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「何だそれ。魔法みたいだな」

 キィ、と、鋭いブレーキ音と共に、自転車が停まる。

「着いたぜ」

 慣れない乗り物、しかも衝撃を緩和させるもののない荷台に座り、がたつく石畳の敷かれた道路を疾走することに十数分間耐えていた子供は、僅かに涙目になって顔を上げた。

 道と敷地を隔てるのは、簡素な木の板でできた柵だ。少年の胸のあたりまでしかないそれは、半ば生い茂る雑草に埋もれかけている。門だけは高く、柱が立てられ、枠に嵌められた扉のようになっていた。

「むさくるしくて悪いな。手が回らないんだ」

 少しばかり気恥ずかしげに、エースが告げる。

 子供は僅かに呆然としていたが、先ほど押し入ろうとしていた廃屋も、まあ似たようなものだった。人が住んでいるだけましなのだろう。

 改めて、門を見上げる。一番上に、飾り文字で何か書かれていた。

「ブライアーズ孤児院、だ。ここは、行くところのない子供がいていいところさ」


 木製の門扉を開けると、前庭を隔てて二階建ての建物があった。

 街の他の建物のように淡い黄色の石造りで、窓枠などは明るい緑だ。しかし、かなりペンキが剥げてしまってもいる。

 すっかり夕闇に沈んでいるが、庭はかなり広いようだ。

 エースが自転車を押し、子供はその隣を歩く。玄関の横に停めようとしているところに、突然、ばん、と大きな音を響かせてその扉が開いた。

「遅い、エース! 何やってた! そろそろ出ないといけない時間だぞ!」

 怒声が降ってきて、子供がびくり、と身を竦める。

 現れたのは、二十歳を幾らか過ぎたとおぼしき女性だった。

 女性としては背が高い。肌は白く、真っ直ぐで長い黒髪は腰近くまで伸びている。色の薄い水色の、気の強そうな双眸が、エースを睨み据えていた。

 そして、彼女は、膝丈の黒いレースのキャミソール一枚という姿だったのだ。

 その豊かな肢体が、過不足なく存在を主張してくる。

 しかしそれを見せつけられる相手は、慣れたように口を開いた。

「悪かったよ、姉貴。ちょっとごたごたしてて」

「ごたごた?」

 すぐにエースに隠れるようにして立つ子供に気づいて、眉を寄せて見据えてくる。

 エースは、宥めるように笑みを浮かべ、子供を振り返った。

「あれはうちの一番上の姉貴。マリア・Bだ。こいつは、行くとこなくてうろうろしてたから、連れてきた」

「……へぇ」

 マリア・Bが、にやりと笑う。

「ほう。ほうほうほう。お前もそういう年頃になったか」

「年頃って問題じゃねぇよ」

 面白げに告げる姉に、嫌そうな顔で返す。自転車の前籠から、一抱えほどの金属質の箱を取り出した。

「いやいや、子供を拾ってこれるようになったら、一人前だ。ようこそ。……ええと」

 そういえば名前を聞いていなかった。二人からじっと見つめられて、子供が慌てたように口ごもる。

「え……エム、です」


「エム?」

「変わった名前だな」

 奇妙な表情のマリア・Bと、首を傾げるエースに、首を振る。

「か、変わってない、の。ずっと東の方にある島国では、笑う、って意味なんだってマァムが言ってた」

「へぇ」

 感心したようにエースが呟く。

「まあいい。早く入れ。いつまでもそこにつっ立っている訳にもいかんだろう」

 あっさりと、マリア・Bは彼らを招き入れた。


 玄関は、割と広い。すぐ横手に二階へ上がる階段があった。

 真正面に通じる廊下を、ずんずんとマリア・Bは進む。

「あまり時間がない。先に食べて出るぞ」

「ああ。悪いな」

 ぶっきらぼうな言葉に、エースが返した。

 戸惑って見上げると、小さく笑う。

「姉貴はこれから仕事なんだよ。できるだけ、食事は一緒にとることにしてるけど、今日はちょっと遅くなっちまったから」

「ごめんなさい……。ぼくのせいで」

 しゅん、となった子供の頭を撫でてやろうかとも思うが、生憎両手は箱で塞がっている。

「いや、今日は元々ちょっと遅れ気味だったんだ。お前が気にすることじゃない」

「ほぅ。それは聞き捨てならんな」

 一番奥の扉を開いたマリア・Bが声をかけてくる。

「客が遅れてきてたんだ。仕方がないだろ」

「ああ、例の」

 あっさりと頷いて、姉はそれを流した。

 その部屋は厨房だった。かなり広い。ガスコンロが六口は並んでいるし、シンクの幅も家庭用で使われるものの倍ほどもあった。

 孤児院、というだけあって、多人数の調理をするのだろう。ただ、その設備は酷く古めかしかった。

 尤も、エムは厨房という場所に入るのが初めてだったために、その違いが判らなかったが。

 エースは手にした鍋を机の上に乗せた。蓋部分にある小さなボタンを押す。蓋の僅かな曲面と同面になっていたそれがへこむと、小さくぷしゅ、と空気が漏れ、ロックが外れた。

「エム。お前、前に食事したのはいつだ?」

「え、あの、朝ごはんを食べました」

 奥の戸棚から食器を出している女性の問いかけに、びくりとして返す。

 とはいえ、葬儀を前にしてあまり食は進まなかったのだが。

「何日も食べられなくて飢えている訳ではないな。なら、お前は、先に風呂だ」


「……お風呂?」

 きょとんとして呟いた。

「お前、結構泥だらけだぞ。髪も汚れちまってるし。どっか怪我してるかもしれねぇだろ。汚れを落として、薬ぐらい塗っておいた方がいい」

 説明するように、エースが続けた。

「私が洗ってやれればいいんだが、もう時間がないからな。エースが洗ってやる」

「お、お兄ちゃん、が!?」

 ずっとびくびくしていた子供は、一際大きな声をあげた。

「おぅ。一人じゃ無理だろ」

「だだだ大丈夫! 一人で入れるから!」

 慌てて両手を振って拒否してくる。

「いや無理だって。まだ子供なんだから」

「できるもん! 全自動(オート)なんだから、それぐらい!」

 顔を真っ赤にさせて言い募るエムの言葉に、首を捻る。

全自動(オート)?」


「ほら。ここが、うちの浴場」

 ごね続けるエムをエースが連れてきたのは、厨房に隣接する部屋だった。

 五メートル四方はあるだろうか。古めかしいタイルに覆われた室内に置かれていたのは、金属製の浴槽が、四つ。

「うちは大所帯だったからなぁ。風呂に入るのも大騒ぎで」

 しみじみとエースが零す。

 ぽかんとしたエムが捜し求める、見慣れた浴槽は、どこにも見当たらなかった。

「……どうやって入るの?」

「普通だよ。ほら、その上にシャワーがついてるだろ」

 な、と見下ろした先で、呆然としてエムは顔を上げてきた。

「……普通、は、透明な蓋のついた箱みたいなもので、中に入ってたら、体とか服とか靴とか全部洗って乾かしてくれるもの、だよね?」

 エムの言う全自動(オート)浴槽(バス)は、最先端技術によるものだ。実際、世界でも富裕層ぐらいしか利用していなかった。

 エースは、感心したような声を上げる。

「何だそれ。魔法みたいだな」

「ううん、魔法は」

 無意識に言葉になりかけて、慌てて口をつぐんだ。

「まあ、この辺は田舎だからな。色々、遅れてるのは仕方ねぇ」

 気にした風もなく、エースが笑う。

「さ、判ったら服脱いでおきな。俺、着替えとか取ってくるから」

 有無を言わさずに幼い子供を脱衣所に残して、少年は厨房に戻っていった。


「どうだ?」

 宣言したとおり、先に食事を始めていたマリア・Bが尋ねる。

 メニューは、自家製のパンと、エースが親方から分けて貰ったラタトゥイユだ。持ち帰ってきた保温機の中に入っていたものである。

「ああ。何か、自動で体から服まで洗ってくれる機械があるらしいぜ」

「なるほど。便利そうだな」

 感心したように、年頃の女性は呟いた。

「あいつ、結構いいとこの子らしいからな」

「ああ。あの喪服、かなり質がいい。最初は攫ってきたのかと思ったぞ」

「何だよそれ、信用がないのか?」

 眉を寄せ、文句を言いながら給湯器のスイッチを入れる。

「どこで見つけた?」

「『サムおじさんの家』。裏口から入ろうとしてた」

「お前はそんなところで何をしてたんだ?」

 近道をしようとして、通るなと言われていた道を通ったことを咎められる。

 エースは聞こえないふりをした。

 鼻を鳴らし、姉はパンを一つ割る。

「喪服、か。孤児にでもなったか?」

「マムが死んだ、とは言ってた」

 さらりと告げた言葉に、数秒間沈黙が満ちる。

「そうか」

 ふぅ、とマリア・Bは溜め息をついた。艶やかな黒髪が肩から流れ落ちる。

「悪いな」

 弟の言葉に、ひらりと片手を振る。

「お前が気にすることはない。子供一人の食い扶持ぐらい、何とでもなる」

「また仕事増やすのか、マリア(ねぇ)

 エースが表情を曇らせる。

 マリア・Bが夜の仕事を始めたのは、もう十年近く前からだ。自分はまだ子供だった。そう、エムとさほど変わらないぐらいの。

 だが、今は、自分も成長し、仕事を始めているのだ。人数だって、あの頃よりはずっと。

「気にすることはない、と言っているだろう。昔よりは、同じ時間働いても稼げる金額は増えてる。どうということはない」

「……なら、いいけど」

 僅かに疑心の残った声に、マリア・Bは妖艶に笑んだ。

「早く行ってやれ、お兄ちゃん。風邪を引かせてしまうぞ」


「待たせたな……、あれ」

 両手にタオルや衣服を抱えたエースは、扉を開けて少しばかり目を見開いた。

 びく、と身を竦めるエムは、喪服は脱いでいたものの、まだ下着姿である。

「寒かったか? 悪いな」

 その横を通り、棚に衣類を置く。浴室に入り、手近な浴槽に湯を溜め始めた。そして振り返るが、エムはまだ迷った顔をしている。

「どうした?」

「あ、あの、もう自分で入れるから」

「遠慮すんな。大丈夫、俺、姉貴たちに入れられ慣れてるから」

 微妙に方向性の違う説得力を発揮する。

「ううう」

 少しばかり頬を赤らめているエムに、首を傾げる。

「ほら、いいから脱げよ」

 そして、大家族特有の大雑把さで一気に下着をひっぺがす。

「うきゃあああああああ!?」

 悲鳴が、出かける準備を始めていたマリア・Bの耳をつんざいた。


「……お前」

 きょとん、と、涙目にすらなっているエムを見下ろす。

「女だったのか。てっきり男かと」

 ズボンの喪服を着ていたから、疑いもしなかった。声や体型で判別できる年齢でもない。考えてみれば顔立ちは柔らかく気弱であったが、身内を亡くした直後、と思えば不思議ではなかったのだ。

 その表情は、今は少々怒っているようだったが。

「お、女の子、なの! だから一人で入れるってずっと」

「うんまあ気にすんな。俺、姉貴たちと入り慣れてるから」

 しかし、珍しく真っ直ぐ抗議の声を上げたエムを横抱きにすると、少年はさっさと浴室へと向かった。

「うにゃああああああああ!」



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