「私、ここで一人ぼっちになるの?」
よく晴れた、初夏の午後だったことを覚えている。
磨き上げられ、塵ひとつ落ちていない邸宅。
色とりどりの薔薇が咲き誇る庭園。
楽隊の奏でる音楽。
着飾った人々の笑顔。
その日は、マリア・ブライアーズの十歳の誕生日パーティーだった。
父母からのプレゼントは、小粒のダイヤモンドのネックレス。
父母の友人の、コヴィントン夫妻からは、凝ったデザインの宝飾箱。
「これから、贈られたアクセサリーはこれにしまうといいよ」
微笑んで、そうアドバイスをくれた。
叔父からは、マリアの身長ほどもありそうな、くまのぬいぐるみ。
子供扱いして、と言いながらも、彼女は目を輝かせてそれを抱きしめた。
他にも色々とプレゼントされたが、その三つが一番心に残っている。
マリア・ブライアーズは、ブライアーズ家のただ一人の娘として、父や母、叔父、そして使用人の面々から溺愛されて育っていた。
その境遇のせいか、やや我儘なきらいはあったものの、年齢を考えれば、彼女でなくても許される範疇であっただろう。
しかし、彼女の、愛情に満ちた幸福な生活は、その後、半年もしないうちに終わりを告げた。
父母と、叔父の、急死である。
仕事で移動中に、高速道路を走行していて、運転を誤って事故を起こしたのだ。
見る影もない、と告げられた家族の遺体との対面は叶わず、マリアの記憶にある三人は未だ笑顔のままだ。
十歳の、現実を受け入れられない少女が何をできる訳もなく、葬儀は副社長のコヴィントンを中心に行われた。
黒い土をかけられていく棺が三つもあって、自分はどれを見つめていればいいのだろう、と、ぼんやりと考えた。
午後を回った頃に、ようやく解放された。
「疲れただろう、マリア」
声をかけてきたのは、コヴィントンだ。
「ええ」
固い声で返す。
今まで色々な人間が近づいてこようとしていたが、マリアの傍についていたコヴィントン夫人がさり気なくそれを遠ざけていた。
それでも、両親と叔父の葬儀、というだけで、疲労は溜まる。
「今日はもう、帰りなさい。後のことは私がやっておく」
「ありがとうございます、おじさま」
コヴィントンは、若い女性秘書をマリアと同じ車に乗せた。彼女について行くように、と告げて。
実際、マリアは酷く疲労困憊していて、ここで、立ったままでも構わずに眠ってしまいたかった。
この、寒々しい世界から離れて。
結局、車の揺れに身を任せてすぐ、少女は眠りに落ちた。
揺り起こされるまで、一度も目を覚ますことなく。
「着いたの……?」
目蓋を擦り、周囲を見回す。
もう、とっぷりと陽が暮れていた。
自宅に帰るまで、こんなに時間がかかるだろうか。
やや訝しく思いながら、マリアは大人しく車を降りる。
そこは、見覚えのある場所ではあった。
そこは、ブライアーズ家の所有する土地、所有する建物ではあった。
「ではマリア様。ご機嫌よう」
女性秘書が、礼儀正しく会釈すると、言葉も待たずに自動車は発進した。
「待って!」
声を上げ、数メートル追いかけるが、しかし追いつける訳もない。
立ち竦む少女に、背後から声をかけられた。
「お行儀が悪いですね、マリア・ブライアーズ」
眉を寄せ、振り返る。
相手は、以前に会った時よりも素っ気なく、居丈高な表情を浮かべていた。
「これはどういうことなの、シスター・クレア?」
ここは、ブライアーズ孤児院。
尼僧たちにより運営される、女児だけの孤児院だった。
ブライアーズ一家は、年に何度か、ここを訪れていた。
経営母体である彼らに対するシスターたちや女児たちの態度は常に礼儀正しかった。マリアは気づいてはいなかったが、おもねるような言動であったことも、多い。
だが、今、彼女たちは冷ややかな目でマリアを見下ろしている。
しかも、五人いた筈のシスターは、二人しかここに立っていない。
「ここは孤児院ですよ、マリア・ブライアーズ。孤児が置いていかれれば、状況は一つしかないでしょう」
「何ですって……?」
動悸が激しい。
嫌な汗が、背に、掌に、滲む。
「あなたは、孤児にふさわしく、今日からここで暮らすのです」
「どういうことなの、マザー!」
その後、とりつくしまもないシスター相手にまくし立て続け、マリアはようやく孤児院長に会うことができた。
壮年にさしかかった彼女の、こんな不機嫌そうな表情は、今まで見たことはない。
「どうもこうも。貴女は、ご家族を亡くされたのでしょう。ならば、孤児院に来るのは当たり前です」
「だけど、それは、身寄りも引き取り手もない子供のことで……!」
そこまで言いかけて、口をつぐむ。
彼女の今後のことなど、誰も話してはいなかった。
「そうですよ、マリア・ブライアーズ。貴女は誰からも見放されているのです」
目の前が真っ暗になって、膝が崩れ落ちそうだ。
こんなことは、両親たちが亡くなったと聞かされた、あの雨の夜以来だ。
だが、それは最後にはなり得なかった。
「そうそう、ついでにお知らせしておきますが、我々は五日後にこの孤児院を離れます」
「え?」
「他の教会などに異動になるのです」
「……私は?」
「ここに残しますよ。勿論」
何か勿論なのかとは思うが、それよりも聞かなくてはならないことがある。
「私、ここで一人ぼっちになるの?」
「まさか」
すぐに返された、その答えに一瞬安堵する。
「孤児を全員、貴方を含めて三十二人を残していきます。経営者として、このブライアーズ孤児院をしっかり運営していってください」
その後は質素な夕食を与えられ、寝室に送られた。
廊下から、がちゃり、と鍵のかかる音がする。
考えようとしても、不安と恐ろしさでまとまらない。
やがてマリアは、眠りに落ちた。
「マリア・ブライアーズ!」
大声が降ってきて、びくりと身体を震わせた。
ベッドの横に立っているのは、黒い修道服の女性だ。
「いつまでも寝ているものではありません。ここはお屋敷でもないし、貴女はもうお嬢様ではないのですからね」
苛立ちの混じるその言葉で、自分の境遇を思い知らされる。
のろのろと身を起こし、昨夜椅子にかけていた喪服に手を伸ばす。
「いつまでも、そんなものを着ていないで。鬱陶しい」
鼻を鳴らし、シスターは手にしていた衣服をばさりと放り出す。
驚いてただ見返していると、お礼も言えないのか、と毒づかれた。
無言のまま、与えられた服に袖を通す。
それは、鮮やかな色使いの子供服だった。上下で全く雰囲気が違うし、肘の辺りの布が奇妙に光っている。
とりあえず自分に従ったことに満足したか、シスターは彼女を階下に連れて行った。
どこからか聞こえてきたざわめきが、ある扉を開いた瞬間に大きくなり、そして静まった。
「おはようございます、皆さん」
主人の位置に座る孤児院長が、声をかけた。
「今日から、新しい家族が加わりました。マリア・ブライアーズです。仲良くしなさい」
室内の視線が全て、小さな少女に集まる。途方に暮れて、マリアは無言で立っていた。
「席につきなさい、マリア」
子どもたちのいるテーブルの末席が一つ、空いている。
じろじろと無遠慮に眺めてくる視線を気にしながら、座った。
主の祈りを唱えた後で、冷えたパン、ぬるいスープ、歯に沁みるほど冷たい水の朝食を取る。
「マリアお嬢様、どうしてここに?」
隣から、おどおどとした瞳で、小さく問いかけられる。
「私にも、よく判らないの」
「知ってるわよ。パパとママが死んだんでしょ」
マリアの囁きをかき消すような声が響く。
ざわり、と、淀んだ空気が揺れた。
「静かになさい、ソニア」
上座から叱責が飛ぶが、それ以上の言葉はない。
様々な視線を受けて、マリアは唇を噛んだ。
朝食後、ある程度の年齢の子供たちは街の学校へと出かけていった。
もっと幼い子どもたちの面倒に、シスターたちはかかりきりだ。
マリアは、一人、孤児院長の部屋に向かう。
まずは礼儀正しくノックする。
「どうしました?」
「マリアです、マザー」
ため息を漏らすだけの時間を置いて、声が返ってくる。
「私は忙しいのです。部屋に帰っていなさい」
二度目のノックはしなかった。
不躾に扉を開かれて、孤児院長は眉を寄せる。
「マリア……」
「私の荷物を返してください」
咎めるような声を無視して、要求する。
「孤児院に来た時点で、子供の私物は没収される決まりです」
「私のものよ! 返しなさい!」
頼む訳でもなく、当然のように命じてくる声音に、孤児院長は僅かに憎憎しげな表情を浮かべた。
「特別扱いをしては、周りに示しがつきません」
「もうすぐ捨てていく孤児院に、何の気兼ねがあると言うの?」
マリアの言葉に嫌悪の表情を深めるが、しかし、ほんの僅かながら良心が咎めたのか、会話の方向を変えた。
「何が必要なのですか」
「電話をかけるのよ」
携帯式端末の中にしか、電話番号は記録されていない。
自宅に電話をかけることすら滅多になかったマリアは、番号を暗記していない。彼女としては、希望の糸はそこにしかなかったのだ。
「……いいでしょう。特別ですよ」
黒い小さな鞄を胸に抱えて、自室に飛びこむ。ベッドにかけられた、ごわごわした毛布の上に中身をぶちまけた。
ハンカチやキャンディなどに混じり、子供の手にはやや大きい端末が、ぽすんと落ちる。
震える手でそれを掴むと、電話帳を開く。
自宅に電話すれば、執事が出てくれる筈だ。葬儀は昨日のことだ、まだいてくれるに違いない。
祈りながら耳に当てるが、端末は何の音も発しない。
数十秒待って、耐えきれずに画面を凝視した。充電は、まだ残っている。
二度かけ直して、次は叔父の家にかける。
それでも繋がらなくて、彼女はついにコヴィントン個人の携帯電話の番号を選んだ。
結果は、変わらない。
呆然として画面を見つめる。
そこで、やっと、電波が受信できていないことに気がついた。
「そんな……、どうして」
ここは田舎で、山間部ではあるが、以前訪れた時には、彼女の端末からはきちんと送受信できていたのだ。
マリアは、ぎゅっと唇をかんで、端末を握りしめた。
促されるまま、夕食を済ませる。
他の少女たちと一緒に入浴することはやや戸惑ったが、マリアは大人しくそれを行った。
何班かに別れての入浴は、時間が足りないものだったが。
与えられた部屋に入って、ベッドの上で膝を抱える。
どれほど経ったろうか、これみよがしな声が聞こえてきたのは。
「……そもそも、前から気に入らなかったのよ。パパとママと一緒に、何不自由ないって顔したお嬢さんでさ。いい気味よ」
瞬間、マリアは勢い良く扉を開いた。
その音に、扉の前を通り過ぎたばかりの少女たちは小さく悲鳴を上げた。
困ったような表情に、怯えたものが混じる者が、二人。そして、驚きと、ばつが悪そうな表情の者が、一人。
朝食時に、ソニアと呼ばれた少女だ。
マリアは、彼女らに向けてまっすぐ進んでいった。
「あの、マリアお嬢さん、これは……」
怯えている一人が、口を開く。
「ごまかさなくていいのよ、本当のことなんだから。今まで偉そうにしてくれたけど、これで、あんたも立場ってものをわ」
マリアは、無言のまま、その少女の頬を張り倒した。
「何をやっているんです!」
シスターの一人の前に立たされて、二人の少女は憮然としていた。
頬は赤くなり、顔や腕には幾つも引っ掻き傷ができ、髪の毛はぼさぼさだ。
「二人とも、明日の朝食は抜き。あと、反省部屋に入りなさい!」
「えっ!?」
一転して、喧嘩相手が怯えた声を上げる。
「一晩反省してきなさい」
だが、断固としてシスターが二人を押しこんだのは、マリアが寝泊まりしている部屋だった。
音を立てて、外から鍵がかけられる。
「……反省部屋?」
マリアが小さく呟いた。
「ここ、幽霊が出るんだって」
扉の傍で、びくびくと周囲を見回していた少女が、細い声で返す。
「ばかばかしい。私、昨夜ここで寝たけど、何も出なかったわよ」
「た、たまたまかも」
「大体、本当に幽霊が出るなら、部屋に出るんじゃなくて、孤児院の建物に出るってことじゃないの?」
ソニアの顔が青褪めるのに少し溜飲を下げて、マリアはベッドに潜りこんだ。取り残されたソニアが、慌てて隣に乗ってくる。
「ちょっと、詰めてよ」
「私のベッドよ」
「ここ、ベッドが一つしかないんだから。大体、孤児院のベッドじゃない」
理論を繰り返されて、仕方なく場所を開ける。
背を向けあっていても、同じ毛布の中は二人の体温で温まっていき、知らず、少女たちは眠りに落ちた。
何も手が打てないまま、焦りのうちに日が過ぎる。
彼がブライアーズ孤児院に姿を見せたのは、マリアが連れてこられて三日目のことだった。
 




