「何でみんないるんだよ」
こちらの足音が聞こえたのか、互いの距離が十数メートルほどまで縮まったあたりで、前方の人影は足を止めた。
「ちょっと……、あんた!」
エースの呼びかけに気づいている筈だが、振り向こうとはしない。
延ばした手が相手の肩に触れて、ようやく視線だけを背後に向けた。
「あれ。あんた……」
見覚えのある顔に、瞬く。
短い髪は、淡いブラウン。エースと変わらない年齢だが、やや小柄な身体。白い肌に、鮮やかに映える青の瞳。
確か、どこかで。
「エース……」
こちらの名前を知っている、ということで思い出す。
「あんた、祭りの時に店に来てくれた人か」
あの日には彼女は民族衣装を着ていたが、流石に今はそうではない。細い身体のラインがよく判る、ボディスーツのようなものを身につけている。
ジョギングでもしていたのか。
「なんで、こんなとこに……。シャッター壊れてたから、入って来ちゃったのか?」
「貴方こそ。こんなに早く戻って来れるなんて、あいつも役に立たない奴ね」
平坦な声は問いかけの答えにはなってなくて、首を傾げる。
「今、ちょっと、とりこんでるんだ。この辺うろうろしてたら危ない。橋まで送ってやるから、帰りな」
肩を掴もうとしたが、するりと避けられた。
僅かにむっとして、進行方向に回りこむ。
「ほら。警報も鳴ってるだろ。侵入者がいるんだよ」
なだめすかすエースを、表情が乏しいながらも、少女は見つめ返してくる。
彼らの向かっていた方向から、鈍い地響きが感じられたのは、その時だった。
随分と暗くなっていた道の奥から、激しい光が浴びせられる。
低いエンジン音が、彼らの十数メートル手前で止まった。
「……うわ」
少しばかり頬を引きつらせて、エースは呟く。
逆光の中でも、それが古風なガソリン車だということは判る。無骨な角ばったシルエットの、容積の大きい、頑丈な、力強い車だ。
運転席の扉が開く。それは再び閉まることなく、運転手とこちらの間を、障害物のように遮った。
滑らかな動きで両手をつき出す。ぴたりと、微動だにせずに、こちらへ向けて。
「それから離れろ。エース」
その、彼女が右手で握り、左手を添えた漆黒の物体。こちらへ真っ直ぐに向けられた銃口のように、震えなど全く感じさせない声で、マリア・Bは命じた。
彼女は、『部屋着』姿ではない。そして、『通勤着』姿でもなかった。
長い黒髪を結い上げて邪魔にならないようにしている。緑を基調にした、屋外用の迷彩服の上下を身に着け、無骨な、使いこまれたブーツを履いていた。
完全武装だ。
「あー……。姉貴。この娘、間違って入って来ちまったみたいだから、これから街に送ってくるよ」
半ば宥めるように、そう声をかける。
マリア・Bの視線は、二人から離れない。
「侵入者は一体。体高は約百六十センチ。橋にかかった荷重はおよそ四十八キロ。門を破壊された時の監視カメラの映像には、その娘の姿が映っていた」
淡々と、義姉は告げる。
「侵入者は、そいつだ。エース」
「切り裂け」
細い声が、そう響いた瞬間だった。
防壁のように、マリア・Bの身体を隠していた車の扉が、真ん中辺りで縦にすっぱりと両断されたのは。
石畳に鋼鉄が落下する、鈍い音が響く。
「きやああああああああ!?」
悲鳴が、宵闇をつんざいた。
マリア・Bの悲鳴ではない。彼女は、寸前で身を捩り、後方に倒れこんでいた。
車体に残った扉の残骸の下から、数発、弾丸を放つ。
エースは、咄嗟に横に飛び退いた。敷地と道路を遮る、壊れかけの板塀に激突する。
「防げ」
再度の悲鳴にかき消されるような細い声が、また命じた。しゅん、という、小さな炎を水に落とした時のような音が幾つか発せられる。
それは、ほんの一瞬のことだった。
マリア・Bが、片手で、ばん、と車体を叩く。
「そこは安全じゃない。降りろ」
運転席とは対極の、後部座席の扉が開く。背を低くして車から出たのは、アイと、Gに抱えられたエムだ。
「何でみんないるんだよ」
状況について行けず、ただ、目の前の疑問を口にする。
「侵入者を確認したい、というからな。ここまで危険だとは思わなかったが」
地面に伏せたまま、マリア・Bが軽く返す。
「さて、何者だ、貴様」
この地の、不可触とまで称される土地の支配者の問いに、少女は口を開いた。
「私は、C」
「C……」
小さな呟きが、漏れる。
「私は追跡者。私は捕獲者。私は裁断者。私は破壊者」
この場にただ一人、凛と立って、少女は名乗りを上げる。
「私はC。主の、虜囚だ」
「C……」
目を見開いて、Gは車の陰から身を乗り出しかけている。アイが、必死にその腕を引いていた。
「なるほど」
マリア・Bが、手の中で操作した電子錠が作動し、トランクが開く。身軽に立ち上がり、彼女はそこから更なる脅威を取り出した。
アサルトライフルだ。
軽く足を開き、慣れた手つきでそれを構える。
「私の名はマリア・B。血塗られたマリアだ。不埒な思いでこの土地に足を踏み入れた罪、その血で贖え!」
銃声が、軽快とさえ言えそうなリズムを刻む。
しかし、Cと名乗った少女の肌に、銃弾は傷一つつけることはなかった。
彼女の五十センチほど前方で、小さな火花が立て続けに弾けている。
「エース。後ろに来て。そこじゃ護れない」
少女はちらりと視線を向けて、声をかける。
「え? いやそれは」
状況を掴めていないまま、道の隅で座っていたエースが更に混乱する。
「ふうん」
呟くと掃射を止め、アサルトライフルの上部の取手を左手で掴み、マリア・Bは右手を太腿のポケットに突っこんだ。やや小ぶりの手榴弾を取り出し、ためらいなくピンを引き抜き、高く放り投げる。
少女が僅かに目を見開いた先で、放物線を描いたそれは頭上を通り過ぎ、すぐ後ろに落下し、爆ぜた。
「C!」
Gが、叫ぶ。
半身を捻っていたCは、両腕で顔を庇い、爆風に数歩よろめいた。
「あんたの防御は、完全じゃないね。全方位、好きな位置で防げる訳じゃない。なら、何とでもなるさ」
この隙に、トランクからアサルトライフルの新しいカートリッジを取出し、交換し終えたマリア・Bが声をかける。
「教えてやろう、お嬢ちゃん。武力っていうのは、物理力だ。殴って殴って殴って殴って殴り抜いた方が、勝つんだよ」
そして、銃口が、向けられる。
「待ってください、マリア!」
が、その腕を、Gが掴んだ。
「何の真似だ」
「どうか、どうか抑えてください! あの子は」
「あれは侵入者だ。許可のない侵入者は、全て叩き潰すのがブライアーズの掟だ。あんただって、それを承知でここに来たんだろう」
最大でも、三十五人の住人のためにしては、大仰なセキュリティを。
頑なに、他者の立ち入りを拒む姿勢を。
それを体現したかのような揺るぎない視線に、Gは僅かに手の力を緩める。
「切り裂け!」
叫び声と共に、がん、と聞き慣れない音が響く。
車のボンネットが、先端から三十センチばかりの深さで切れこみが入っていた。
再度、Cの声に応じ、もう数十センチ、亀裂が深まる。
「……まずい。離れろ!」
エンジンは止めていたから、今はまだ大丈夫だった。だが、次に切られた時には、ガソリンに引火するかもしれない。
マリア・Bの罵声に背を押されるように、兄妹は身を翻し、駆けた。
ふぅ、と吐息を漏らして、少女は視線を横に向ける。
「立てる?」
短く問われながら手を差し伸べられて、瞬く。
「あ、ああ」
流石にそれには頼らずに、立ち上がった。気を悪くした風もなく、少女は油断のない視線を敵の消えた闇へと向けている。
「あのさ、あんた」
「動けるようなら、早く逃げましょう」
「は?」
「もっと簡単に済むと思っていたのに、予想外だわ。あっちは次の機会でもいいけど、貴方は今すぐ助け出さないと」
「いやあの、あんた」
噛み合わない会話に焦れていると、少女は不意に視線を合わせた。
表情の乏しい顔に、鮮やかな青の瞳がきらめいている。
「しぃ、よ」
「あー、C。だから」
「違うわ。しぃ。もっと、柔らかい発音で呼んで」
エースの手を掴むと、はにかむように笑んだ。
「マスターだけの、私の呼び方なの」
「しぃ、あんた、何でここに来たんだ」
手を強く引かれながら、エースは尋ねる。
「貴方を救けによ。勿論」
「勿論?」
こんな、同年代の少女に救出される覚えはさっぱりない。
「マスターは、ずっと貴方を待っていたの。邪魔な奴らは殺してもいいって言われたけど、ちょっと手強かったから……。まあそれは今度ね」
エースは、その瞬間、力任せに小さな手を振りほどいた。
「エース……?」
きょとん、とした表情で、少女は見返してくる。
『待機解除だ、エース! プランL! サムおじさん方向から抜けろ!』
警報の鳴り響いていたスピーカーからの司令官の指令に、一瞬肩を落とした後、エースは踵を返して走り出した。
 




