「違うって言ってんだろ」
朝一番に、彼は点けっ放しのコンピュータに近づいた。
常時起動しているそれは、休むことなく世界中から研究に関係のありそうな情報を雑多に集めている。
これらをきちんと精査、分類するのは部下の仕事だ。彼はざっと画面をスクロールさせて、タイトルを流し見た。
ふと、一つの記事で目を止める。
それは、とある小さな街の新聞社が配信しているものだった。昨今は、印刷部数が少ない新聞であっても、その内容をウェブサイトに載せることは珍しくない。世界的に目に触れるかどうかはともかく。
何気なく、記事を表示させる。
すぐに動画が再生された。画質は低いし、カメラがよく揺れる。声もくぐもって、聞き取りにくい。
だが、映っている人物は充分判別できた。
手前に、三人の男女。そのうちの二人には見覚えがある。
懐かしさだとか、恨みだとか、色んな感情が混ざりあいすぎて、一体何を感じたのかは判然としない。ただ、はっきりと、老けたな、とは考えた。
そして、彼らの数メートル背後に立つ、二人の若者の姿が映る。
彼は、その動画を三回再生したのち、記事へ最重要のマークをつけてフォルダに移動させた。
モノレールが開通して以来、ブライアーズ孤児院にはエムがよく遊びにくるようになった。
自然、付き添いとしてGも共にやってくる。
乗車場からこちらの敷地に入ることが許されたのは、エースの兄弟のみだったからだ。
この日も、家族で共に夕飯を摂っていたのだが。
「……いた」
小さくエースが呟いたのに、視線が集まる。
「どうした?」
「いや、何でもないよ」
訝しげなマリア・Bの問いかけに、さらりと返す。
きょとんとした家族をよそに、更に食べ進める。
今夜のメニューは、玉葱とベーコンのコンソメスープ、親方のラタトゥイユ、マッシュポテト、そしてバケットだ。質素だが、量はある。
バケットにラタトゥイユを乗せる。白いパン生地に、トマトの赤が映えた。
がり、とそれをかじった瞬間に、エースは文字通り苦虫を噛み潰したような顔になった。
その様子を伺っていた義姉は、やがておもむろに口を開く。
「エース。歯が痛むのか」
「違う」
返した言葉は、早すぎなかっただろうか。
「エース?」
気遣わしげなGの視線を片手で遮る。
「エースお兄ちゃん、痛いの?」
悲しげな表情で、エムが問いかけた。
「大丈夫。大丈夫だって。ちょっと、ほら、口の中を噛んだだけっていうか」
皆がそれぞれ構ってくることに、場違いな懐かしさを覚えながらも否定する。
「そうか。じゃあラタトゥイユは滲みそうだな」
マリア・Bが、エースの前にあるグラスに、ミネラルウォーターを注ぐ。
さほど深く考えずに、よく冷えたそれを呷った。
「……………ッ!」
瞬間、脳天まで貫かれたような痛みに身を竦める。
「やっぱり痛いんじゃないか!」
Gが声を荒げて詰め寄った。
「だ……、大丈夫」
目尻に涙を滲ませながら、それでもエースはごまかした。
が、Gは引かない。
「口を開けて」
「は?」
「見せてみなさい」
「はぁ? 食事中の口ん中とか見せられるかよ!」
気遣ってくれることはありがたいが、流石に場をわきまえろ、とエースは拒絶する。
「そうだな。口をすすぐといい」
しれっとした顔で、マリア・Bはミネラルウォーターの瓶を義弟の前に置く。
「姉貴もいい加減にしてくれ」
二度目は引っかからずに、冷めた視線で言い返した。
義姉は、小さく舌打ちする。
「よし。判った」
小さくGが呟くと、ずかずかとエースの傍に寄り、ぐい、とその腕を引く。
バランスを崩し、半ば立ち上がったところを、ひょい、と小脇に抱えられた。
「G!?」
驚いて名前を呼ぶが、青年はそれを無視してマリア・Bに向き直った。
「無礼をお許しください、ミス・マリア。彼を、上で医師に診せてきます」
「おい、ちょっと待て、G!」
行動が、あまりに短絡的だ。抗議の声を上げたものの、兄と義姉は、それを完全に黙殺する。
「宜しく頼むよ。エース、後片づけはしておいてやる。ひとつ貸しだ」
「貸されてねぇえええ!」
怒声は、揺るぎないGの歩みと共に、遠ざかった。
Gは、モノレールの中で医療局へ連絡していた。
結局ここに着くまで彼の腕から解放されなかったエースは、そっぽを向いてふてくされている。
不自由な体勢ながら、力任せにもがき、Gの腕や脚を腹立ちまぎれに叩いてみたが、彼はびくともしなかったのだ。
兄は兄で苛立っているのか、話しかけてはこない。
無言のまま医療局に着くと、意外な人物が待っていた。
「虫歯なんですって?」
いかにも楽しげな表情の少女に、エースは珍しく嫌な顔を向ける。
「違う。Gの勘違いだ」
ちらりと、腕をしっかりと掴むGを見上げた。
「歯医者が怖い人って、大抵そう言うのよ」
アイは、笑みを崩さないままに続けた。
「違うって言ってんだろ」
「だったら、診て貰っても構わないわよね?」
「大袈裟だ。こんなもん、舐めときゃ治る」
「いや治らないだろう」
二人の言い争いに、流石に呆れたかGが割りこんだ。
「ほら、勤務時間でもないのに頼みこんだんだ。早く行くよ」
大股で歩き出す兄に半ば引き摺られて、エースは足を進める。
歯科は、意外とこじんまりとした部屋だった。
扉を開けてすぐ横手にパーソナルコンピュータの載せられた事務机。その椅子を回転させれば、もう患者の傍にいることができる。
患者の座る、あの独特の椅子に。
Gは、自分の掌の中で、弟の腕が僅かに竦むのを感じた。
「お待たせしました、ドクター」
しかし、心が揺れた様子など見せずに声をかける。
「いいよいいよ、普段暇だしね」
ぱたぱたと片手を振って、白衣の男は挨拶を流した。
「じゃ、エース。そこ、座って」
ごくり、と少年の喉が鳴る。
エースの腕を離したものの、その場を動かないGと、続けて入ろうとして室内を覗きこむアイに医師は視線を向けた。
「ほら、二人とも出て。狭いんだから」
「えー」
「しかし、エースの健康管理は私の職務で」
「結果なら、後でレポートを上げるよ。行った行った」
反論する兄妹を軽くあしらって、医師は扉を閉めた。ごぉん、という音がやけに響く。
「はい、じゃあまず問診からね。座って。大丈夫、この部屋は防音しっかりしてるから」
「……防音?」
思いがけない単語が出てきて、瞬いた。
「よくうるさいって苦情がくるからね。どれだけ泣き喚いても、外の子たちには聞こえないから、気にしないでいい」
なるほど、扉の開閉がやたらと重たそうだったのは、気のせいではなかったらしい。
しかし。
「泣き喚く、のが前提なのか」
肩を落として呟く。
「それは、患部がどんな状態かによるよ。まあ、任せなさい」
そして彼は、忍耐強く、座って、と繰り返した。
「あー、結構酷いね、これは」
「ごがががががががが」
「かなり我慢してたんじゃないの? 駄目だよ早く言わないと」
「うごごごごごごごご」
「最近はねー、軽い虫歯なら塗り薬で治せたりするんだからさ。聞いてる?」
がごん、と重い音を響かせて扉が開く。
十数メートル離れた待合スペースにいたGとアイ、孤児院から戻ってきていたエムが、視線を通路の奥へ向ける。
歯科医師と、心なしかぐったりとしたエースが、ゆっくり歩いてくる。
「エースお兄ちゃん!」
「どうだった? 泣いちゃったの?」
エムは心配そうに、アイはにやにやと笑いながら声をかける。
力なく、エースは顔を上げる。
「いや、思ってたほどは痛くなかった」
精神的なダメージは全く軽くなっていないが。
少しばかりつまらなそうに、アイはふうん、と呟いた。
「そりゃ、アウルバレイの町医者と一緒にされちゃ困るね」
軽口を叩くと、医師はGに向き直った。
「レポートは明日の朝でいいかな」
「はい。ありがとうございました」
立ち上がったGが頭を下げる。
「これからはちゃんと報告させなよ。お説教は私がしてるから、あまり責めないように。君には初めての担当なんだから、もっと信頼感を持たせなさい」
ぽん、と肩を叩いて、彼はふらりと立ち去った。
「信頼感……」
その後ろ姿を見送りながら、Gが肩を落とす。
「いやあの、あんたを信頼してない訳じゃないんだが」
流石に少々申し訳ない気持ちで、エースが言葉をかける。
「もうしないよ」
そう続けて、ようやく兄は振り向いた。迷いかけた手が、弟の短い黒髪を掻き回す。
苦笑して、ソファに腰を下ろした。近づいてきたエムが、Gを真似るように頭を撫でてくる。
「何だ?」
「エース、頑張ったから。えらい!」
その場の家族全員が、思わず微笑んだ。
「そう言えば、アイはまだ街に来たことないんだって?」
ふと、食卓で話題になっていたことを思い出して問いかける。
「あたしが、あんな田舎町に行く必要なんてないもの」
心なしか、胸を張ってそう告げられる。
「ナレインフットだって、充分田舎だけどね」
「余計なこと言わないでよ、G!」
成人し、仕事を持っている長兄以外は、麓の街より外には行ったことがない。彼の冷静な指摘に、アイは鋭く睨みつけた。
「まあ、そう毛嫌いするなよ。来月、街で祭りがあるんだ。よかったら、遊びに来ないか?」
「お祭り?」
予想しなかった言葉に、小首を傾げる。
「ああ。パレードがあったり、ダンス大会があったりする。俺は仕事だが、来てくれたらサービスするぜ」
う、と、アイが言葉に詰まる。
エースの作った菓子は食べたことがある。また、街に行った職員から、彼の仕事の評判も聞いていて、ずっと密かに気になってはいたのだ。
「……しょうがないわね。お祭りだったら、行ってみてあげてもいいわ」
つん、とした表情を浮かべて告げるアイに、エースは楽しげな笑みを浮かべた。




