「なんて名前だ、嬢ちゃん」
エースの自転車の荷台には、薄い毛布が畳んで敷かれていた。紐で、ずり落ちないように縛られている。
確かに、昨日そのまま座っていたよりはましである。しかし、手の入れられていない舗装道路のがたつきそのものは軽減されない。
酷く揺れる度にエースの腰に回す手に、ぎゅっ、と力を籠めて、エムは人気のない道路を運ばれていく。
数分も進むと、道の傍に川が寄り添うように流れ始めた。やがて、向こう岸とこちらを繋ぐ橋が見えてくる。
橋と道路が交差する場所は、シャッターで塞がれていた。自転車が近づくと、金属の細い棒で組まれたそれが自動で開き始める。
エースは、ここを通るためのパスを持っているからだ。それを持っていない人間が出入りするためには、シャッターの傍にある通話機で孤児院側の許可を得なくてはならない。
自転車が向こう岸にたどり着いた辺りで、またもシャッターは自動で閉まり始めた。
だが、目の前に開けた、初めて見る街に、エムは既に夢中だ。
こちら側も、道路は石畳で舗装されている。が、適度に磨耗していることと、定期的なメンテナンスのおかげで、身体へ響く震動はまだ少なくなっている。
淡い黄色の石で建てられた建物には、様々な色の窓枠が嵌められ、花台に置かれた植木鉢にはこぼれんばかりに花々が咲き誇っていた。
車道には、旧式のガソリン車から、電気式、水素式まで多種多様な車が走っている。
若者や老人が、談笑しながら歩いている。
その、鮮やかな色彩!
「すごい……」
小さく呟いた言葉を聞き咎め、エースがちらりと視線を向ける。
「街は初めてか?」
「うん。ぼくはまだ、外には出して貰えなかったから」
エムはまだ幼い。街に慣れていないなら気をつけないといけないな、と、エースはやや気軽に思った。
この街に大きな広場は二つある。その内の一つ、孤児院に近い方にエースは自転車を滑りこませた。
そこここに停められた車の間を縫って、一台の大型バンの横でブレーキを握る。
キィ、と甲高い音が響く。すぐに窓から一人の男が顔を出した。
「親方、おはよう」
「おぅエース、おはよう……」
慣れたように挨拶してきた相手は、自転車の荷台に座っている子供を目にして数度瞬いた。
「お……おはよう、ございます」
きちんと挨拶をするんだぞ、と出がけに言われた通り、エムは荷台に座っている状態でできるかぎり礼儀正しく会釈をした。
「エース。何だその子は」
だが呆れた顔で、親方と呼ばれた男は問いかける。
車の窓越しのため、胸元から上しか判らない。だが、厳つい顔立ちと半袖から覗くエムの腰ほどもありそうな二の腕の太さだけでも、少女が怯えるには充分だ。
しかしエースはこともなげに告げる。
「うちの新入りだよ。昨日来たんだ」
「あー……。そうか。いやしかし、お前んとこは確か……」
一瞬納得しかけて、何故か親方は考えこむ。
その間にさっさとエースとエムは自転車を降りていた。前籠に入れていたナップサックを手に取る。
「うちに慣れてないし、ちっこいから放っておけないんだよ。頼む。一緒にいていいだろ?」
片手を顔の前に上げ、拝むように頼みこむ。
大袈裟な溜め息をついて、親方は肩を竦めた。運転席のドアを開けて降りてくる。
「危ない目に遭わせるんじゃねぇぞ。あと、駄賃は出さないからな」
ちぇ、と小さく呟いたエースの頭を、男は軽く小突いた。
そして視線を向けられて、エムがびくりと身を竦める。
「なんて名前だ、嬢ちゃん」
しゃがみこみ、目の高さを合わせて尋ねられる。気を遣われているのだろうが、日に焼けた肌、短いブラウンの髪と顎鬚、Tシャツとジーンズという服装から容易に判る筋肉質の肢体に、エムは怯えを隠せない。
「エ、エム、です」
名前を聞いて、男は一瞬きょとんとした顔をした。
「そうか。いい子にしてろよ」
だがすぐにそう告げて、その大きな手で頭を撫でた。
温かさと柔らかさに、少し驚く。
よ、と呟いて立ち上がると、親方は二人が今まで乗ってきた自転車に手をかけた。
「じゃあ夕方な」
「おぅ」
慣れたように言い交わすと、親方は自転車に跨り、去っていく。
「いいの?」
戸惑って尋ねると、エースは小さく笑った。
「親方は南の広場で店を出すからな。これから家まで自転車で戻って、その後自分の車を出してくるんだ。夕方には返してくれるから大丈夫だ」
「お店?」
小首を傾げるエムに、昨日会ったばかりの義理の兄は片手をバンに触れさせて、口を開く。
「ここでガレットを売るのさ」
がらり、と荷台の方の扉を開く。
内部は普通のバンではない。改造済みだ。車体の側面に向けて二口のコンロと、その横に作業台が作られている。後部には小さなシンク。給水タンクと排水タンクが地味に場所を取っている。そして作業台の下を占める冷蔵庫。残りの、人が二人立てるかどうかという狭さの空間には、今朝エースが自転車の籠に入れていたのと同じ保温容器が二つ置かれている。
エースは無造作に床に膝をつくと、その容器の蓋を開く。
中に、どろりとした灰色がかった液体と、親方特製のラタトゥイユがそれぞれ入っているのを確認すると、再び蓋を閉めた。作業台の上に二つともを置く。ついでにナップサックも端に置いた。
空間が空いたところで、バンの入り口から覗きこんでいたエムを呼ぶ。折りたたみ式の椅子を広げると、入口近くに寄せた。
「座ってな。危ないから、その辺触るんじゃないぞ」
手を差し出し、上がるのを手伝いながら、注意する。目を見開いて車内を見回しているエムは上の空だ。
彼女と入れ替わりに、外に出た。出入り口とは反対側に回る。車体の中央辺りにある取っ手を握り、がこん、と音を立てて上へと持ち上げた。
車内の、驚いた顔のエムと顔を合わせる。
慣れた手順でロックをかければ、それは庇になる。窓の内部に収納してあった木製のカウンターを引き出した。金具が、ぴん、と延びて、カウンターが水平になったところで固定される。
よし、と小さく呟いて、再び出入り口へと回る。
エムの横をすり抜けると、しゃがみこみ、冷蔵庫を開けた。
カットされた野菜やベーコン、ソーセージや調味料など、アルミ製の器に入っているものを取り出す。
下準備は全部親方が済ましてくれている。それらを、普段使う場所にセットすればいい。準備に関して、エースの仕事は割と楽だ。
コンロは二口。電気調理器具だ。エースが未成年であることと、安全性を考えて、ガスは使われない。このバンが電気自動車なのも、ガソリンなどが引火しないようにということだ。
うち一つに直径三十センチほどの円形の鉄板を、もう一つに小ぶりのフライパンをセットする。
周囲を満足そうに一瞥すると、エースは背後におとなしく座っているエムへと向き直った。
小さな少女の大きな瞳は、疑問でいっぱいになっている。
「あの……」
「いよぅ、エース! 今日は遅れなかったぜ!」
「うきゃぁあああああああ!?」
突然、すぐ背後の扉が勢いよく開かれて、不意を衝かれたエムは大きく悲鳴を上げた。