女性も、彼らの関係は充分よく知っていた。が、それをどう解釈したか、パーシヴァルはやや機嫌がよくなる。
エースが小さく溜め息をついた。