「動いてないとき、ないわね。あいつ……」
「信じられない。何のセキュリティが万全なのよ」
「建物と敷地だよ。家ん中に鍵なんて、トイレくらいで充分だろ」
「プライバシーのセキュリティは大事なの!」
どん、と、テーブルを叩いて力説するアイを、エースはかなり面倒くさそうに眺めた。
「心配しなくても、あんたらは客だし、部屋に勝手に踏みこむことはないよ。気になるなら、貴重品は離さないことだ」
「……貴重品なんて、特にないわよ。そもそも、そういうことじゃないのに」
それでも、勝手に入らない、と聞いて、何とか気を落ち着かせたらしい。
「まあ、いいわ。することもないし、疲れちゃったし、お風呂入って寝ようかな」
ため息混じりに呟く。
「ああ、風呂場は……」
「来たときに、一階はマリアさんに案内して貰ったから判るわよ。着替え出すから、出てって」
片手を振って、追い出しにかかる。部屋の壁にもたれて立っていたエースは、軽くそれに従いかけた。
「そうだ。洗濯物は籠に入れておいたら、明日の朝ついでに洗うから」
戸口で思いついて、告げる。
「せん、たくって……」
一瞬で頬を紅潮させると、アイは手近なクッションをひっ掴んだ。
「持って帰るから結構よ!」
ばん、と、そのクッションが壁にぶち当たり、エースは肩を竦めて廊下に退散した。
厨房でコーヒーを淹れて、一息つく。なんだかんだで、彼はここで時間を過ごすことが多い。
脱衣場の方でばたばたやっているが、気にしないことにした。エムとは違うのだ、風呂くらい一人で入れるだろう。
テーブルに頬杖をついて、ぼぅっとする。
やがて、細く、扉が開いた。
視線を向けると、長い金髪に縁取られた小さな顔が、こちらを伺っていた。
「どうした?」
「えっと、あの、……Gは?」
「定時連絡するって、部屋に入ったきりだよ」
エースの答えに、アイは小さく呻く。
「あー……。じゃあ、しばらく手が空かないなぁ……」
「どうしたんだよ」
「うん……。あのね」
アイは、つい十数分前の剣幕が嘘のようにしおらしい。
まあ、女の気分がころころ変わるのはよくあることだ、と達観して、エースはその言葉を待った。
「シャワーの使い方、教えてくれる?」
「シャワーくらい一人でできるだろ……」
小さく呟きながら、廊下を進む。
「だ、だって、ここ、音声認識もしないしコントロールパネルもないんだもん!」
流石に気恥ずかしいのか、頬を染めて、アイが言い訳してくる。
「なに、そんなシャワーなのかあそこ」
「そうよ!」
開き直る少女は、バスローブ姿だ。浴室に入ってから途方に暮れたのだろう。
エースは、〈神の庭園〉にいる時は、部屋のシャワーを使ったことがない。ちょっと言い過ぎたかな、と思いつつ、浴室の扉を開く。
壁に沿って一列に、バスタブとシャワーが並んでいる。一番手前のバスタブの横に立った。
「いいか。これが、蛇口」
「蛇口……」
眉を寄せて考えこんだアイが、ぱっと顔を明るくする。
「映画とかで、確か見たことある!」
「そうかそうか」
生返事を返すエースに、ちょっとむっとする。
「えっと、つまりこれを何とかしたらお湯が出るのね」
アイは、じっと蛇口周辺を見つめる。
「判った、押す!」
そして、そう言い放つと、ハンドルの上面をぐっと押しこんだ。
「やめろ歪む」
ちょっと面白かったが、とりあえず止める。
「これはな、ひねるんだ」
膨れたアイが、次の瞬間、シャワーからほとばしる水に目を丸くする。
「赤いのが湯、青いのが水だ。締めたり緩めたりして、温度を調節しな。ひねってから熱さが変わるまで、ちょっと時間差があるから気をつけろよ」
ぽかんとしていたアイが、慌てて頷く。
「あのね、あと、ちょっと聞きたいんだけど」
「ん?」
金髪を下ろした少女は、こちらの様子を伺うように、少しばかり上目遣いで続けた。
「映画で見たんだけど、このバスタブに泡をいっぱいにして入るのって、できるの?」
「あー、今日は無理だ」
記憶を浚って答えると、アイはあからさまにがっかりした。
「専用の石鹸が要るんだが、切らしてる。明日、買って帰ってやるよ」
「……うん! ありがとう!」
ころころと表情を変える彼女に苦笑して、エースはその場を後にした。
Gは、まだ降りてこない。
アイが長風呂になりそうなのは予測しているし構わないが、彼女が出てきたらGを待たずに先に入ろうか、などと薄情なことを考える。
ぼんやりとテレビなど眺めていると、談話室の扉が開く。
「あ、いた、エース。髪の毛乾かしたいんだけど」
上気した顔のアイが更なる頼み事をしてきた。
「ドライヤーは? 使ったことあるんだろ?」
流石に、高級品のドライヤーでも、基本的な使い方は変わらない筈だ。
だが、アイは伏目がちになった。
「あんまりない……。髪洗う時は、全自動浴槽に入るから」
「いつも?」
「だってあれ、艶も出るし、頭皮マッサージもあるし、乾かし漏れもないし、顔とか乾燥しないし」
「あれはなー……。本当に人を駄目にするよなー……」
しみじみと呟きながら、エースは棚の中からドライヤーを取り出した。
「ほら、座れよ」
「え?」
「いきなり自分でやったら、髪を吸いこんだりするぜ。その長さだったら」
「吸いこむ……の?」
「ああ。焼けてチリチリになって、切るより仕方なくなる」
「えー!?」
バスタオルで包んだ髪に、庇うように手を添えるアイに、だから座れ、ともう一度促した。
「言っとくけど、色々教えるのは今日だけだからな」
「判ってるわよ」
「明日からは自分でしろよ」
「判ってるってば」
長い髪をタオルで拭い、温風を当てていく。この辺り、昔義姉たちに仕込まれたこともあり、まずまずの手際だ。
「……あたしが言うのもあれだけど、ここまでしなくてもいいんじゃないの?」
鏡の向こうに映る少年を見つめて、尋ねる。
「俺が〈神の庭園〉に初めて行った頃は、Gとかに色々世話して貰ったからな」
できることはするさ、と、エースは小さく笑う。
ふうん、という呟きは、ドライヤーの轟音にかき消された。
翌朝、生欠伸しながら、アイは二階から降りてきた。
「おはよう」
「おはよう!」
「おはよ……」
談話室に座る兄妹と挨拶を交わす。
「エースは?」
「お洗濯してる!」
とすん、と椅子の一つに座りながら尋ねると、エムが何故か得意そうに返した。
「動いてないとき、ないわね。あいつ……」
半ば呆れて、呟く。
「マリアさんは?」
「朝に帰ってきた。今は休まれてるよ」
ならば、今は近くには誰もいないということだ。
アイは、やや声を低めた。
「どうだったの、向こうは」
「……今朝方の連絡では、被害は確認できていない。定時連絡は、街に住んでる全員からちゃんとあったらしい。ただ、後をつけられたような気配を感じた、というのが三件ほど」
「三件?」
眉を寄せた妹に、安心させるかのように青年は微笑みかける。
「気のせいかもしれない。みんな、警戒しているからね。このまま何もなく、犯人が捕まればいいんだが」
不安げな表情で、アイは頷いた。
朝、エースが出勤するのに合わせて兄妹も孤児院を出る。
昼間は〈神の庭園〉で過ごし、夕方近くにまた孤児院に戻る。
仕事から帰ってきたエースが夕食を作り、入れ違いに出勤するマリア・Bを見送る。
そんな生活が、五日続いた。
対策が有効だったのか、通り魔の被害はぱったりと無くなった。職員も、それ以外の人々にも。
孤児院に慣れた子供たちは、少しづつ危機感が薄れてきている。
そんな、夕方だった。
エースは、懸命に石畳の上で自転車を漕いでいた。
今日最後の客が、外国人観光客なのか、注文の要領が悪く、時間がかかってしまったのだ。
後半、合流した親方が強引に一品焼いて押しつけ、ようやく収まったようなものだ。
早く帰らないと、みんなが腹を空かして待っている。
知らず、小さく笑みを浮かべた時に。
藍色に染まる空に、耳障りなサイレンが響いた。
アウルバレイの空気が、ざわりと騒ぐ。
だが、それだけだ。それ以上は、動かない。
エースは血の気が引く感覚を抑えこんで、全力で自転車を駆った。
川にかかる橋の中ほどで、自転車から転がり落りる。
彼の視線の先で、鉄の棒を組み合わされたシャッターは、中央で縦に真っ二つに切り裂かれていた。
「侵入者……?」
慌てて、中に入りこむ。どちらに行こうか一瞬迷ったが、すぐに孤児院へ向けて走り出した。
警報は、もう、五分は鳴っている。
マリアは、まだ家にいる時間だ。
兄妹たちも。
夕闇に沈みかけた道路に、先を歩く一人の背中が、見えた。




