「あんたも充分若いんだろ」
バンのドアから中を覗きこむように現れたのは、まだ若い男だ。きょとんとして、悲鳴を上げた幼い少女を見下ろしている。
「前から来てくれよ、ギルバート。開けてるんだからさ」
ちょっと呆れがちな声音で、エースが口を開く。
「お、おぅ。……誰だ?」
男は、苦情を上の空で返す。
「うちの新入りだよ。名前はエム」
ほら、挨拶、と促され、固まっていたエムがはっと身を震わせる。
「エ、エム、です。おはようございます」
「エムちゃんか。ギルバートお兄さんだ。宜しくな」
ギルバートは大きく笑って、ちゃっかりと自己紹介する。
彼は昨日、エースに時間外労働をさせた男でもあった。
「エムちゃんは何歳だ?」
「五歳、です」
まだ緊張気味のエムの気持ちをほぐそうとしてか、男は続けて尋ねた。答えに、ぱっと顔を明るくする。
「五歳か。うちの娘も、こんな風になるのかなぁ」
「むすめ?」
首を傾げて、エムは呟いた。
「ん? 写真見る?」
いそいそと、上着のポケットから掌大の端末を取り出した。慣れた手つきで操作して、すぐに写真のフォルダを表示させる。
きょとんとしたまま、エムは視線を男へ向けた。
「立体写真じゃないの?」
「うっわ、聞いたエース! 最近の若いもんは、最先端が当たり前だと思ってんだぜ?」
素っ頓狂な声を上げるギルバートに、エースが苦笑する。家から持ってきたナップサックを開き、中から取り出した赤いエプロンに慣れた手つきで腕を通す。同色のキャップを、つばが背後に向くようにかぶった。
「あんたも充分若いんだろ。ほら、注文は?」
あからさまに適当にいなされて、頬を膨らませる。
「チキンとベーコン」
「あいよ、チキンとベーコンね」
軽く復唱すると、エースは二人に背を向けた。ギルバートは懲りずにエムに家族写真を見せている。
「赤ちゃんだ!」
改めて視線を落とした少女は、嬉しげな声を上げた。
「おぅよ。可愛いだろう」
酷くにやけた声で、ギルバートが返す。
視界になくてもその顔を想像するのは容易だ。内心、半ば呆れて、エースはコンロのスイッチを入れた。
鉄板が熱くなるまで十数秒待ってから塊のままのバターを手にし、その断面を円形の鉄板の上で滑らせる。じゅぅ、という小さな音と共にバターが溶けた。ふつふつと小さな泡がたつ。
すぐに、保冷容器に入っていた薄い灰色の液体をレードルで一掬いする。鉄板の真ん中に、とろりと広がるその中央にT字型になった金属製の棒をのせ、くるりと一度回せば、薄い円形に広がった。
ガレットとは、そば粉を水で溶き、薄く焼き、様々な具材を包む料理の名だ。
エースは手馴れた要領で、もう一つの保温容器からラタトゥイユを掬うと、生地の真上に乗せた。先ほど冷蔵庫から取り出したアルミ容器から、鶏肉を蒸してほぐしたものを、更に散らす。
フライ返しで、円形のガレット生地に内接するような正方形を軽く刻む。次いでその線に沿って、外側を折り曲げた。そして、更に四つ折にする。最初に生地の周辺を曲げたから、具材ははみ出さない。
やや深さのある紙皿にひょい、とガレットを乗せる。
もう一方のフライパンに火を入れ、ベーコンを投入した。
ちりちりと、滴り落ちる油が小さくはねる。
楽しげに赤ん坊の写真に見入っていたエムが、立ち上る香りに視線を上げた。
細身の少年は、迷いのない動きで二枚目のガレットを焼いている。
数分で焼き上げた二枚を、紙袋へ入れた。
「はいよ」
軽く声をかけると、生まれたばかりの頃の娘の写真に見入っていたギルバートがようやく顔を上げる。
「お、ありがと」
スラックスのポケットを探り、皺だらけになった紙幣を取り出す。エースは作業台の引き出しの一つを開けると、硬貨を数枚取り出した。
「毎度」
紙袋を片手に掴むギルバートを、腕を組んで見る。
「俺はありがたいが、毎日それで飽きねぇか?」
「今、うちの奥さんは料理してる暇はないからな。それに、エースのガレットは美味いし」
「親方のだろ」
苦笑して返す。ギルバートはにやりと笑ってそれを流した。いつもの会話だ。
「じゃあな。エムちゃん、よかったら今度遊びに来いよ」
「いいの?」
おお、いつでもいいぞ、と言い置いて、男は姿を消した。みるからにわくわくした顔で見上げてくるエムの頭を、軽く撫でる。
この街、アウルバレイは、山あいにある小さな街だ。名実共に田舎で、世界の最先端からはほど遠い。
しかし、それには理由もある。
数百年も前に作られた街並みは、今でも殆どそのまま残っている。懐古趣味に駆られた観光客が、世界中からこの辺鄙な街へとやってくるのだ。
それを貴重な収入源とするアウルバレイは、あえて街をずっと古い雰囲気のままに保っている。道路はアスファルト舗装などされずに石畳だし、鉄筋コンクリート造やガラス張りの鉄骨造の建物などはない。流石に馬車はもう使われてはいないが、二、三十年前までは数台が観光客相手に営業していたという。
とはいえ、一歩建物の中に入れば、設備はそれなりだ。空調は万全だし、インターネット回線などもきちんと整備されている。尤も、インフラのレベルは田舎相応ではあるが。
その辺りも、大都会からやってくるような観光客には微妙に目新しいらしい。
エースが働いているのは、街に二つある広場のうち、自宅に近い方だ。
ガレットは、この街の伝統料理ではないが、昼食や軽食を自宅で摂る風習のない地元の社会人には、手軽で栄養のある料理としてそこそこ人気である。勿論、親方の腕あってのことだ。
また、曜日に関係なく訪れる観光客にも、安価な料理なだけに気軽に買いやすい。広場には、彼ら以外にも幾つか同じような店が出ている。
「エース! ソーセージとチーズの一つ!」
「あいよ」
背広を着た男の注文に軽く返す。飾り切りの入ったソーセージをフライパンへ投入した。ガレットを焼く合間に時折小さくそれを振って、満遍なく火を通す。
自宅や職場に持って帰る者、近くのベンチで食べていく者など、客は昼に近づくにつれてひっきりなしに訪れた。
エースはそれを落ち着いて順番に捌いていく。
観光客らしい、ある二人連れが、小さく笑いながらエースの後ろを見ていた。不審に思って、視線を流す。
「あ」
椅子から半ば腰を上げ、エースの様子を覗き見ていたエムと視線が合った。
真っ赤になって、慌てて座り直すと視線をあらぬ方へ向ける。エースも前に向き直った。
微笑ましげな客の表情に、二人はややいたたまれない気分になる。
「エム」
「ふぁい!」
思わず妙な声を上げてしまう。エースが噴出しかけて、肩を震わせた。
「……椅子、こっちに持って来い。見えやすいだろ」
片手で、自分の横を示す。背後にいる今よりは見えるようになるだろう、だが、そこは冷蔵庫の前だ。エースがそこを避けて、狭い自分の背ろに椅子を置いた理由は明確だった。
「え……でも」
「どっかぶつけたり壊したり怪我したりするなよ。ゆっくり移動しろ」
エースが告げたのはそれだけだった。言われた通り、エムはゆっくり立ち上がる。折りたたみの椅子は軽く、彼女でも持ち上げることができた。
ちらりとエースがその様子を伺う。客は今や満面の笑みで視線を少女に向けていた。
かちゃん、と音を立てて、椅子を置く。慎重にそれに座ると、エムは真っ直ぐエースを見上げた。
少年の横顔は、唇を引き結んでいた。すぐに緩んでしまうのを、堪えるように。