「俺に隠してたのか?」
それは、言うなれば、直立する巨大な卵であった。
この研究所は、そもそも敷地に入るところから、警備が厳重だ。
登録された、指紋、声紋、網膜などのいずれかの照合を要求される。おそらくはそれ以外にも、様々なデータが関わっているのだろう。
エースは、前回来た際に、正門のところでゲスト登録をしている。
今日はもう業務時間外だということで、本登録はできず、ゲストの立場のままだ。明日、きちんと処理をする、と言われている。
先ほど案内された個室に入る時にも、その照合があった。これで部屋を使う当人以外は、平常時には誰も入れないというのだから驚くよりない。
この浴場に関しても同様で、扉を開くのにはエースの情報が必要だった。
そして、その直後、少年は目を見開いて立ち尽くしていたのだ。
その『浴槽』は、高さは二メートルを超えていて、純白の表面は柔らかな光沢を放っている。つるりとしたそこには、一見継ぎ目らしきものは認められない。
正面からやや右に、二十センチ角程度のパネルが突き出していた。本体から細いアームのようなものが伸びて、それに支えられている。
「手を載せて」
Gに促されて、それに従った。
小さな電子音が鳴って、暗かったパネルが発光する。
「初めてだし、標準でいいかな」
エースの手をどかせ、パネルを横から青年が操作する。
「シャンプーやボディソープは、備えつけのになるよ。好きな香りを選べるけど」
パネルに数種類の名前が並ぶのを、困惑してエースは眺めた。
「あんたのお薦めで頼むよ」
「そうか?」
首を傾げて、Gは手早く操作を進める。
音も立てず、〈卵〉の表面が上方へと滑っていった。ぽっかりと空いた内部は、椅子のような形状をしている。
「服を脱いだら、ここに座って。後は全自動で全部やってくれる。お湯が熱かったりぬるかったりしたら、そう言えば調整できるから。ああ、そうだ」
呆然としているエースの足元で、斜めに引き出されたような形で浴槽の一部が開く。
「脱いだ服はそこに入れておいたら、入浴中に洗ってくれるよ。乾燥までできるから、心配いらない。何か、判らないこととかあるかい?」
「……全部かな」
小さく呟くエースに、苦笑する。
「まあ、判らないことは、こいつに訊けば教えてくれるよ。中断もできるから、途中で止めてもいい。ともかく一度やってごらん」
不安なら私がここで待っていてもいいけど、と言われて、慌ててそれは辞退した。
浴槽に背を向け、こわごわ腰を下ろす。肌に触れた面は意外なことに適度に温かかった。
『入浴を開始しますか?』
滑らかに尋ねられて、びくりとする。
「あ、ああ」
肯定すると、開いていた開口部が閉まり始めた。同時に、頭上にぼんやりとした灯りが点る。
ぴったりと浴槽内が密閉されると、椅子はゆっくりと後ろへ倒れていく。リクライニングシートのように、やや斜めになったところで止まる。
と、ふわ、と肌が温まった。何かと思えば、湯が細かい霧となって、吹きつけてくるのだ。
いい香りが、身体を包みこむ。
実はかなり緊張していたエースは、やがて自然にその機械に身をゆだねていた。
翌朝、Gは七時を過ぎた辺りで隣の部屋を訪ねた。
インターフォン越しに呼びかけると、軽く返事が返ってくる。
中に入ると、エースは退屈そうな顔で椅子に座っていた。
「起きてたのか」
「普段は五時には起きるからな」
肩を竦め、家事をほぼ一手に担っている少年は答える。
「やることないからその辺散歩してたんだけど、腹が空くだけだったよ」
恨めしそうな顔で続けられて、Gは困ったように笑う。
「テレビでも点ければよかったのに」
「テレビ?」
この部屋にも寝室にも、ディスプレイらしき物体はない。
Gが、壁際にあるローチェストに歩み寄った。その上には、大きさは三十センチ角、高さ五センチ程度の黒い機械がある。その上面中央に、半球状のガラスが嵌めこまれていた。
室内灯だろうかと思っていたのだが。
Gは、その傍に置いてあったリモコンを手に取り、ボタンを押す。
次の瞬間、ガラスの球が発光し、その上の空間を人が歩いて行った。明るい音楽と、人の声が流れていく。
「……ッ!?」
びくり、と身を震わせ、そのはずみに椅子が音を立てる。
「チャンネルを変えるのはこのボタン。番組表はこっち。立体映像に対応してないものは、後ろの壁に投影されるから。ベッドルームのも、同じ操作だよ」
世界でもさほど普及していないであろう立体映像受信機の使い方をこともなげに説明してくる兄を、エースはまじまじと見つめた。
「……楽しんでいるんだな?」
「我が家を自慢したいのは、当たり前の感情だろう?」
「やあ、初めまして。私が、今日君を担当する、ニコラス・セヴァリーだ」
医療棟の個室で、四十代の男が手を差し延べてそう名乗る。手を握ったところで、男は欠伸を噛みころした。
「失礼。今朝は早かったからね」
時間は、朝の八時過ぎ。普段の始業よりも早いのだろう。
「いえ、俺の方こそ無理を言ってすみません」
エースの言葉を、ひらりと片手を振っていなす。
「仕事だからね。座って。えーと、まずは問診をします。G、カルテを」
「はい、サー」
「……G?」
さらりと命令し、あっさりとそれに従う二人に、小首を傾げる。
「彼は、ここでは助手の仕事をしているんだ。知らなかったのかい?」
「俺に隠してたのか?」
「言う機会がなかっただけだよ」
Gは肩を竦めて答えると、ぱたん、とレントゲン室の扉を閉める。
数秒後にはOKが出て、エースは少しむくれ顔でシャツに袖を通した。
「大体、産まれてからずっとこの研究所で生活してたら、目指す職業なんて限られてくるんだよ。……今度はこっち」
廊下を数メートル進んで、一つの扉に手をかける。
「それにしたってさ……」
「だったら、そもそも私が何故君たちとの交渉に毎回居合わせたと思っていたんだ? 普通、雇用契約も結んでいない人間に、そんな大事な仕事は任せないよ」
ニコラスが、ベッドに寝かせた少年の胸をはだけさせ、てきぱきとコードのついた吸盤を肌に取りつける。
「……兄弟の情に訴えかけたかったとか」
「正解だ」
「あんたな」
ひねくれて発した答えを肯定されて、唇を尖らせる。
「ほら、静かに。変な波形が出るよ」
「本当か?」
猜疑心の塊になった弟に、二人の職員はただ微笑んでみせた。
一通りの検査が終わったところで、エースはカフェテリアのテーブルに突っ伏していた。
「気持ち悪い……」
「ほら、スープだけでも飲んで」
カップに注がれた、シンプルなコンソメのスープをGが勧めるが、エースは顔を上げようとしない。
「無理だ……。何か口に入れたら吐く……。腹減ってるのに……」
恨めしげに呻く少年の背を、ゆっくりと撫でる。
「……どうしたの?」
横あいから、小さな声がした。
僅かに顔を上げると、テーブルの端から困ったようなエムの顔が覗いていた。
エースが反応するよりも早く、Gが説明する。
「朝の検査で、気分が悪くなったんだよ。ほら、胃カメラとか色々やって」
「だいじょうぶ、エース?」
「……大丈夫、だよ」
蒼白な顔に何とか笑みを浮かべるが、説得力はなかったらしい。
「昔の機器よりは負担が少なくなってるらしいんだけど」
穏やかなGの言葉を、突然高い声が遮った。
「Gって、時々だけど莫迦よね」
「……アイか」
顔を上げられなくて気づかなかったが、エムと一緒にいたらしい。
が、エースの声など気にせずに、彼女は続ける。
「今、気分が悪い人間に、昔よりはましだとか、何か慰めになると思ってんの?」
「……ごもっとも」
降参、というように、青年は片手を挙げる。
「ほら、そいつ、外の洗面所に連れてって。すぐ追いつくから」
きびきびと指示されて、エースの顔を覗きこんだ。
「動けるかい?」
「……やだ」
「楽になるから、早く行く!」
エースの小さな抵抗は、しかし少女の苛立った声に潰された。
のろのろと移動した一行は、洗面所に辿り着いた直後にアイに追いつかれた。
「はい、これ」
紙コップに入った液体を手渡される。
「……なに?」
午前中の検査で、ただでさえ色々飲まされた。及び腰になるエースに、さらりとアイは答える。
「炭酸水よ」
「炭酸?」
「それでうがいしてきなさい。飲まないなら大丈夫でしょ。別に飲んでもいいけど」
ほら、と肩を押され、その軽い衝撃ですら目眩がして、よろめきながらエースは洗面所に消えた。
「……凄いな、炭酸」
数分後、まだやや顔色は悪いものの、しゃんとした姿勢でエースはカフェテリアに戻っていた。ゆっくりと冷めかけたスープをすすっている。
「前にマムから聞いたのよ。吐き気には、炭酸水が効くって。気にしなくていいわ。あんたに借りを作りたくなかっただけだしね」
「借り?」
首を傾げると、アイは眉を寄せた。
「……ほら。クッキー。私の分もくれたでしょ。……美味しかったから」
やや言い渋りつつも、素直にそう告げる。
「朝、一緒に食べたんだよ!」
エムが隣から言い添えた。
「そっか」
「なに、にやにやしてんのよ」
しかし、アイの殊勝な素振りはすぐに消え、刺々しい口調で問い詰めてくる。
「ん。自分の作ったものを美味しい、って言われるのは凄く嬉しいからな」
それを気にもせず、へへ、と笑うエースを、アイは顔をしかめて睨めつけた。
「よし。午後からの検査で、私と勝負よ!」
「は?」
突然宣戦布告されて、間抜けな声を漏らす。
「いや、検査で勝負って、無理だろ」
「身体の検査はもう終わったんでしょ? じゃあ、この後は才能の検査よね」
エースの言葉を無視し、Gに問いかける。
「そうだけど、どうしてスケジュールを知ってるんだ?」
「あんたのスケジュールならシステムで共有されてるじゃない」
「セキュリティに思わぬ穴があったな」
特に深刻さもない会話であった。
「それも無理だろ。あんたは能力が使えるけど、俺は使えない。勝負にならないじゃないか」
更に異議を唱えると、呆れた視線が向けられる。
「当たり前でしょ。幾ら何でも、そんなことで勝って喜ぶとかしないわよ。莫迦みたい。昼からは、学力検査と、体力検査よ」
「…………は?」