「やあ、今日も来ましたよ」
〈神の庭園〉に続く山道を、一台のバンが進む。
それは大きな門扉の手前で停止した。脇の詰所から、警備員が姿を見せる。
運転席の男が、慣れた手つきで身分証明書と車両登録証を手渡した。
車の、リアやバックガラスのある部位は塞がれている。訪問する業者以外で、このようなバンに乗っている職員は今までいなかった。チェックをしながら、何の気なしに警備員が口を開く。
「見たことのない車だね」
「新車だからな。今度、仲間でキャンプに行くのさ」
楽しげに笑う男に、笑い返した警備員は証明書を返した。
門扉が開き、バンは何事もなく山を登っていった。
イアン・オライリーの研究室には、最近、見学者が多く訪れるようになった。
この研究所は、そもそもイアンの研究をするための施設だった。
しかし、五十年近く前に彼の研究は文字通り凍結される。
その後、彼の血を継ぐ者たちへと研究所の関心は移っていく。
結果、イアンの研究チームは、言わば『人気のない』部署に落ちたのだ。
過去のデータをまとめることと、被験者の状態を維持すること。
何の新しい変化も功績も見られない研究チームは、他を妬み、僻み、そしてゆっくりと腐っていく。
年月が経過し、人員が去り、そして新しく配属される者も、自然とそのような人格である者が揃っていった。
しかし、ここ一月ほどで急増した、子供たち──〈苗〉たちの来訪回数。
そして、それ以前のある事件に伴い、一度に多数の職員が退職し、その後新たに雇い入れた者たちが、そもそもの起源であるイアンについて知りたがったことで、彼らは再び脚光を浴びたのだ。
満足げに、チームリーダーは研究室を見回した。
ついこの間までの、鬱屈し、愚痴ばかりを零していた空気が一掃されている。
古いデータをまとめ直す仕事。幾度も手を入れられたそれは、もう、これ以上作業のやり様もないと思われていた。
しかし、注目を浴びたことで、より判りやすく、また新たな着眼点での分析など、チームが活き活きと動き始めている。
他にも、雰囲気が明るくなったことがある。
子供たちが、父親に、と贈ってくる花だ。
週に一度ほどではあるが、施設内の温室から摘んで持ってきていた。
イアンを寝かせている部屋は、この間までは白一色の殺風景なものだったが、今は小さな花台と花瓶が置かれていた。そこには細い茎の冬薔薇が活けられ、それでも鮮やかな黄色で目を引いている。
満足げな息をついたところで、電子音が鳴った。
見学者がやってきたのだ。
今日の見学者は、二人の男。
一ヶ月ほど前にこの研究所に配属された者たちだ。
「やあ、今日も来ましたよ」
にこやかに挨拶を交わして、彼らは周囲を一瞥した。
室内には、チームリーダーしかいない。
基本的に、職員には一律で決まった休日はなく、交代で休みを取っている。
今日は、割と休んでいるメンバーが多く、出勤している者も、休憩時間になっていた。
この時間になったのは、来訪者の要望だったが、彼らからの称賛を一人占めできるので、リーダーに不満はない。
雑談を交わしながら、打ち合わせ用の小部屋に向かう。
先に立って扉を開き、中に入っていった、その白衣の背中に。
とん、と何かが押しつけられた。
力の抜けた身体を引きずって、小部屋の中に入れる。
完全に相手の意識が失われていることを確認して、見学者たちは視線を交わした。
無言で、一台の端末に近づいていく。
端末自体にロックはかけられていない。この、長年日陰の身となっていた研究室は、そういった辺りが杜撰になっている。
目当てのプログラムを立ち上げて、あらかじめ聞かされていたパスワードを入力する。
部屋の奥、ガラス窓の向こう側で、空気が白く濁った。
研究室とイアンの部屋とを繋ぐ扉を、用心深くくぐる。
彼を封じていた[繭]は、透明なその蓋を僅かに持ち上げていた。その隙間から漏れ出した冷気が、周囲の気温を下げていく。
「状況は?」
「異常なし。早く運ぶぞ」
一人の男が蓋を大きく開き、もう一人の男が手に持っていた鞄から、奇妙な素材でできた三十センチ角ほどの大きさの何かを取り出した。手早く床の上に広げると、それはまるで寝袋のような形になった。
「手伝ってくれ」
請われて、大型の機械に近づく。腰ほどの高さに寝かされている男を持ち上げるには、一人では無理だ。
安全に、正規の手順で冷凍睡眠から解き放たれた男は、ぐったりと二人の手に身を任せている。
広げられた寝袋に、慎重にイアン・オライリーの身体は詰められていった。
静かな室内に、小さく、水音が響いた。
その日、エースは〈神の庭園〉にやってきていた。
顔を合わせた若い職員たちと軽く雑談などしていたところだったのだ。
「そういえば、来る途中の駐車場で、エンジンつけっ放しの車があったけど、大丈夫か?」
「ん? それは、禁止事項だな。どこ?」
そう返したのは、研究員ではなくて事務関係の職員だ。
「モノレールからここに来る間の駐車場。白い、大型バンだったんだけど、ここで見るのは珍しくてさ」
目がいってしまったのは、自分が仕事をしているのも似たようなバンだったからだろう。窓を塞いでいるのは、業務用に多いタイプだ。
「ありがとう。ちょっと見てく──」
職員が踵を返しかけた、その時に。
〈神の庭園〉内に、警報が鳴り響いた。
「警戒コード、46! 繰り返す、警戒コード46! 総員、速やかに対処せよ!」
電子音声染みた声が、警報に被さるように施設の各所から轟く。
「な……、なに!?」
呆気にとられて呟くが、誰もエースに答えてくれようとはしない。
「ちょ、二桁代!?」
「マジか!」
驚愕の、あるいは怒声を上げて、その場の全員が走り出す。
「ええと……」
「エース!」
その場に取り残されそうになった少年を、背後から呼ぶ。
顔色を青褪めさせたGが、立っていた。
この研究所で、エースが自由に動き回れる場所は限られていて、Gは大体その近くにいるようにしている。
彼の確保が間に合ったことに、心底安堵した。
「何があったんだ、G?」
戸惑ったように、エースが問いかけてくる。
自宅に設定している警報なら熟知しているのだが、流石にこちらは全く知らない。
「とにかく、奥へ。この警報は、施設が破壊されたものだ」
「破壊?」
物騒な言葉に、眉を寄せる。
「番号からすると、イアン・オライリーの研究棟になる」
緊迫した兄の声に、エースも顔を強張らせた。