「ちょっと、一緒に遊ぼう?」
その日の朝、エムは、ひときわ顔を輝かせてエースの後ろで自転車に乗っていた。
いつものように、既にバンは広場で待っている。
「おはようございます!」
荷台から降りるのもそこそこに、大声で少女は挨拶する。それを受ける親方は、困ったような、呆れたような笑みを浮かべていた。
「張り切ってんなぁ……」
がしゃん、と自転車のスタンドを立てたエースも、似たような表情だ。
「もうこいつ、昨日からそわそわしっぱなしですよ」
自分が揶揄されているのに気づいているのか、むぅ、とエムは頬を膨らませた。
それをよそに、親方が運転席から降り、小さな紙袋を開く。
「サイズを探すのが大変だったんだぞ」
まず袋から出てきたのは、赤い野球帽だ。それを、無造作にエムのストロベリーブロンドにかぶせる。
そして、同色のエプロンを広げた。
エムはきゃあきゃあと歓声を上げて飛び跳ねている。
「いいか、エム。これから言うことを、ちゃんと守らないといけないぞ」
しかし真面目な顔で、親方は言葉を継いだ。
「お前がお手伝いするのは、お客からの注文を聞くことだけだ。他の、よく判らないことを訊かれたら、すぐにエースに伝えろ。勝手なことをしちゃ駄目だ」
エムが、大きく頷く。
「それから、絶対に、知らない大人についていかないこと。この車の傍から離れそうになったら、大声を上げろ。絶対だ。これが守れないなら、手伝いはさせられない」
「わかった!」
片手を高く上げて、エムが返した。
親方は、肩を竦めてエースに視線を向ける。
「ま、俺も気を配ってるからさ。慎重にするよ。どうせ午前中ぐらいの間だし」
「この街はかなり平和だから、心配ないとは思うがな。だが、用心は大事だ。まだ小さいんだから」
「判ってる」
兄妹が揃って頷くのを見やると、親方はエプロンをエムに着せた。膝の辺りまであるそれを軽く摘み上げると、照れくさそうな笑みで彼女は兄を見上げる。
「ありがとう、親方」
「上手くやれよ」
そう言って、男は自転車にまたがった。
「いらっしゃいませぇ!」
声を張り上げ、幼女は両手に板を掲げた。
ガレットを売っているバンに近づいてきた女性二人は、あらまあと相好を崩している。
エムが持っていたのは、メニューの一覧が表示された大き目の端末だ。エースに直接告げなくても、メニューをじっくり考えてから注文できる。
多人数が待っている時には効率のいい方法だった。
「あら、お勧めはどれかしら?」
微笑ましげに尋ねる女性に、エムはきょとんとした視線を向ける。
「おすすめ……は、全部!」
が、すぐに、そう断言した。
「全部?」
「エースのガレットは、全部、美味しいです!」
言い切ったエムは、満面の笑みをたたえている。
「……なんか、すみません」
出来上がった注文品を渡す時に、ややいたたまれない気持ちでエースは言い添えた。
その日は、大したトラブルもなく過ぎた。
夕方にやって来たギルバートが、売り子姿のエムに会えなくて悔しがっていたが。
「評判いいぞ」
数日経った頃、親方はそう告げた。
エースとエムが顔を合わせて笑う。
「何か困ったこととかはないか?」
「いや、特には。客の大半は女性か女性連れだし、子供にそう酷いことはしないさ」
あっさりとエースが答えるのに、ならいいが、と親方もさらりと流した。
この街は、観光地だ。治安の悪さは人が離れていくことと同義である。
街を支配している者たちは、表側も裏側でも、それを熟知していた。
また、住人達はおおらかで気が優しい者たちが多い。
だから、大した問題が起きるとは思わなかったのだ。
「ねえねえ」
そう、声をかけられたのは、エムが店の手伝いを始めて、十日ほどが経った頃だろうか。
相手は、エムとさほど変わらない年齢の女の子だった。
可愛らしい水色のワンピース、白いレース編みの靴下。白い革靴。淡い金髪は細かい編込みをされていた。
一見、育ちのいい子供のように見える。
「ちょっと、一緒に遊ぼう?」
「遊ぶ?」
きょとんとして、エムは繰り返した。
「そうよ。あっちに、楽しいおもちゃがあるの」
おもちゃ、という言葉と、そして同じぐらいの年齢の子供からの誘いに、エムは心惹かれた。
ちらり、とバンの方を向く。
エースの前には二組ほどの客が並んでいる。が、その全員の注文はもう受けていた。端末に入力されて、エースの元に行っている筈だ。
「早く行かなきゃ、無くなっちゃうわ。すぐ戻ってこれるわよ」
エムの懸念を先回りして潰す。
「すぐに?」
「すぐよ」
エムの小さな手を取って、彼女は広場を横断した。
「あれ?」
次の客の注文を受けていなくて、エースが声を上げた。
「すみません、ご注文は何でしたか?」
「まだ頼んでないわよ」
冗談を言われたと思ったのか、小さく笑いながら客は返してくる。
「小さな女の子が注文を聞いてなかったですか?」
カウンターから身を乗り出すようにして、周囲を見回す。
「いいえ」
エムの姿は、どこにもない。
不審そうな客の向こう側、前にガレットを買ってベンチで食べていた客が顔を上げた。
「あの子だったら、先刻お友達と一緒に向こうに行ったよ」
「友達?」
エムは、この街での知り合いは少ない。まして、友達と呼べるようなものなど。
「女の子二人で、手を繋いでさ。仲良しみたいだったけど」
そんなものは、皆無だ。
エースは身を翻した。
力任せに、バンの扉をがん、と閉める。
「ちょっと、あなた……!」
声を上げる客に、すみません、と言い置いて広場を駆ける。
「エース!?」
この広場には、他にも軽食を売っている店がある。顔見知りの一人が驚いて呼ぶのを、顔も向けずに通り抜けた。
路地に入りこむと、耳を澄ませる。
おそらく、エムが連れ去られてから、もう数分が経っている。ただこの場を遠ざかることを考えていたら、とても追いつけないだろう。
だが。
「……いてっ!」
小声で罵声を漏らしたのが微かに聞こえた。
足音を立てないように、石畳を走る。
慣れたことだ。
角を曲がりかけて、そして一瞬で身体を引き戻す。
少し離れた場所に、二人の男に捕まえられた、見慣れた赤い帽子の姿があった。
慎重に、数歩後じさった。
気づかれては、いない。まだ。
二つ隣の扉には昼間は鍵がかかっていないし、二階の階段の窓は掛け金が壊れている。
よく、知っている。
この街のことは、隅々まで。
静かに窓を開く。斜め下に、目指す相手がいた。
「おい、早く脱がせろ!」
「大人しくしろよ!」
抑えた声が漏れ聞こえてくる。
エースは、軽く息を吸って、そして飛び降りた。
だん、と音を立ててすぐ傍に落下してきた少年に、男たちは一瞬虚を衝かれた。
目立つ赤いエプロンを脱がそうとしていた男の脛を、蹴りつける。悲鳴を上げてよろけた相棒に慌てたもう一人から、強引にエムの身体を引き剥がした。
「エース……!」
涙のこぼれる目を見開いて見上げるエムを、乱暴に抱き上げる。
そして、一気に石畳を蹴った。
「おい、待て!」
罵声を背に、ひたすら足を動かす。
広場は近い。大丈夫だ。
足音がばたばたと追ってくる。
大丈夫だ。一歩、広場に入りさえすれば。
声を出すよりも、呼吸を優先させる。
「待たねぇと殺すぞ!」
怒声に振り向かず、ただ先を見る。
広場に。
子供を抱えた少年が、足をもつれさせるようにして広場に駆けこんでくる。
次の瞬間、彼は膝から崩れ落ちて、そして絶叫した。
「ブライアァアアアアアズ!!」
エースの後ろから走り出してきた二人の男は、ざっと周囲の人々の視線が集中したのに、怯んだ。
「エース?」
「チビ?」
「どうした!」
十数人の男たちが、わらわらとこちらへ向かってくる。
「何だお前ら!」
エムを抱きかかえ、肩で息をしたまま動かないエースの身体に手をかけようとしていた男が、一喝されて、数歩引いた。
「くそ、逃げるぞ!」
相棒に囁いて、二人の男は踵を返して走り出した。
「待て、逃げるな!」
ばらばらと、数人の男たちがその後を追う。
彼らは、ヒギンズ家の手の者だ。
この街を、裏側から牛耳っている。
荒く息をついて、エースは街の男たちに問い質されるのをしばらく無視し、しがみついてくる腕の中の小さな身体を、ただ抱きしめた。