「卑怯者は大抵そう言うんだ」
しん、とした場所だった。
どこにでもありそうな、細い路地。左右にそびえ立つ壁は、見慣れた黄色い石で作られている。
静かだ。
人の姿が全くない。
周囲を警戒して、ゆっくり移動する。他の者たちよりも、自分は小さい。見つかれば逃げ切れるものではない。
だから、慎重に。見つからずにいることだけを考えて。
それでも、進むごとに、全く人の気配がないことに当惑する。
敵も、味方も、そして無関係な住民たちも。
「マリア姉?」
とうとう、口を開く。
しかし、それに対する応えはなかった。
「ハンナ姉? ソニア姉? ドロシア? ベス? ニコラ姉?」
近くにいるはずの、義姉たちの名を呼ぶ。
「ジェイク? ニール? グレゴリー? パーシヴァル?」
遠からずうろついているはずの、敵の名前を呼ぶ。
「マリア姉! パーシー! どこ!?」
泣き出しそうな気持ちで、路地を駆ける。
崩れた壁を乗り越える。
屋上から垂らされた縄梯子を降りる。
この街のことは、隅々まで知っている。
あの明るい光に向かえば、そこは、広場だ。
「ブライ……」
口を衝きかけた声に、目を開く。
しん、と静まったそこは、自分の部屋だ。
照明を消した空間には、カーテン越しにぼんやりと月の光が差しこんできている。
長く、息をつく。
あの時の心臓の鼓動が、まだ続いていそうだ。
ごろり、と寝返りを打って、彼はまた眠りに戻ろうと努めた。
「……あれ。マリア姉?」
キッチンに明かりがついていて不審に思っていたが、何のことはない、マリア・Bがグラスを手にして座っていた。
「どうした、エース。眠れないのか?」
「いや。変な夢を見て、起きちまっただけだよ」
冷蔵庫から、冷たい水のボトルを取り出す。
「姉貴は、眠れなかったのか?」
問い返しに、彼女は苦笑した。
「いつもなら起きている時間だしな」
そう言えば、マリア・Bは仕事の時間だ。何か調子が狂ってるな、と内心自嘲しながら、エースは水を呷った。
「エムは?」
「眠っている。ぐっすりだ」
マリア・Bは、そう言ってグラスを揺らした。からん、と氷の涼しげな音が響く。
「どんな風だった?」
「いつも通りだよ。全くダメージを受けていないように見える。まあ、わざと気を逸らせたりしているから、それが成功してるのかもしれないが」
しかし、マリア・Bは、義弟やその親方がそうだったように、どこか腑に落ちない、という表情だ。
「無理をしてないならいいんだけどな」
沈んだ表情で、呟く。
「全くだ。あの子は割と他人の感情を伺うところがあるから、気を使っている可能性はある」
「そうなのか?」
そんなことは全く気づかなくて、驚く。義姉は、小さく笑んで続けた。
「うちにいた子供は大抵そうだ。お前が判らなくても仕方ない」
そんなことは思いもしなくて、エースは数度瞬いた。
「だが、こんな時には厄介だ。おまえの時みたいに、びーびー泣いてくれたら宥め甲斐もあるんだが」
「あれは最初の時だけだろ!」
反射的に怒鳴り返す。が、マリア・Bは面白そうに見返してきた。
「ハンナ姉? 」
後ろから呼びかけられて、少女は振り返った。
そこにいたのは、彼女たちのただ一人の義弟だ。
「どうしたの、エース」
少しばかり苛立ちながらも、ハンナはやんわりと返事をした。
「ぼくも一緒に遊ぶ!」
エースは、四歳になったばかり。
義姉たちの真似をしたいお年頃である。
しかし。
「駄目よ」
ハンナは、冷たい口調でばっさりとそれを切り捨てた。
「これは、遊びじゃないの。戦争よ。あなたみたいな子供は邪魔になるだけだわ」
その時、ハンナは九歳であった。
「だって……」
不服そうに唇を尖らせる子供に、背を向ける。
「お家に帰りなさい。マム・マリアとマリア姉さんに怒られるわよ」
そして、彼女は道を駆けた。
川に沿って、一心に走る。やがて、街の川岸が接近する場が近づいてきた。
「ヒーギンズ!」
「ブライアーズ!」
甲高い怒鳴り声が響いてくる。
川を挟んだ両岸に、それぞれ十数人の人垣ができていた。
こちら側には、ブライアーズ孤児院の子供たち。全員が女児で、対岸を睨みつけている。
向こう岸には、大声で囃し立てる男児たち。ヒギンズ家の次男坊、パーシヴァルに追従する者たちだ。
「遅い、ハンナ」
両腕を組んで、むっつりと敵を睨み据えていたマリア・Bが、不機嫌そうに告げる。黒髪は、肩の下あたりまでしかなく、幼い肢体を少しセンスがちぐはぐなシャツとスカートに包んでいた。
孤児院の子供たちは、大抵そんな服装だ。彼らの生活の殆どが寄付でまかなわれている以上、仕方がない。
「ごめん、マリア姉さん。マムのお手伝いが長引いて」
その言い訳に、長姉は頷いた。この戦争は、やるべきことをおろそかにするものではない。
「そろそろ時間だ、ブライアーズの!」
対岸から、声が響く。
男児たちの先頭に立つのは、金髪の少年。パーシヴァル・ヒギンズだ。
「いいだろう」
マリア・Bが、凛とした声を上げる。
「泣きを入れるなら今のうちだぞ」
「莫迦を言え。ヒギンズなぞ、今日こそ殲滅してくれる」
鼻で笑われて、男児たちが怒声を上げた。
「吠え面かくなよ」
まだ冷静に見えるパーシヴァルが、半ズボンのポケットから、きらりと光る物を取り出す。
「合図はいつもの通り。コインが、川に落ちた時だ」
「判った」
マリア・Bが頷くと同時に、リーダー二人以外の全員が周囲に散開する。
全員が固唾を飲んで見守る中、パーシヴァルの手から金色の壜の蓋が上空へ向けて投げられ、そして水面に落ちた。
「撃て!」
二人の指揮官の声が響くと同時、双方の岸から、黒い弾丸が放たれた。
マリア・Bの身体のすぐ横を掠めたそれが、地面に落ちてべしゃ、と崩れる。
「マリア姉さん、下がって!」
義妹の声に、じろりと一度対岸を睨んでから後退する。
この戦争には、厳格なルールがあった。
各陣地の奥行きは、道幅まで。
投げ合う泥団子は、片手で掴める大きさで、ぶつかったら壊れる程度の固さ。水気は余り多くない。
中に石などを入れることは厳禁。
これらは、開戦前に、きっちりと両陣営の指揮官が確認する。
今まで、泥団子を投げるのは、ややヒギンズ陣営に利があった。飛距離の長さとコントロールが上手いのだ。
しかし、この日、ブライアーズ陣営は秘密兵器を導入していた。
おたまである。
周辺の廃屋に残っていたそれらをかき集め、柄を九十度曲げてスプーンのような形状に変えておく。
そして泥団子を乗せ、敵陣へ向けて振り抜く。
腕の長さが伸びたようなものだ。単純な投擲機の原理である。
その分、普段よりもよく届く弾丸に、ヒギンズ陣営は罵声を上げた。
「卑怯だぞ、ブライアーズ!」
だが、マリア・Bは挑発的に笑う。
「これは威力を上げるものではない。道具を使うのはルール違反ではないな?」
飛距離が延びた分、ブライアーズの陣はいつもよりもやや後退して敷かれている。ヒギンズ陣営からの攻撃は、届きにくい。
「うわぁ……!」
瞳を輝かせ、彼はその戦いに見入っていた。
胴体に二発、頭部なら一発被弾すると、戦線離脱だ。頭部への被弾に余地がないのは、すぐに顔を洗うように、とのルールからである。以前、目を痛めた子供がいたのだ。
戦場から少し離れた場所に、川へと降りる階段がある。離脱する兵士への故意の追撃は禁じられていて、彼らはすごすごとそこを降りた。
「ずるいよなぁ」
「パーシー、絶対対抗手段を考えるぜ」
ぶつぶつと文句を言いながら、階段を降りた先にしゃがみこむ。ここは、遥か昔、街の住人たちが川の水を利用するために作られた場所で、やや広くスペースが取られていた。
川の流れに、突っこんだ腕からぽろぽろと泥が剥がれていった。
冷たい水で、勢いよく顔を洗う。
「……おい」
一人の少年が、小さく連れの袖を引く。
視線は、少し離れた橋に向けられていた。
この辺りは街外れで、人通りがない。長い間使われず、修理もされず、老朽化が進んでいた橋は、近づいてはいけないと言い含められていたものだ。
その橋の上に、人影がある。
こそこそと隠れて覗いている、子供の姿だ。
少年たちは、背をかがめ、土手下の道を通って橋の向こう側へ向かった。
「うわあぁあああああん!」
戦場に、泣き声が響く。
その場の全員が、視線を向けた。
二人の少年が、泣き喚く子供を抱えて戻ってくる。
「ニール! 何だ、そいつは」
呆れ顔で、パーシヴァルが問い質した。
「向こうの橋でこっちの様子を伺ってた。スパイだ!」
得意げに報告する。
「やだ、はなして! はなしてよぉ!」
「エース!」
マリア・Bの叫びに、パーシヴァルはしたり顔を向けた。
「ブライアーズのスパイか?」
「違う! その子はまだ小さい。うちにいるはずだった!」
「卑怯者は、どこまでも卑怯だな? 可哀想に、こんな子供に」
言葉と裏腹に、にやりと笑んで、パーシヴァルは言い放つ。
「エースは関係ない! 離せ」
「卑怯者は大抵そう言うんだ」
女児たちの、口々の非難を聞き流す。
「今日の戦闘は、けちがついた。どうだ、マリア。俺とお前の一騎討ちで決着をつけようじゃないか。時刻は午後三時。場所は、レインダール通りの空地だ。勝ったら、こいつは返してやるよ」
「関係ない子供を人質にするとは……! どっちが卑怯者だ!」
マリア・Bが怒声を上げる。
「安心しろ。危害は加えんよ。では、三時に」
ぞろぞろと、街の子供たちは去っていく。
今から追いかけても、捕まえられないのは確かだ。
「おねぇちゃあん!」
エースの泣き声が、段々と小さくなった。
「マムのところにいるように、って言ったの。本当よ」
最後にエースと顔を合わせたハンナが、半泣きになって主張する。
「あれも好奇心の強い年頃だ。誰かに見張らせているべきだった」
苦々しげに、マリア・Bが呟く。
ブライアーズ孤児院の子供たちは、近くの廃屋に集まって相談をしていた。
マム・マリアは、子どもたちの、この『戦争』に関して、あまり干渉はしてこない。目に余ることがなければ。
だが、まだ年端もいかないエースが巻きこまれたとなると、話は別だ。
可及的速やかに、彼を救出しなくてはならない。
しかし、あそこまで『卑怯者』と連呼されて、彼らから義弟を掠め取ることは、流石にためらわれた。
わんわんと、子供の泣き声が響く。
「……黙らせろ」
パーシヴァルが憮然として告げる。
仲間達は、困ったように顔を見合わせた。
ここは、彼らの隠れ家の一つ。グレアム家の畑の片隅にある、小屋だった。
箱や麻袋が積まれた間に、数人の子供たちが入りこんでいる。
エースは、その中の一つの箱の上に座らせられていた。誰も怒鳴りつけてもいないし、痛い目にあわせてもいない。
その状態からどう宥めていいか、彼らにはわからなかった。
「ほら、静かにしろって」
「誰かに見つかったら怒られるだろ」
「腹が空いてるんじゃないか」
「そういえばもうすぐおやつの時間だな」
そこで全員が黙りこみ、そしてぐぅ、と誰ともなしに腹を鳴らした。
「ああ、いいから一度皆帰れ。こいつは俺が見張ってる」
「でもパーシー……」
「決闘の時に、腹の虫が鳴ったら格好悪いだろうが。時間に遅れるなよ」
決闘、という単語にテンションが上がったか、少年たちは騒ぎながら一旦散会した。
まだわあわあと泣き喚くエースをよそに、指揮官は独り、傍らの袋を探る。
「ほら、チビ」
手を掴まれて、怯えながら視線を向ける。金髪の少年が、掌にクッキーを載せようとしてきていた。
「う、え?」
目にいっぱいに涙を溜めて、上手く喋れないまま、エースは相手をじっと見る。
「食べろ。誰にも言うなよ。内緒だ」
そうして、こっそりと、パーシヴァルは笑った。
午後三時。十分ほど前から、ぞろぞろと子供達がレインダール通りにある空地に集まり始めた。
男女それぞれに別れ、間に数メートルの空間を設けて睨みあっている。
やがて、パーシヴァルがエースの手を引いて、姿を見せた。
「遅い、パーシヴァル!」
苛々と、マリア・Bが怒鳴る。
「まだ約束には二分ある」
こちらは余裕の表情で、敵対する少年は答えた。
「エース! 無事なの?」
背後から、少女の声が飛ぶ。何とか泣き止んでいたエースが、また涙を浮かべた。
「早く始めよう。エースを離せ」
「決闘が終わったら、だ。どちらが勝っても、ちゃんと解放する。ヒギンズ家の名誉にかけて」
わざとらしく片手を胸に当て、パーシヴァルは宣言した。疑いのこもった目で、それでもマリア・Bは黙って頷いた。
「ヒギンズ!」
「ブライアーズ!」
子供たちの声が響く中、地面に一本の線が描かれる。
それを境に、二人の指揮官は背中合わせに立った。
合図に従って三歩歩き、そして振り向いたと同時に手にした黒い弾丸を投げつけるのだ。
機会は一度。
その場の全員が、二人の動きをじっと見つめていた。
「若旦那は、流石に随分変わったよな」
昔を思い起こし、しみじみと呟く。
「あの頃が子供だっただけだ」
「……マリア姉は本当に変わらないよ」
ばっさりと言い切られて、苦笑する。
あの後、ちょくちょくエースは『戦争』に参加した。
隠れ家の一つを急襲して、窓から大量の花を投げ入れたり。
人質に取られたが解放条件に満たなくて、夕方孤児院まで送って貰い、翌日の午後にまた人質になりに訪ねたり。
かと思えば脱走して、街の中を逃げ回ったり。
ブライアーズ陣営に参加しているのは、他は女児ばかりだったため、人質に取るのはお前だけだ、と胸を張って言われたこともあった。
戦争は、マリア・Bとパーシヴァルが十六になるまで続いた。
マリア・Bが独り立ちする年齢になり、仕事に就いたからだ。
残された子供たちでしばらく続けたが、やがてなし崩しに集まらなくなった。
あの時、パーシヴァルの下にいた子供たちは、今もヒギンズ家に仕えている者や、そうでなくても街で働き、彼に親しみを持っている者が殆どだ。
昼間、エムを救い出して広場に走りこんだエースを、あの叫びを判ってくれた者たちだ。
血相を変えて走り去ったエースを不審に思い、置き去りにしたバンを見張ってくれていた者たちだ。
この街を出ていかなくてよかったな、と薄く笑む。
「……そう言えば、パーシーはいつからマリア姉にベタ惚れになったんだっけ?」
「知らん。知らんでいい。詮索するな」
不穏な視線で睨みつけられて、エースは苦笑しながら顔を逸らせた。