「エースお兄ちゃん、どこに行くの?」
浴槽の中に、エムは膝を抱えるようにして座っている。湯の底には、砂粒が沈んでいた。
「どこか沁みるとことかないか?」
「……心がしくしくする……」
「よし湯かけるぞ。目ぇ閉じろー」
「聞く気なしなの!?」
ざあ、と、頭の上からシャワーをかける。土埃が溶け出して、湯が一層濁った。
充分流せたところで湯を止めて、一旦抜こう、と、エースが袖を捲くった腕を突っこんだ。ごぼ、という音と共に水位が減っていく。
温まったのか、上気したエムの顔をちらりと見る。
一見したところ、その身体に痣や傷は見えない。桜貝のような小さな爪も全て揃っている。日に焼けた様子もない、きめの細かい白い肌だ。少々、細すぎるような気はするが。
「ほら、姉貴のシャンプー使ってやるから。内緒だぞ」
その指は意外と優しく、髪を泡立てる。ふわり、といい香りが漂ってきて、えへへ、とエムは小さく笑った。
「女ってのは、こういうのに拘るよな。汚れが落ちりゃそれでいいのに」
不思議そうに、エースはそう呟いた。
「だって、いい匂いだと気分がいいんだもの」
そんなものかね、と少年は肩を竦める。
「お兄さんは、どんなシャンプー使ってるの?」
ふいに気になって、見上げた。ん、とエースは得意げに笑う。
「石鹸だ」
「石鹸」
「ああ。頭から身体まで一つで済んで便利だよな!」
得意げに告げる少年に、エムは一瞬くらりと眩暈を覚えた。
まだエムの髪を乾かしている間に、マリア・Bは出発していった。ドライヤーを見たエムが、またなにやら大騒ぎしているところに声をかけていく。
重い、四輪車のエンジン音が遠くへ響いて、消えた。
その後、身体が温まったせいか、二人での食事の途中からエムはうとうとしかけていた。
疲れているのだろう、とは察せられる。
半ば苦笑して、エースは時折声をかけつつ、何とか食事を終わらせた。
「ほら、エム。立てよ。ベッドに行くぞ」
聞き覚えのない声が耳に入って、ああ、これは夢なのだと思う。
何か、自分でも確かではないことを呟きながら身体を丸めた。思いのほか優しい手が髪を撫でてくる。
仕方がないな、と聞こえて、世界が僅かに揺れた。
温かさと揺らぎに、また一層深い眠りに落ちていく。
疲れと相まって、その日、彼女はマムの夢を見なかった。
「よし、起きろ、エム! 朝だぞ!」
情け容赦のない声に、飛び起きる。
まだ薄ぼんやりとした視界に入ってきたのは、見覚えのない部屋だった。
アイボリー色をした壁紙は、ひょっとしたら貼りたての時には純白だったのかもしれない。窓の傍に垂れ下がっているカーテンは、深い青だ。淡い光が、開け放たれた窓から差しこんできていた。身体を覆っていたくたくたの毛布が暖かい。みじろぎすると、ベッドは不吉に軋んだ。
枕元に立って、大きく笑みを浮かべているのは、十五、六の少年だ。
うなじを隠すほどの長さの黒髪。明るい青い目は、楽しげな笑みをたたえている。
そうだ、彼は。
「……エースお兄ちゃん?」
ようやく、昨日何があったのかを把握する。
ここに来た、そもそもの理由も。
だが、この小さな少女が気落ちする前に、エースは手にした色とりどりの布の塊を、ばさっとベッドの上に置いた。
「いつまでも俺のシャツ一枚じゃ困るだろ。着られそうなサイズを持ってきたから、試してみな」
見ると、それは、腕いっぱいの衣服であった。
Tシャツ、ブラウス、スカート、ズボン、そして肌着まで。
戸惑うエムを気にした風もなく、少年はシンプルなブラウスを肩に当ててくる。
「ちょっと大きいかな」
次に手にしたのは、ポップな色使いとロゴの入ったTシャツだ。
「どうしたの? これ」
流石に系統が違いすぎて、尋ねる。
「ああ、姉貴たちが昔着てた服だ。古いけどしっかりしてるのが残ってるから、まだ着れるぜ」
お下がり、という概念に、少しばかり戸惑う。
「よし。この辺かな」
結局、エースは上下で五組程度をより分けた。
「適当に何か着な。残りは洗っておこう」
そう言って、サイズの合わなかった服を持って立ち上がり、部屋を出て行った。耳を澄ますと、少し離れた部屋の扉が開く音が聞こえてくる。
残された服の中からエムが選んだのは、淡いピンクのTシャツと、濃い目のブラウンのキュロットスカートだった。
着替え終わった直後に、いきなり扉が開かれる。
「お。終わったか」
びくぅ、と、身を縮めたエムを気にもせずにエースが声をかけてくる。
ノックすらしてこない相手、というのが想像もつかないまま、ただこくこくと頷いた。
「うん、似合ってる」
笑顔でそう告げ、残った衣服を集めて、エースは再び廊下へ出た。慌てて、エムも後に続く。
暗い廊下の先には、階段があった。寝室は二階にあったのだ。
降りていくと、そこは玄関に通じていて、一度とはいえ見覚えのある場所に少しほっとする。
「エースお兄ちゃん、どこに行くの?」
むしろ、これからどうしたらいいか、と尋ねたかったが。
「先刻言ったろ。洗濯しよう」
脱衣所に隣接する洗濯室には、年代ものの全自動洗濯機が三台置いている。
とはいえ、エムには機械が古びて見えてはいるが、機能のことなどは判らない。
一台は既に起動していた。ごぉんごぉんという音を立てる機械を、興味深げに見つめる。ドラム式の蓋からは、中でぐるぐると回る洗濯物が見えた。
エースは隣の洗濯機に、持ってきた服を入れる。無造作に洗剤を投入し、蓋を閉め、ボタンを押した。
即座にモーター音を響かせる機械に、エムは恐々顔を近づけた。
「蓋を開けるなよ。中身が飛び散ってずぶぬれになるぞ」
はぁい、と上の空の言葉が返ってきて、苦笑する。
後はしばらくここですることはない。エースはエムを一人置いて、その場を離れた。
ぐぉんぐぉん、と身体に響く音。ぐるぐると回り続ける布と、水の飛沫。透明の蓋の向こう側に貼りついてはどろりと流れ落ちていく泡。
エムは夢中になって、それを見つめていた。
どれほど経っただろうか。ふといい匂いが漂ってきたのに、周囲を見回す。幼い少女は、その場に一人きりになっていたことにようやく気づいた。
慌てて廊下に出る。記憶にある、厨房の方向に向かって小走りに駆けた。
開いたままの扉から、息を弾ませて顔を覗かせる。
エースは、屈みこんで冷蔵庫の中を覗きこんでいた。キッチンに作りつけのオーブンからは、パンの焼ける香ばしい匂いが漏れている。
ほっとして、エムはその後姿を見ていた。
安堵したせいか、急に腹の虫が鳴る。
振り向いたエースが、真っ赤になったエムに笑顔を向けた。
「腹減ったか? 悪いな、朝飯は姉貴が帰ってきてからだ。もうじきだと思うから、ちょっと待っててくれ」
トマトを二つ、片手に乗せる。もう一方の手で、無造作にレタスを掴んでいた。
「エムは食べられないものとかあるか?」
シンクの上に置くと、もう一度冷蔵庫を開く。
「お野菜が嫌い……」
小さく呟いた言葉に、呆れ顔でエースは振り向いた。
「子供の頃ってのは、みんな同じだな」
「エースお兄ちゃんも?」
「おー。ちゃんと食べろってマリア姉に毎日怒られたもんさ」
玉葱と胡瓜を持って振り向くと、エムは少しばかり怯えた顔をしていた。
「お……怒られる?」
ちょっと失敗したか、と、数秒沈黙する。
「大丈夫だ。俺の料理は美味いからな。いっぱい食えるぜ。それに、ちゃんと野菜を食べたら、マリア姉みたいな美人になるぞ」
しかしすぐに、軽い口調で請合った。
うう、と、エムは口を尖らせる。