「始めなくては成功はせんよ」
「お前大丈夫なのか?」
最初にそう尋ねてきたのは、親方だった。
「何が?」
思い当たらなくて、問い返す。
「いや、ここしばらく、お前、前より何分か遅れて来るだろ。自転車をこぐ速度もちょっと遅いみたいだし。エムが乗ってない分、速くてもいいぐらいじゃないのか?」
「そうだっけ?」
家を出る時間は、ずっと変わらない。
親方の言うことが本当なら、道行きに時間がかかっているのだろう。
だが、心当たりがなくて首を傾げる。
まあ数分の遅れ程度、特に理由のあるものでもない。
親方の繊細さを揶揄して、その場は終わった。
「眠いのか、エース?」
朝食の席で、マリア・Bが問いかける。
「え?」
「よく欠伸をしているだろう。溜め息も聞く。何かあったか?」
「いや。普通に寝てるけど」
夜間、マリア・Bは不在だ。それを確かめる方法はない。そのせいか、納得し難いという視線を向けてくる。
「お前も年頃だからとやかくは言わんが……」
「いや全く関係ない」
きっぱりと否定すると、義姉は訳知り顔で笑う。
わざとだ。
彼女由来の溜め息を大きくついて、その件はうやむやになった。
「少し痩せたか?」
パーシヴァルにだしぬけにそう訊かれて、エースは瞬いた。
マリア・Bが広場に滅多に来なくなってからは、彼も日参しなくなっている。
それでも、ここはパーシヴァルに任せられた場所だ。週に一度ぐらいは顔を出していた。
「そうですか?」
「頬がこけた感じがするぞ」
そう評されて、なんとなく、ごし、と頬を擦る。
「お前が倒れたらマリアが心配する。医者にかかりたいなら、口を利いてやろう」
下心満載の理由を正直に告げられて、苦笑した。
この街には、個人医院しかない。大病院といえるものはナレインフットまで行かなければないし、そもそも医療費がばかにならないため、あまり縁がないのだ。
「ありがとうございます。大丈夫ですよ」
しかし彼は今、その気になれば、一週間以内に専属の医者に診て貰える。
だから、エースは余裕をもってそれに答えた。
「疲労は増しているようです。往復の間、眠っている時間が増えました」
Gは、感情を混じえずにそう報告する。
それは、当初ほど、エア・カーでの移動が魅力的ではなくなったからでもある。
慣れは、片道二、三時間のドライブをやがて退屈へと変える。
「そろそろ、仕掛けてもいいだろう」
重々しく、ハワードは口を開いた。
「ミス・マリアが承諾されるかどうか」
「始めなくては成功はせんよ」
気遣わしげなGに、さらりと返す。
「彼女は、情を軽視してはいない。だが、それに左右されないように自らを律している。そして、金に目が眩むこともない」
エースのことを重視しても、利益をちらつかせても、彼女は動かない。
ハワードはそう判断している。
「ならば、どうすれば」
まだ若いGは困惑を隠せない。
「人を動かすのに必要なのは、メリットと、そしてリスク回避だ。何を望んでいるか、それをよく見極めなくてはならないよ、G」
そして、それが何か、ということを考え、ハワードは僅かに憐憫を覚えた。
約束の時間ちょうどに、彼は橋の上に現れた。
「ようこそ」
門を開き、招き入れたのは、普段着のマリア・Bだ。
「お時間を取って頂いて、ありがとうございます」
生真面目に、Gは会釈する。
「電話では、詳しいことは判らなかったからね。具体的な話をしてくれるんだろう?」
「勿論です」
青年は、手にした分厚いファイルを軽く動かしてみせた。
「あれ」
孤児院の前庭に見慣れた車を見つけて、エースは呟いた。
今日は土曜日だ。Gが迎えにくる予定はない。
何かあったのかな、と思いながら玄関を開ける。
「姉貴? G?」
「エース! 食堂だ」
大声で呼ぶと、即座に返事があった。
大テーブルのある食堂は、人が減った今では殆ど使われていない部屋だ。みっともなくなってないかな、と心配しつつ、踏みこむ。
「お帰り、エース」
幸いなことに、思ったほど埃の匂いはしない。
二人は、テーブルの、広い天板の上に何枚も紙を広げていた。
「今日はどうしたんだ、G?」
「マリアさんにお話があってね」
青年は、その褐色の指を、紙の上に走らせた。
視線を落とすと、それはこの近辺の地図のようだった。
エースは、まず孤児院の場所を確かめ、そして研究所の位置を探す。
「あれ?」
何やら、覚えのない線が目に入って、周辺を見回した。
場所は間違えていない。のに。
「喜べ、エース。副収入だ」
にやりと、マリア・Bは人の悪い笑みを浮かべた。
「副収入?」
「〈神の庭園〉が、土地を借りたいと言ってきてね」
研究所の名前が出て、視線をGへと向ける。
「うん。実は、山の上から、ふもとにかけて、モノレールを作ろうって計画があって」
「は?」
「ほら、ここ。山の近くに、橋があるだろう」
「ああ……。でも、壊れかけてるぜ?」
「建て直すのは、すぐだ。川幅はそんなに広くないからね。で、そこからこちらの敷地に入ったところに、発着場を作る。屋根と壁があれば足りる程度のものだね。で、こう、斜面を登って、今駐車場にしてるここまでモノレールを敷く。ここから、研究所の中央センターまで、歩いても五分程度。まあ、山道だし、体力のない人も多いから、電気自転車でも使うことになるだろうね」
滑らかに続く言葉は、これが既に入念に練られた計画であることを示していた。
「いや、でもなんで?」
その問いに、ふ、と、兄は笑う。
「これだと、君の家から研究所まで、二十分ほどで来ることができる。君に、負担をかけないでよくなる」
「俺の、せい……?」
エースの言葉に、二人の保護者は揃って首を傾げさせた。
「せい?」
「いやだって、これ、凄く金がかかるだろう? うちにはそんな金、ないし」
「すっぱりと言い切るな」
少しばかり気分を害した顔で、マリア・Bがエースを小突く。
「ええと……。確かに、君がここにいるから、持ち上がった計画だ。毎週、往復六時間のロスは、我々に取っても痛いし、何より君を疲弊させては意味がない」
「俺は、別に」
「疲れてない、なんてことはないはずだよ」
柔らかな口調て言い切られて、エースは口ごもった。
「ただ、他に理由もなくはない。研究所から、ナレインフットの街まで出るのに、車で三十分はかかる。あちらは傾斜が緩やかな分、道が長いからね。簡単な用事ならこっちでも済ませられるし、元々、アウルバレイに行ってみたいと言う職員も多かった。ただ、日帰りではどうしても遠くてね」
ナレインフットに比べれば、アウルバレイは見劣りすると思うが。
まぁ、観光という意味でいい街なのは、常日頃よく知っている。
「週に一度以外にも、何か急な用事があっても、ちょっと寄ることができる。エムが遊びにくることもできる。モノレールと建屋、橋の建設費用と維持費はこちらで持つし、借地料もお支払いするよ」
「……それで、副収入か……」
エースが色々と考えた挙句の溜め息を落とす。
「姉貴は、それでいいのか?」
腕を胸の前で組み、レースのキャミソールの膨らみを存分に強調する義姉は、不敵に笑う。
「条件はつけた。発着場の周囲にフェンスを立てて、こちらへの立入りは禁止する。セキュリティの権限はうちが持つ。基本的に、うちの方へ入ってきていいのは、お前の兄弟だけだ」
「それに関しては、持ち帰りで責任者の判断を仰がなくてはなりませんが、まぁ、大丈夫でしょう」
Gがにこやかに請け負う。
「彼女が望むものは、あの土地の安全だ」
僅かに同情のようなものを滲ませ、ハワードが告げた言葉を思い返しながら。




