「まだ帰りたくない」
「あなたが、エース?」
そんな言葉をかけられたのは、祭もたけなわとなった正午を回ったあたりだった。
想像していた通り、昼時になれば客は増えてくる。
だが、今日は普段と違って、他の露店もある。勿論、客の絶対数は多いが、混んでいれば他の店に流れて行ってしまうものだ。そもそも、並んでまでその店で買おうという人間は少ない。
待たせている、という焦りが少ないのはありがたいが、当然、数をこなさないと売上が伸びないってことか、と汗を拭いながらエースは考えた。
彼がこの仕事に就いてから、初めての祭だ。仕事には慣れてきたし、手際は悪くないが、親方には遥かに及ばない。
失望させたくはないな、と思っているところに。
彼女は、現れた。
年齢はエースと同じくらいか。
淡いブラウンの髪はショートカットで、僅かな風にそよいでいる。
瞳は鮮やかな青。
やや小柄な身体を、上から下まで民族衣装に包んでいた。ベースが黒いせいか、顔色が悪く見えそうなほどに、肌は白い。
だが、見覚えはない。小さな街だ、同年齢の子供の顔ぐらいは大体見知っている。
観光客なのだろう。
「ああ。注文かい?」
「ここにきたら、食べて行けって言われたの」
「そいつは嬉しいね」
人懐っこく笑って、何にする? と促した。
「どれが美味しいの?」
「どれも美味いさ。好きな食べ物を選べば間違いないだろうな」
そうでもない食材を選んで、新たな味に目覚めるのもいいだろうが、初めて食べるなら好きなものが無難だ。
できるだけ、嫌な思いはさせたくない。
「そう。じゃあ……チーズを」
少女は頷いて、あっさりと決めた。
「あいよ」
チーズのトッピングは、難しい注文ではない。
ささっと作り上げて、紙皿を手渡す。
「よかったら、また来てくれよ」
「来るわ。また」
当然のように肯定して、少女はその場を去った。きょろきょろと周囲を見回して、食べる場を探しているようだ。
次の客の注文を焼き始めたところで、少し離れた場所から、熱さに驚く声が上がった。
脈が早い。
胸がぎゅう、と痛む。
怖くて、足が動かない。
でも、ここまできたのだ。
少ない時間を使って、見つかる危険を冒して。
彼女は意を決して、楽しげに話す親子連れの後ろに、やや俯いたまま並んだ。
「いらっしゃい……おや」
髭の大男は、何かに気づいたように笑いかけた表情を止めた。
「こ、こんにちは」
顔を上げきれず、やや上目遣いで見つめてくるのは、短い金髪の女性だ。
黒のパンツスーツは少しばかり大きめで、身体のラインを隠している。
「ええと、確かパーシヴァル・ヒギンズさんの……」
その言葉は少しばかりおぼつかなかったが、しかし彼女は素早く顔を上げた。
「覚えていてくださったんですか?」
「いつもエースがお世話になっています。ええと……」
「あ、ケイトです。ケイト・ファーノン」
「ケイトさん」
にこり、と無骨な男はそれでも営業用の笑顔を浮かべる。
「今日はお休みですか?」
「いえ、あの、休憩時間です」
こんなに長く話していることが信じられない気持ちで、そう答える。
「休憩時間……。じゃあ、食べやすくてあまり熱くないメニューが良さそうですね」
エースが親方と呼ぶ男は、タブレット端末を傾け、お薦めのトッピングを指差していく。
ケイトは、ぼぅっとその大きな手を見つめていた。
「ケイトさん?」
「え? あ、はい、ではそれ全部で!」
「全部、は多いと思いますが」
苦笑して、親方が諌める。
「大丈夫です! 私、結構食べる方なので」
折角来たのだ。できるだけ、ここにいたい。
トッピングが多ければ、焼き上げるのに時間がかかるだろう。
それに、売上にも貢献できる。
じゃあ、と呟いて、親方は熱した鉄板の上に、塊のバターを滑らせた。
芳醇な香りが、立ち昇る。
エースの動きは、親方の教えを受けただけあって、そっくりだ。だが、やはり師にはまだ敵わない。
無駄がないどころか、余裕のある手つきで、ガレットを作っていく。
「そのネクタイ」
脈絡なく話しかけられて、瞬く。
「この街の、民族衣装のデザインですか?」
彼女は警護の仕事中だ。普段の格好から、大きく外れる訳にはいかない。
だが、今日は同じ黒でも、幅広で鮮やかな花の刺繍が施されたものを締めてきたのだ。
「あ、はい。あの、お祭りですし」
そして、ここに来る、と決めていたのだし。
もう一つの理由は口にできなかったが、親方は頷いた。
「綺麗ですよね」
ここの民族衣装、と続けられた言葉は、ケイトには半ば聞こえていなかった。
「はい、どうぞ」
はっと気づくと、紙皿に乗せられたガレットが差し出されていた。慌てて代金を払う。
「それから、これを」
親方は、バンに作られたカウンターの上から、小さな包みを取り上げた。可愛らしくラッピングされたそれは、彼手作りの焼き菓子だ。
「どうぞ」
「あ、えっと、お幾らですか」
慌てて財布を探りかけるが、彼はそのまま手を突き出した。
「サービスですよ。エースのこと、これからも宜しくお願いします」
「……勿論です! お任せください」
普段の彼女からは想像できないほど感情的な声で返すと、ケイトは足早にその場を離れた。
北の広場は、自分の担当ではない。姿を見られては厄介だ。とりあえず手近な路地へ身を隠した。
フォークでガレットを一口分切り分ける。
ふわり、と豊かな香りが立ち昇って、ふとガレットの大きさに違和感がないことに気づく。
頼んだトッピングを全部乗せていたら、かなり膨らむ筈なのに。
多分、一つ一つの具材の量を減らしてくれていたのだろう。そう言えば支払った値段も、普段食べている、トッピングなしのものとあまり変わらなかった気がする。
「もう……やだ……」
男の、さり気ない気遣いに、金髪の女性はただ頬を染めた。
「エース!」
弾む声に、視線を向ける。
午後をかなり回って、客足も途切れがちになってきた。合間を縫って食べていた昼食を口の中に押しこんで、少年は笑う。
「おう、お帰り」
しかし、彼らの全身が目に入った瞬間、その笑顔は引きつった。
Gに抱き上げられてうとうとしているエムと、その隣を歩くアイは、服を全て着替えていた。白いブラウスと、黒地に鮮やかな花の刺繍のあるベストとスカート。
Gは、ネクタイを幅広の、やはり刺繍のあるものと替えている。
「どう? 似合う?」
嬉しげに、アイがくるりと回ってみせた。二つに結った長い金髪と、スカートがふわりと広がる。
「あ、ああ。似合ってるよ」
冷汗が滲むのを自覚しながら、頷いた。
兄妹の欲しいものは自分が全部負担する、と告げた気持ちは、本気だ。
だがしかし、二人分の民族衣装一式とネクタイなど、一体どれほどの代金になるものか。
不吉な桁の数字が頭をよぎる。
しばらく、苦笑してその様子を見ていたGが、口を開く。
「心配しなくていい。流石に衣料品はうちの予算で賄うから」
「え、あ、いや」
気がかりなところを言い当てられて、うろたえる。
「もう、Gったら! もう少しバラすの待ってもいいじゃない」
アイがむくれた顔で、しかし明らかに笑いを堪えながら口を挟む。
最初から彼らの共通認識なのだ、と理解して、肩の力を抜いた。
「脅かさないでくれよ」
「いい格好しようとするからよ」
意地悪く言うアイは、楽しげだ。
〈神の庭園〉では、エースは大抵の場合、彼女の仏頂面しか見ていない。
気分が晴れたのならいいな、と、兄妹たちを眺めながら、思う。
「じゃあ、私はそろそろエムを連れて帰るよ。アイはどうする?」
「まだ帰りたくない」
即答した妹に、頷く。
「三十分ほどで戻るから、この辺りで待っていてくれるか? あまり一人でふらふらしないように」
「子供じゃないのよ。それに、ちょっと足も疲れたし、どこかで座ってるわ」
Gはエムを抱え直すと、踵を返した。すっかり慣れた足取りで広場を横切っていく。
「座るんなら、中に来いよ」
どこか休むところはないか、ときょろきょろし始めたアイに、声をかける。
「後ろのドアから入れるから」
判った、と、軽い足取りでバンを回りこむ。がこん、と音がして、扉が開いた。
「あ、思ってたより広い」
自分が初めて入った時と同じ感想がこぼれる。
片隅に置いてあるパイプ椅子を広げ、勧めた。
「あー! 疲れた」
少女は、どさり、と両足を投げ出して座りこんだ。
「普段、こんな歩くことないもの。足いたーい」
ヒールのある靴で、のんびりとはいえ数時間歩くのは確かに辛いのだろう。
何となくそう推測して、エースは肩を竦めた。
「お疲れさん。何を買ったんだ?」
「えっとね、焼栗でしょ。焼りんごでしょ。かぼちゃのタルトにスイートポテトに、あと、フルーツを飴に絡めたやつと」
「食べ物ばっかりだな」
エースにからかわれたか、と、少し膨れて見上げる。
「美味かったろ」
だが、得意げな笑顔に、思わずアイも笑った。
「うん!」
「あんたはお祭り回ってこないの?」
しばらく足を休ませながら、エースの仕事ぶりを見ていたアイが尋ねてくる。
「ここは一人だからな。夜まで仕事だ」
普段は夕方には店じまいするが、今日は特別だ。終わるのは、九時頃になるだろう。
「つまんなくない?」
「去年まで、充分楽しんだ。今年は、こっちが楽しませる番さ」
当然のようにそう返す少年に、大きく息をつく。
「あんたのそういうとこ、よく判んない」
「どういうとこって?」
「人に、楽しんで貰うとか、美味しいって言って貰うとか。それよりも、自分が楽しんだりするのがいいんじゃないの?」
嫌味なのではなく、ただ素直にそう言っているらしい。
改めて尋ねられて、少し考える。
「そうだな。……それが、なりたい自分だから、かな」
「なりたい自分?」
「俺は、マムみたいな、血の繋がってない俺たち孤児の為に生きた人生って、凄ぇと思う。親方みたいに、美味い食べ物で人を幸せにするのもだ。人が幸せで満ち足りてるってのは、見てて嬉しいだろ。それに、俺の手が加わるんなら、凄く満足するんだと、思うんだ」
アイは、話が進むにつれて、どんどんと眉間に皺を寄せていった。
「やっぱりよく判んない。……けど」
ただ、目の前のエースが、瞳を輝かせ、それこそ『凄く』嬉しそうだったから。
「それが、あんたの『幸せ』なんだ?」
その、嬉しそうなエースの『幸せ』に、自分が介在するのも、まあちょっとはいいかな、と、そう思ったのだ。
「でも、ダンスできなくてつまらなかったりしないの?」
「去年まで充分楽しんだって言ったろ」
「……へぇ」
突然不機嫌になったアイを、エースは半ば持て余し、半ば放置してGの帰りを待っていた。




