「……あれは、駄目だな」
午後からは、まず学力検査だ。
無機質な、机が数個並ぶだけの部屋へと案内される。
「ここは、学習室だ。子供が多い時は、授業もしていた」
懐かしげに、Gは説明する。
「学校みたいなものか?」
「ああ。でも、全学年を合わせて多くても十人ほどがいたくらいだけどね」
エースの通ったアウルバレイの学校でも、各学年で二、三十人はいた。
規模が大きいとは言え、一つの研究所ではそんなものか。
「エムはまだ小さいから、今はアイ一人だね。実技の必要がなければ、部屋で授業を受けてる」
個人授業か、と思ったが、例の立体映像受信機で録画されたカリキュラムを見ているのだそうだ。
「じゃあ、試験を始めるよ」
アイはエースから適度に離れて座る。
机の上に置かれた大きめのタブレット端末の画面で、カウントダウンが始まった。
あの小さな街の学校では、未だ黒板や紙の教科書、ノートや鉛筆が使われているというのに。
斜面地を切り開いて、そのグラウンドは作られていた。
さほど広くはない。長辺方向に五十メートルのコースが一組あり、幅は三十メートルといったところか。
だが、古い街には、身近に競技場の類はない。特有のカラフルな舗装を、エースは物珍しげに見渡した。
「まず、五十メートルのタイムからいこうか。そこに立って」
動きやすい服に着替えたエースとアイは、並んでコースについた。
体力検査は、半ばゲームのようだった。遠く離れた的にボールを当てたり、逆にこちらに投げられたボールをテニスラケットで打ち返したり。
山道を二キロほど走るのはさほど楽しくなかったが。
ひとしきり済んで、兄妹たちが再びカフェテリアに集まる。
Gが、二人の結果をざっと読み上げていく。
学力検査ではアイの圧勝、体力検査での優劣は半々に分かれた。
「トータルではあたしの勝ちね!」
嬉しげに宣言するアイを、やや呆れて見る。
「俺は勉強嫌いなんだよ」
「まあ、アイは慣れた場所で、有利だったからね。今も学習中だし」
Gが場を収めるように告げる。
「瞬発力では、アイが優位かな。後半エースが巻き返したのは、基礎体力の差か」
「一応肉体労働だしな」
適当に返して、ミネラルウォーターをあおる。
「で、アイが勝ったら、俺は何をしたらいいんだ?」
問いかけに、同い年の少女はきょとんとこちらを見る。
「なに、って?」
「いや、だから、勝負だろ? 勝った方は負けた相手に何か要求するものじゃないのか?」
大家族の末っ子で、結果として最も割を食っていた少年が説明する。
「知らないわよ、そんなルール……」
なんとなく薄気味悪そうに返される。
「そういえば、どうしてアイは勝負を吹っかけたんだ?」
長兄が、今更根本的なところを尋ねた。
「何かむかついたからよ」
「アイ……」
むしろ胸を張って答えられて、溜め息をつく。
「まあ、何もないならいいさ」
エースがあっさりと引いたのが気にいらなかったのか、アイはばっと手のひらを向けてきた。
「ちょっと待って、今何か考えるから」
「無理するなよ」
呆れたのか保身なのか判別のつかない言葉を聞き流す。
「んー。そうね……。今度、また何かお菓子を作ってきてよ」
ようやく決めた要求に、エースは眉を寄せた。
「俺、流石に来週も土産持ってくるつもりはなかったんだが」
「みんなに、とは言ってないわよ。勝ったのはあたしなんだから」
得意げに言い放たれる。
「……判ったよ。あんたにだけ、な」
人差し指を唇にあてがい、仕様がない、と言いたげに微笑する。
「ぼくも欲しいな……」
横から寂しそうにエムが呟いて、アイがはっと我に返った。
「し、仕方ないわね。エムには分けてあげるわよ。内緒だからね」
一転して、妹は嬉しげな声を上げ、二人の兄は顔を見合わせた。
「とりあえず、今日の予定は終わりだよ。お疲れ様」
とん、とプリントアウトした紙をテーブルの上でまとめ、Gが告げる。
「全くハードな一日だったよ」
軽く伸びをしつつ、憎まれ口を叩く。
とは言え、まだ夕方といった時間帯だが。
「夕食は食べてから帰るだろう? その前に、汗を流してくるかい? また全自動浴槽を使ってもいいよ」
「あ、エース! ぼくが入れてあげる!」
全自動浴槽、と聞いて、エムが手を挙げる。
「ちょっと何言ってんのエム」
「彼は昨夜にも入っているよ」
横から口を挟まれて、むぅ、とエムは膨れた。
「今度はぼくが教えてあげる番だったのに」
「……ねぇ、本当に何言ってんの?」
冷ややかな目をエースに向けて、アイが低く問う。
「……あれは、駄目だな」
だが、エースはただ一言、そう呟いた。
「え?」
「エース、あのお風呂、嫌い?」
兄妹の視線を受けて、小さく首を振る。
「あれは、人を駄目にする風呂だ」
エースは特に入浴に多くを望む質ではないが、あの快適さを経験しては、自宅の旧式な浴室に失望するのもごく自然ななりゆきだった。
「……なに言ってんの」
物心つく頃にはもう全自動浴槽があったアイは、軽く引いている。
「ああ、まあ確かに」
しかし彼らよりも十年ばかり年長のGは、気持ちが判る、と苦笑いしていたが。
「そういえば、あんた、シャンプーの匂い、Gと一緒ね」
ふと気づいてアイが零した。
エースが、問いかけるようにGへ視線を向ける。
「……うわぁ気持ち悪い」
思春期の少女が僅かに身を引いた。
「待ちなさい、アイ! これは、エースは初めて使うから、私が薦められるものを選んだだけで、つまり私がよく使うものだったというだけで」
「いいじゃねぇか。兄弟なんだし」
焦りを見せつつ窘めるGをよそに、けろりとエースは返す。
「兄弟でもないわー……」
「女ってのは、大体自分個人のシャンプーとか持ちたがるよなぁ」
姉貴たちの小遣いはそれに使われてなくなるのが多かったもんだ、と、しみじみと暴露する。
「全自動浴槽だと、専用シャンプーしか使えないから、結局誰かとは被るんだけどね」
「余計なこと言いすぎよ、G!」
兄の身も蓋もない言葉に、アイは声を荒げた。
夕刻になると、食堂には職員たちが詰めかける。
兄妹の姿を認めて声をかけてくる者は多かった。
そして、エースに対しても。
手土産を持ってきたことで、話しかけやすくはなったのだろう。
食事が終わりかけるに従って、エースは周囲を見回すことが多くなる。
「どうかしたのか?」
「いや。……ハワードさんとエリノアさんはいないのかな、と思って」
やや上の空で、エースは答える。
「あの二人は、普段はこんな場所には来ないわよ。トップですもの」
そんなことも知らないのか、と言いたげにアイが告げた。
「そっか」
少しばかり寂しげに、少年は弱く笑む。
「明日には報告に行くことになるから、話があるなら伝えておくよ」
「いや。いいよ」
Gの申し出に、しかしエースは首を振った。
闇の中に沈んだ扉を開く。
今日は、マリア・Bは仕事に行っている。誰もいない夜は慣れているけれど。
彼女と、日に一度も顔を合わせないことは、初めてだった。
自分には、〈神の庭園〉の兄妹たちがいたが。
気遣われ、食事の支度も掃除も何もしない生活だったが。
しかし。
頭を振って、余計な思考を振り払う。
明朝になれば、義姉は帰ってくる。
自分の仕事もある。
今までと、同じ。
よし、と小声で気合を入れると、エースは台所へと足を向けた。
この二日で変動したであろう食料の備蓄を把握するために。
「二日間、ご苦労だったね、G」
翌朝、所長室へ呼び出されたGは、部屋の主から鷹揚に労われていた。
「大したことではありません。エースは、実に協力的でした」
渡されたファイルをぱらぱらと捲りながらハワードは頷く。
「チームのミーティングがあるのだろう? 私も参加しよう」
それは珍しいが、しかし対象は十五年振りに見つかった能力者候補だ。不思議はない。
「手配しておきます」
そつなく、助手としての対応を続ける。
「エースの様子はどうだった? 強行軍だ、疲れを見せていたか?」
「いいえ。彼はまだ若いですからね」
「お前は?」
「この程度で疲れはしませんよ」
冗談混じりで返したのだが、ハワードは指先でとん、と机の天板を叩いた。
「疲れても構わんよ。この先何週間も続ければ、疲れてもくるだろう。むしろ、疲れて、音を上げて貰わなくては都合が悪いのだ」
「サー……?」
訝しげに呼びかけるGに、〈神の庭園〉の長は意味ありげな視線を向けた。
 




