「話し合い、ねぇ」
エースとGは、研究棟の廊下にただ立っていた。
この建物は、他のものと造りが違う。
〈神の庭園〉にある大抵の建築物は、メインの入り口は一つ。エントランスから廊下が幾つも別れ、各個室へ繋がっている。幾つか他に出入り口はあるものの、非常口のような扱いだ。
しかし、イアン・オライリーの研究棟は、正面玄関から進むことのできる廊下は、一本。それは、何度も曲がり、時に階段を経由して、彼の肉体が安置されていた部屋と隣の研究室へと繋がっている。
無論、屋内にあるのがその部屋だけという訳ではない。他にも研究員の個人的な研究室や事務室、資料室、倉庫などが存在する。だが、それらは数部屋単位で一つ、外部への出入り口を持っていた。
つまり、それらの場所からイアンの部屋に行こうとすると、一旦外へ出て、再び正面玄関から入り、長い廊下を通って向かわねばならないのだ。
逆に言えば、イアンの部屋からは、直接どの部屋へも通じていない。
そして、その部屋と外部へ向かう廊下は、厚さが三十センチはあるコンクリートで構成されていた。
その全ては、〈根源の能力者〉イアンの被害を最小限に食い止めるためのものだ。
今のように。
破壊音が微かに届く。
廊下にはある程度の間隔を空けて、隔壁が降りてくるようになっている。
万が一の場合の足止めと聞いたが、一応役には立っているようだ。
逆に言えば、それほどの備えが必要な相手であると言うことだが。
兄弟は、無言で待っていた。
十数メートル前方の隔壁が、へこみ、ひしゃげ、破れ、直径二メートルほどの穴が空くまで。
ぴたり、と動きが止まる。
絶え間なく響いていた破壊音が途絶えた。
穴の向こう側から、こちらを伺っている気配がする。
緊張を隠せない顔で、Gが声を張り上げた。
「イアン・オライリーか? 我々は、武器を持っていない。貴方の記憶よりも、現在の状況は随分と変化した。話し合う必要がある。ひとまず、平和的な交渉を要望する」
十数秒、沈黙がその場を支配して、そして。
鋭い風切音を発して、緑色の鞭が兄弟目掛けて放たれた。
それは視界を一瞬過る程度しか認識できなかった。何の手立ても講じていなければ、呆気なく打ち倒されていただろう。
だが、実際には、Gの前方五メートルほどまで近づいた途端、それは鈍い音を立てて床に激突した。
「…………うわあ」
エースが低く呻く。
おそらく、とは思っていたが、それは冬薔薇の蔓だった。但し、太さは直径十五センチほど。エースが両手で掴めるぐらいに成長している。ところどころから、深紅色の新芽や鋭い棘が生えていた。
植物を、意のままに操る能力。その発露。
あの蔓を、あんな目にも止まらない勢いで叩きつけられたら、どんな惨状になることか。
そんな想像が現実味を帯びて、ぞっとする。
「武器は持っていない、か? お前、能力者だろう。道理であの野郎ども、強気だった訳だ」
……始めて聞く父親の言葉は、酷く刺々しいものだった。
両手で、妹たちの手をぎゅっと握る。
アイとエム、しぃは、揃って避難施設にいた。非戦闘員である職員たちと一緒に。
エムは幼く、能力も発現してはいないため、現場には勿論出られない。
しぃは未だ、その能力の使用を禁じられていた。
もしもイアン・オライリーがここに来てしまったら、彼を食い止めるのはアイだ。
……自分も現場に行く、と言い募るアイは、そう言って止められたのだが。
確かに、イアンの目的が判らない以上は、戦力を分けるのは必要な措置だった。
脱出と逃亡が目的なら、ここは襲撃されないだろう。
研究所への復讐が目的でも、女性や子供には手をかけないかもしれない。
だけど、もしも。
彼の目的が、全滅にあるのなら。
「大丈夫。大丈夫よ。Gは、凄く、強いんだから」
アイは確信に満ちた声音で、二人を励ました。
内心は、皆に負けぬほどに不安を感じていたとしても。
蔓薔薇が撥ねる。
先端部は床に貼りついたままだが、そこから根本へと繋がる蔓はぐねぐねとうねっていた。
まるで、頭部を抑えつけられた蛇のようだ。
「びくともしねぇな」
呆れたような声が放たれる。
Gは、イアンがここに到着するまでに、下準備を終えていた。
彼らの立つ位置から、隔壁までの距離の中間ほどまでの床に対し、強力な重力を発生させていたのだ。
Gの能力が発動するまでには、時間がかかる。充分な威力を発揮できたことに、安堵した。
「貴方の能力は、通用しない。話し合いに応じては貰えないか」
重ねて要求する。
隔壁に開いた穴の向こう側で、何かがうごめいた。
ぺた、と裸足で男がこちらへと踏み出してくる。
半袖、七分丈の病衣から、細身ながら筋肉のついた手足が伸びている。
寝乱れたようなぼさぼさの金髪の下に、ぎらついた瞳がこちらを睨めつけていた。
そして、イアンの周囲には、とぐろを巻くように、螺旋を描くように、蔓薔薇が渦を作っている。
「話し合い、ねぇ」
イアンは、重力を操作している範囲の少し手前で足を止めた。
最初に迎撃されたものよりは幾分か細い蔓が数本、またしても兄弟に向けて宙を舞う。
それはやはり、即座に床に叩きつけられるように落ちた。
「無駄だ、と言った筈だ」
緊張を押し隠し、険しい視線でGが父親の動向を伺う。
「ふぅん」
落ちた薔薇が、ざわりと揺れた。
蔓のそこここで、次々に紅い新芽が芽吹き、だがその端からぺたりと伏せていく。
それでも、その成長は止まらない。
細い枝は太さを増し、ぐんぐんと延び、人の頭ほどはありそうな蕾が膨らみ、散っていく。
重力が強いだけでは、植物の成長は止まらない。
見る間にその量は増え、やがて見上げるほどになり、じわじわと二人との距離を詰めていく。
「これだけの薔薇が枯れて、一気に崩れ落ちた時に、お前らは無事でいられると思うのか?」
嘲るように、男は告げた。
 




