「お前も、そんな年頃になったのか」
その男がブライアーズ孤児院へ続く橋の上に立ったのは、エムが孤児院に住んで二か月が過ぎた頃だった。
あまり濃くはない、褐色がかった肌。撫でつけられた短いプラチナブロンドの髪が、陽の光にちり、と光る。目の色は鮮やかな青で、生真面目な表情を保っていた。
背は高いが引き締まった肢体を包んでいるスーツはダブルの明るめの臙脂。淡いグレイのボタンダウンシャツ。ネクタイは暗い青に、細い銀のストライプが入っている。ライトブラウンの靴は、全体を磨き立てるような野暮な真似はしていない。
彼は辛抱強く、インターフォンの応答を待った。
「どちらさま?」
訝しげな女性の声が返ってくる。
「突然の訪問、申し訳ない。実は、私たちの探している子供が、こちらの孤児院に預けられているようだとお聞きしたので」
礼儀正しい言葉に、相手は十数秒黙りこんだ。
「詳しくお話を伺おう」
短い返答と共に、鉄格子のシャッターが耳障りな音と共に開き始めた。
車を前庭に停め、外に出ると彼は木造の建物を見上げた。
薄く曇った空と、そびえ立つ岩山を背景にした古ぼけた孤児院は、ややよそよそしく見えた。
木が軋む音と共に、玄関扉が開く。
「ようこそ。私が責任者のマリア・Bだ」
挑発的に、普段着で現れたマリア・Bに、しかし来訪者は表情ひとつ変えなかった。
「初めまして。G、と呼んでください」
Gは、通された応接室で物珍しげに周囲を見回していた。
古めかしいソファセットに、絨毯。壁にかけられた小さな絵や、片隅に置かれた花瓶などは、どこかちぐはぐだ。
一件電話をかけてくる、と席を外していたマリア・Bが、トレイを手にして戻ってきた。純白のカップに漆黒のコーヒーを満たしている。
「お待たせした。職場に、休みを貰わないといけなかったので」
「お忙しいところに時間を頂き、感謝します」
生真面目に、Gは軽く頭を下げる。小さく手を振って、マリア・Bはそれを流した。
「家族の大事だ。当たり前のことだよ」
「お仕事は、孤児院の経営かと思っていました」
その言葉に、苦笑する。
「人が少なくてな。ここの維持は、家庭を維持するようなものだ。外から金を稼いでこないとならない」
はぁ、と、青年は今ひとつ判っていないような声を上げた。
「お仕事は何を?」
続けて尋ねられるのに、彼女は人の悪い笑みを浮かべる。
「夜の仕事だよ」
「それは大変ですね」
あくまで生真面目な返答に、堪らずマリア・Bは吹き出した。
「あれ、マリア姉からだ」
遅い昼休みになって、エースは個人の端末にメールが来ていたのに気づいた。
家族か仕事関係からしか連絡が来ないため、その頻度は酷く低い。
「マリアお姉さん、何て?」
もぐもぐと、朝に親方から差し入れられたマフィンを頬張りながら、エムが尋ねる。
「今日は迎えに来れないって。仕事が終わったら、寄り道しないで帰ってこいってさ」
肩を竦め、告げる。
こんなことは、時々あった。
エムが眠くなったら、助手席に移動してやればいい。少々寝心地は悪いが、仕方ない。
いつものように午後になってやってきたパーシヴァルがあからさまに落胆していたが、それもいつものことであった。
そこまでは。
門扉を開き、自転車を押して前庭に入る。
視界に、見覚えのない一台の車が飛びこんできた。
無意識に足を止め、数度瞬く。
「エースお兄ちゃん?」
「珍しいな。エア・カーか」
エア・カーとは、石油や電気、水素を燃料として動かすのではなく、圧縮した空気をエネルギーとする車のことだ。車体の各所に、噴出口が設けられている。
しかし、現在はまだ百パーセント空気のみでの稼働はできず、他のエネルギーを併用している。それ故、未だデザインは四本のタイヤから逃れることができなかった。
「珍しいの?」
きょとんとしてエムが尋ねるのに、苦笑する。
「石畳の道だと、空気が乱れるらしいからな。この辺では乗れないよ」
ここに来るまでは、他燃料で走って来たのだろう。
ばたん、と玄関扉が開く。
「……姉貴。客が来てるなら服を着ろよ」
もう諦めた方がいいのかと思いつつ、しかし多分今日の客とは初めてだ。一応言っておこう、という義務感で苦言を呈する。
マリア・Bは真面目な顔で二人を手招きした。
「その、来客だが。エムの保護者だと言っている」
顔が強張るのを、自覚する。
隣に視線を向けると、幼い少女は驚いた表情で固まっていた。
「……確かなのか?」
「書類と、エムの写った写真を持参している。産まれた時からのものだ。それが偽物ではないと言えるほど、私に知識はないが、まあ説得力はある」
突然のことで、淡々と告げるマリア・Bの言葉に思考がついていかない。
いつものように、一日が終わると思っていた。三人で夕食を摂って、義姉を見送り、エムを寝かしつけて。
それが、こんなにも何の予兆もなく。
「うちは、子供たちを十六歳までは面倒を見ることになっている。例外は、引き取り手ができた場合だ」
重々しく、マリア・Bが告げた。
「今までは、全て天涯孤独なのが判っていた。だが、エムの調査はしていない。新しく子供を迎えなくなって、伝手が消えたからな。エム、お前はまだ小さい。法的な保護者がいるなら、そちらに戻らなくてはならないだろう」
ぎゅ、と、エースが唇を噛む。
「だが、お前は『うちに帰りたくない』、と言っていた。今もまだその気持ちでいるのなら、私はお前を帰したりはしないよ」
驚いた顔で、弟妹は長姉を見上げた。
さあどうする、とマリア・Bは二人を見つめている。
「……ぼく、その人に、会ってみます」
マリア・Bが言うには、迎えに来たのは信用できそうな相手ではある、とのことだった。
「このところ、エムのことを聞き回る奴らがいる、とは、パーシヴァルから聞かされてはいた」
「何で俺に言わないんだよ」
ややむくれて、エースがぼやく。
「一つには、プロのようだったからだ。事実、お前たちの職場に無理矢理押しかけたりはしていない。彼らの中に、今日やって来た相手はいなかったようだ。彼が依頼主なのだろう。そして、まず責任者である私に会いに来てる。話を通すために」
勿論、それらが全面的に相手を信用する理由にはならないが。
油断せずに、エースは応接室の扉が開くのを待ち受けた。
「お待たせした、ミスター。彼らが帰ってきましたよ」
所在なげに座っていた青年は、こちらに視線を向けた瞬間に立ち上がった。マリア・Bの隣に立つ少女を見つめている。
「エム……!」
「G……」
気まずそうに俯いたエムの前まで来ると、Gはためらわずに跪いた。
「無事でよかった! 本当に、どれほど心配したか……」
少女は、顔を覗きこんでくるGに、困ったような表情を浮かべる。
「ごめんなさい」
小声で謝るのに、安心させるような笑みを浮かべ、青年はその小さい手を握った。
どうやら、人違いでも詐称でもなさそうだ。
エースは小さく溜め息を漏らした。
「私たちが住んでいるのは、こちらの西側の山上なのです」
一同がソファに座り、Gが事情を話し始める。
エムが彼の隣に座るのが、少し気に障りはしたが。
「山の上……って、あの白い建物?」
「ええ。あれは教会ですね。山の向こう側の斜面に、住居はあります」
Gは穏やかに頷く。
「あの日、エムがいなくなったことには、夕方までに気づきました。門からの道はナレインフットに続いていて、そちらを通った形跡はない。ですが、記録に残っていなくても、何らかの手段で通ったのだろうと私たちは判断して、半月ほど前まではそちらを探し回っていたのです」
まさかこちら側にいたなんて、と、彼は苦笑する。
ナレインフットは、山向こうの街だ。かなり開けていて、鉄道や高速道路も通っていると聞く。山を迂回すれば車でも二、三時間かかるアウルバレイに目が向かなかったのも仕方がない。
しかも山の斜面は険しい。こちらの街へ降りてくる道もついていない。高さはさほどでもないとは言え、しかし。
「あそこを降りてくるとか、お前、凄いことしてたんだな……」
感心して呟くと、正面でエムが照れたように笑った。
「全く。上から見下ろすと、きっともっと怖いよ。よく降りていったものだ」
来る、と行く。
当たり前だが、エースとGの立場は違うのだ。
あらゆる面において。
そんなことを考えているうちに、Gは真面目な顔でエムに向き合った。
「お前がここへ来た経緯は、大方レディ・マリアから伺った。エム。まだ、うちへ帰りたくないのか?」
彼の声は充分に柔らかだったが、しかしエムは俯いた。
「ぼく……」
「マム・レイラは亡くなった。それは動かせない。私たちは、共に悲しみ、慰めあえた。全て捨てて、逃げ出したくなるほど、私たちはお前に寄り添えなかったのか?」
「……ごめんなさい」
エムが呟く。
「ミスター……」
堪らず声を上げかけるが、青年は静かにこちらを向いた。
「どうぞ、Gと呼んでください。責めているつもりではないのですが」
困った顔で、ストロベリーブロンドの髪を撫でる。
「判りますよ。そちらも大変でしたでしょう」
マリア・Bが、ゆっくり頷く。
頼りにしていたマム・マリアを失った時に、彼女は孤児院での最年長だった。
慌ただしさと喪失感の中、全ての責任が彼女の背に負わされたのだ。
Gと、全く同じ立場ではないが。
その時に最年少だったエースと、現状まだ幼いエムは、二人の大人を似たような表情で見つめた。
「どうしたい、エム。まだここにいたいなら、私が責任を持ってお前を預かろう」
マリア・Bが促す。
言いたいことはあるのだろうが、Gは静かにエムの答えを待った。
「ぼく……。うちに、帰ります」
Gが、長く、安堵の息をついた。
「それじゃあ、エム……」
「もう!?」
促しかけるのに、慌てて声を上げる。
驚いたように目を開いて、そして青年は穏やかに笑んだ。
「出発は明日の朝にするから、準備を済ませるように、と言おうとしたんだよ」
「え、あ、すみません」
気持ちが抑えられなかった自分に、恥じ入る。
「これからすぐ、とはいかないだろう。お二人は、エムと二か月共に過ごされたのだから。それに、今から出ても、向こうに着くのは深夜だ。夜に、石畳と山道を走るのは遠慮したい」
冗談めかして、続ける。
「明日の朝、八時に迎えに来ます。いいね?」
そう告げて、エムの肩にその大きな手を置く。
「貴方も泊まっていってくださっていいのですが。部屋だけは、沢山ある」
マリア・Bの申し出に、しかしGは首を振った。
「アウルバレイに宿を取っています。お気遣いなく」
気遣われているのはこちらなのだと、流石にエースも判っている。
Gは立ち上がり、そして頭を下げた。
「エムを護ってくださっていたこと、〈神の庭園〉を代表して、感謝いたします」
その後は、彼らは殊更陽気に振る舞った。
とっておきのハムを切り、冷たいレモネードを作り、親方直伝のクッキーを焼く。
「いつでも遊びにきていいぞ。私が迎えに行ってやる」
年代物のガソリン車を所持するマリア・Bが、機嫌よくそう請け合った。
そして家長の主張で、二人部屋のベッドを寄せ、三人で眠りにつく。
一般家庭の子供は、産まれてすぐに一人で寝かされる。
孤児院では、部屋と人数の関係上、複数人で部屋を使うことが多かったが、一人だけ男児だったエースはずっと一人部屋だ。
エムも、ここに来てからはほぼ一人で寝ている。
楽しさと寂しさを抱えて、子供はすぐに寝入った。
窓からは、薄く、月の光が差している。
「……マリア姉。頼みがあるんだ」
静かな部屋に、決意を決めたエースの声が放たれた時に、マリア・Bはしばらく沈黙した。
「お前も、そんな年頃になったのか」
「年齢は関係ねぇだろ!」
エムの髪を撫でつけながら、しみじみと告げられた言葉に、エースは反射的にそう返していた。




