「これが、現実なのね」
翌日、サムウェルは正午前に孤児院に現れた。
「ちょっと街に行こうか」
その申し出に、例によって孤児院長が難色を示す。
「このまま連れ去ったりはしませんよ。そうなったらこちらが犯罪者ですからね」
携帯電話の番号も知らせ、何とかマリアを助手席に乗せた。
街までの、さほど長くない道の途中には、幾つかの家が建っている。孤児院の手伝いをするために住んでいる者、また、農地を借りている者などだ。
だが、今は、それらの家は人の気配がないか、忙しげにトラックに荷物を載せているかだ。
「……あの人たちも、ここから出て行くの?」
「そのようだね」
川を渡った辺りは、人気が少ない。ここから山までの間は、孤児院が保有する敷地しかなく、街の人間にとっては殆ど用事はないのだ。
男は、車を川沿いの道に停めた。
「マリア。私は、昨日、君を焚きつけた。公平ではなかったと思う」
「おじさま?」
きょとん、として、マリアは運転席の男を見上げる。
「君が、もし、穏やかに暮らしていきたい、と言うなら、私はその手伝いだってできるよ」
真っ直ぐにそれを見返して、サムウェルは告げた。
「私、一晩考えたの。おじさま。お父様たちは、コヴィントンに殺されたのでしょう?」
「……証拠はない」
「だけど、だったらどうして、お父様たちが亡くなってすぐ、私が表に出なくてはならない、葬儀と言う場が終わってすぐに、私をここに送りこめるの? 準備が良すぎるわ、そうでしょう?」
精一杯のきつい瞳でそう言い張る少女に、笑みをこぼす。
「あのおちびさんが、そこまで考えるようになっているとはね」
「私だって、いつまでも子供じゃないのよ」
その主張に、サムウェルは真面目に頷いた。
「だが、君が気づく程度の陰謀であるとも言える。君を煽り立て、拙速に動かし、早々に目的を達するために」
その言葉には、マリアは少々おぼつかない顔になった。
「慎重に行動し、コヴィントンの鼻を明かしてやろうとすると、それだけ、こちらも長期間、奴の策に晒されることになる。それが、結局、君のためになるのかどうか」
「おじさま……?」
男の言葉の意図を計りかねて、マリアは小首を傾げた。
「今日一日、見て考えなさい。それから決めても、遅くはない」
車は、あるホテルに横づけされた。
こじんまりとした建物は黄色い石で造られ、窓枠や扉は白く塗られている。
マリアたち家族がこの地に来た時に、必ず泊まっていたホテルである。
いつもにこやかに迎えてくれていたホテルマンは、しかし、二人を見た途端に顔を引きつらせた。
それに対しては無言で、サムウェルは車のキーを預ける。
ホテルのレストランでも、まるで腫れ物に触るような、他人行儀な態度を取られた。
料理はいつもと変わらず素朴で美味しかった。ここ数日の、質素な食事から考えれば、豪勢と言っていい。
だが、どうしても違和感が胸に残ってしまう。
彼らのあの態度は、マリアが家族を亡くした、ということからだろうか。
それにしては、悔みも言ってこないし、と、釈然としないまま、少女は食事を終えた。
「美味しかったわ、おじさま。ありがとう」
「それはよかった」
マリアの言葉に嬉しげに返してくるが、その視線は何かを探っているようだ。
「これから、どうするの?」
「ちょっと街を歩いてみよう」
街の北側の広場に面した、大きな建物の階段を上がる。
「ここは?」
「仕事を紹介してくれる場所だよ」
お仕事、と口の中で呟く。はっと息を吸って、マリアはサムウェルの手に縋りついた。
「まさか、マリアのところで働きたくなくなったの?」
その言葉に、サムウェルは一瞬動揺したが、すぐに意味を悟って破顔する。
「違う違う。確か、孤児院には、小さな子供が何人かいただろう。ベビーシッターを雇わなくては」
「ベビーシッター?」
「そう。それに家政婦だね。修道女と同じ五人、とはいかなくても、二人はいて欲しいところだ」
ぽかん、として、マリアは男を見上げた。
「そんなこと、考えもしなかった……」
今まで何不自由なく暮らしてきたマリアは、実生活において何が不可欠なのかを知らない。
その小さな手を握って、サムウェルは扉を開けた。
所定の用紙に、ボールペンで記入していく。
今時電子化されていないとはね、と、面白そうに呟きながら。
暇なのか、隣の同僚とおしゃべりしていた窓口の男に、用紙を差し出す。面倒くさそうにそれを受け取った係員は、一瞥して息を詰まらせた。
「何か問題が?」
静かに、サムウェルは尋ねる。
「ああ、いや。ベビーシッターに、家政婦ね。最近、なり手がいない業種だよ」
「そうでもないだろう」
係員は、こちらの様子を伺うように、上目遣いで視線を向けてくる。
「あんた他所の人だろ? この街じゃ、そうなんだよ。賃金が安いしな」
「そうか。この辺りの相場を知らなくてね。教えてくれたら、書き直そう」
サムウェルが手を伸ばすのに、慌てて相手は用紙を引き出しにしまいこんだ。
「いやいや、大丈夫だ。すぐに募集をかけてみよう、うん」
「そうか。では、頼む」
サムウェルは穏やかに返すと、険しい顔をしているマリアを促して、その場を去った。
「ねえ、おじさま。今の……」
街路に出たところで口を開くマリアを、頭を撫でることで黙らせる。
「あと一件、つきあってくれないか。話はその後にしよう」
二人が次に足を向けたのは、不動産屋だ。
店主は、サムウェルの顔を見た途端に渋い顔をした。
「一人暮らしだから、特に希望はない。アパートメントでも、下宿でも、一軒家でも、住めれば何でもいい」
「ですが、今、適当な物件はなくてね」
「広さも、場所も、家賃も条件通りでいいのにか?」
「他所者に貸すのを嫌がる家主が多いんだ」
店主にしてみれば、話を切り上げるための言葉だっただろう。だが、それは失敗だ。
サムウェルは、穏やかに言葉を継ぐ。
「この国の法では、人種、宗教、性別、出身地などの理由に依って貸し渋りを行うことは禁じられている筈だがね?」
「駄目なものは駄目なんだよ」
乱暴に片手を振って、二人を追い出そうとする。そこで、彼らのやり取りをじっと見ていた黒髪の少女が、口を開いた。
「おじさまは、弁護士なのよ」
その単語を耳にして、店主の顔からざっと血の気が引く。
「貴方の顧客情報を開示して貰うことになるかもしれないね」
「か……勘弁してくださいよ、旦那」
肌寒い季節だというのに、男は広い額に汗を滲ませている。
しかしそこで、サムウェルは滑らかに立ち上がった。
「おじさま?」
「では、何かいい物件があったら、知らせてくれ。待っている」
驚くマリアを視線で促して、男は店を辞した。
「なんなの、あれ!」
腕を大きく振って、マリアが怒声を上げる。
「まあ、落ち着きなさい」
「だって、あんな、酷いこと! おじさまも、どうして引き下がったのよ」
怒りを転嫁するように睨みつけられて、サムウェルが苦笑する。
「初めてではないからだよ」
「え?」
思わず立ち止まったマリアの横を、サムウェルはゆっくりと歩き続けていく。
「午前中に、三軒の不動産屋を回った。街の、それぞれ違う地区だ。結果は、全部同じだったよ」
「コヴィントンのせいね……!」
小さな手が、ぎゅう、と、握られる。
「半分は、当たっている」
「半分?」
「私がこの街に住む、と口にしたのは、昨日の夕方、孤児院でのことだ。情報を漏らしたのは、おそらくマザーだろう。だけど、一晩で、コヴィントンが、街の隅々まで命令を行き渡らせられるかな?」
「できるわよ。一晩もあれば」
当然、と胸を張る少女に、微笑みかける。
「と、言うかね。世界的企業であるコヴィントン&ブライアーズ商会の、最高経営責任者になろうかという男が、わざわざこんな、地方の小さな街の不動産屋に自ら手を回すかね?」
「おじさまったら、何が言いたいのよ!」
焦れて見上げてくる少女に、肩を竦める。
「小魚を一匹一匹掬うよりも、網を握っている男を雇う方が効率的だ」
「網?」
「アウルバレイという網をね。マリア、ヒギンズ家のことを、覚えているかい?」
先端の尖った鉄の棒が、敷地をぐるりと取り囲んでいる。
木々の茂る庭の奥に、立派な屋敷が見えた。
父母に連れられて、何度か訪ねたことがある。恰幅のいい紳士と、美しい奥方、マリアより五つ年上の礼儀正しい少年と、一つ年上の、明るく活発な少年が、ブライアーズ一家を暖かく歓迎してくれた。
今は固く閉められた門を遠目に見て、ぼんやりと過去を思い返す。
「ヒギンズ家は、言ってみれば、マフィアだ。この街の顔役だね。孤児院の運営が上手くいくように色々と便宜を図ってくれていて、それでブライアーズ家と関わり合いがあった」
「それが、今はコヴィントンの側に着いたという訳ね」
眉間に皺を寄せ、呻くように呟く。
「落ち着きなさい、マリア」
宥めるように撫でられる髪さえ、苛立ちを増長させる。
「実は昨夜、面会を申しこんだのだが、断られてね」
こともなげにそう言いながら、ふらりと足を進める。
「おじさま?」
「ひょっとしたら、今なら時間が空いているかもしれないだろう?」
インターフォン越しに、執事は丁寧な、しかし取りつくしまもない拒絶を伝えてきた。
「なんて失礼なの!」
ぷりぷりと怒りながら、マリアが再度インターフォンを押そうとする。
まあまあ、とその手を取り、サムウェルは塀に沿って歩き始めた。
「大体、おじさまはここに何をしに来たのよ!」
苛立ちを、サムウェルにまでぶつけるマリアに、男は静かに口を開く。
「マリア・ブライアーズが直接来訪しても、ヒギンズの意思が変わらないかどうかを確かめに、ね。そして」
静かな目で、少女を見下ろす。
「君に、現実を知らせるためだ」
「……現実?」
呟きは、二箇所から発せられた。
二人が振り向いた先に、庭の木の幹に隠れるように立つ少年の姿があった。
びくり、と身を震わせる少年に、サムウェルが静かな声をかける。
「パーシヴァル様、ですね? 大きくなられた」
覚えている。
ヒギンズ家の、次男坊だ。
庭を案内してくれた。
三ヶ月前に産まれた、という子犬を抱かせてくれた。
屈託なく笑って、夕方まで一緒に遊んでくれたのだ。
だが、その少年は、暗い表情で首を振った。
「……覚えてない。誰」
「私がお会いしたのは、もう六年ほど前のことですからな。こちらはご存知なのでは? マリア・ブライアーズです」
サイズの合わない、着古した、センスのちぐはぐな服を着ていることに、マリアは急に羞恥を覚えた。
パーシヴァルは、視線を逸らせて、答える。
「……もう、遊んじゃ駄目だって、父様が」
鋭く、息を吸う。
「あなたは、それでいいのですか?」
「別に。いつものことだから」
息を吸う。吸って、吸って、吸って、そして。
そして何も言えずに、マリア・ブライアーズはその場から逃げ出した。
さほど衰えていないつもりでいたが、初老の弁護士が子供の全力疾走に追いつくのは、少々時間がかかった。
慣れない石畳を走り続け、何とか少女の肩を掴む。
乱れた長い黒髪の下で、しかしマリアは、涙を滲ませてすらいなかった。
「これが、現実なのね」
「そうだ」
息を、長く吸う。
「私、闘うわ。コヴィントンと。……ヒギンズと。ブライアーズの娘が、簡単に屈するだろうなんて、甘く見たことを後悔させてあげる」
ヒギンズ家は、マリア・ブライアーズの前に、初めて現実的、具体的に現れた敵となったのだった。




