「どうした。迷子か?」
「……マァム」
小さな声は、誰の元にも届かずに、風に散らされた。
頭上を、鐘の音が渡っていく。
強い風に、足元の草花が揺れていた。女性たちは、顔を覆う黒いベールが帽子ごと剥がされそうになるのを懸命に抑えている。
はるか遠くまで見渡すことができるこの庭の片隅には、寂しい小さな墓地があった。
普段と違う、黒一色の服を身に着けた人々が、小さく泣き声をもらしながら、一箇所に集まっていた。
墓穴は、浅い。一メートル程度だろう。この辺りは、掘ってもすぐに岩盤に行き当たってしまうのだ。
簡素な木製の棺が、男たちの手でそっと穴の底へ横たえられる。
参列者の手にした花々が、次々に投げ入れられた。
牧師が、低く祈りの言葉を捧げている。
死者が、どれほど皆に愛されていたか。どれほど素晴らしい人間であったか。神の元で、安らかにあるか。
そんなことは、どうでもよかった。
棺に土を被せる作業は、穴が浅かったおかげもあって、すぐに終わった。墓石は、後日、石工に頼むことになる。
草の茂る中、一部分だけ、やたらと黒々とした土が、彼女の終の住処となった。
大人たちは、小声で言葉を交わしながら、数人ずつ固まってその場を立ち去っていく。
立ち去り難い者たちも、少しずつ、彼女の元から離れていく。
独りぼっちになってしまう。
「マァム……」
小さな子供は、泣き腫らした目をまた擦った。
このまま家に戻り、あの人がいない生活が始まるなんて、考えたくない。
ほんの数日前までいた場所に、もうずっといないなんて、気づきたくない。
大人たちの意識は、こちらにはない。
子供は、そっと、その場を抜け出した。
墓地の奥の方には、普段から誰もやってこない。
この辺りの墓は、もうずっと長いこと花も捧げられてはいなかった。
一人で遊ぶことの多かった子供は、ある時偶然、墓地を囲む柵に破れ目があるのを見つけたのだ。
その向こう側は断崖絶壁。はるか下方に流れる川の音も聞こえないほどの高さだ。
だから、大人たちは庭の端の方には近づかないようにと言い、柵を巡らしていたのだろう。
臆病な子供は、最初、おそるおそるそれを覗きこむだけで精一杯だった。
想像を絶する高さに怯え、ほんの少し高揚感を覚えながら。
だが、いつか、その崖を降りていくことを考え始めた。
あのでっぱりに足をかけて、あの裂け目に手を置いて。
そして、眼下に広がる街へと思いを馳せる。
空想好きな子供の、他愛のない楽しみだった。
今日までは。
柵の破れ目は、結構大きい。大人でも通り抜けられるだろう。
子供は四つん這いになって、難なくそれを通り抜けた。何度も来ているから、膝を痛めそうな石なんかはとっくに取り除いているのだ。
身を低くしたまま、崖に近づく。
大きな川は、灰色の水を湛えている。
ここしばらくいい天気が続いたためか、流れは早くない。
ごくり、と喉を鳴らして、子供は震える手を握りこんだ。
ここには、いたくない。
夕暮れの空に、鐘が鳴る。
普段と違う時間に鳴ることに、エースは顔を上げて遠い山の上を見た。
隣街との間を、川と共に遮る山は、そう高いものではない。だが、山のこちら側は傾斜が厳しく、簡単に登ることはできなかった。
昔から、裾野に沿って、まだ傾斜の緩くなる辺りまで遠回りをしていかねば越えられならなかったのだ。
その山の上に、白い建物が見える。
今は夕日を浴びて、ややオレンジがかっているが。
街の建物は、このあたりで掘り出せる岩から作られている。色は、決まって淡い黄色だ。色とりどりの窓枠や屋根板で、それぞれの個性を出している。
しかし、あの建物のような純白は、見ることができない。いつ見ても、その姿は目新しい。
山から吹き降ろす風が、エースの短い黒髪を、ざあ、と撫でていった。
「待たせた、エース!」
背後から声がかけられて、少年は横からもたれかかっていた自転車のサドルから身体を離す。
「遅かったな」
ごまかすような笑みを浮かべて駆け寄ってきたのは、二十歳を幾らか過ぎた年齢の青年だ。
「悪い、仕入れに手間取って」
「俺はいいけど、奥さん待たせちゃまずいだろ」
はい、と、紙袋を一つ手渡す。頷いて、青年は握っていた硬貨をもう一方の手に乗せた。
「お前も親方に怒られないか?」
少し心配そうに問いかけられる。
硬貨を腰に下げた鞄にしまっていたエースは、その言葉に苦笑した。
「親方には事情を言ってあるし、今日は大丈夫だ。むしろ、姉貴が待ってるからそっちが心配だな」
「あー……。すまん」
少しばかり怯んだ顔で、謝られる。
「構わねぇよ。じゃ、奥さんに宜しくな。また、お嬢ちゃんと一緒に顔見せてくれ」
子供のことを出されて、にへりとだらしない顔になった男にひらりと片手を振って、少年は自転車にまたがった。
身体に痺れるような振動を与えてくる石畳の上を、エースは懸命に漕いでいく。
思ったよりも遅くなっている。
空の藍色を見上げながら、少年は思案した。
自分の家に帰るまでには、川を渡らなくてはならない。普段利用している橋は、少しばかり遠回りになってしまうのだ。
もう一つ、近道になる橋もあるにはある。
ここ十数年、手を入れておらず、危険だから使うな、と言われているものだが。
しかし、時折こっそりとエースはそこを通っていた。今のように家路を急ぐ時や、行き先を知られたくない時など。
彼が、この日、そちらの橋を通ろうと思ったのは、ただの偶然だったのだ。
ぎしぎしと不吉に軋む橋を、それでも無事にエースは渡り終えた。
川のこちら側には、人が住んでいない。
昔は、ある金持ちの所有地だったのだと聞く。その後、その金持ちは没落し、住人は消えていったのだと。
確かに、川向こうの街に比べると、人家の間隔は広い。元々、大して人数はいなかったのだろう。
ある一軒の家の前を通った時、裏の方から、がたん、と音がした。
エースは静かに自転車を停める。
この辺りに住んでいるのが自分たちだけである以上、何かあった時に対処するのも、自分たちだけだ。
足音を立てないよう、扉の外れた門をくぐる。雑草の生い茂る建物の横手をそっと進んだ。
顔だけを、壁の角から出す。
視界に入ったのは、板で打ちつけられた裏口。
そして、途方に暮れたようにその前に立つ、小さな子供だった。
五歳ほどの年齢に見える。黒い上着に、白いシャツ。黒の半ズボンと、同色のリボンタイに革靴。服は身体に合っていないのか、やや大きいようだ。
両手でドアノブを握って、決心したようにぐい、と引く。
がたん、と再び音がするが、しかし開く筈もない。
「……どうした?」
できるだけ穏やかに声をかける。が。
「ひゃっ!?」
子供は慌ててこっちに向き直ろうとして足をもつれさせた。どしん、とその場に尻餅をつく。
「いたぁ……」
「大丈夫か?」
エースはゆっくりと近づき、屈みこんだ。びく、と怯えたような目に、ちょっとだけ傷つく。
近くで見ると、その子供は酷く汚れていた。主に土や泥だ。短い、ふわふわしたストロベリーブロンドの髪も、大きな青い目を見開いている顔も例外ではない。
「あ、あの……」
「ここんちに用事だったのか? もう、十何年も誰も住んでないらしいんだが」
できるだけゆっくりと、柔らかく問いかけた。それにようやく少しだけ気を落ち着かせたか、子供はふるふると首を振る。
「ごめんなさい……。ぼく、行く所がなくて、それで」
「どうした。迷子か?」
だが、それに答えた言葉は、酷く予想外だった。
「……マァムが、死んでしまったの」
エースの、小さく笑みを浮かべていた唇が、強張る。
じわり、と子供の瞳に涙が滲む。
「マァムが、死んじゃっ、て、いなくなっちゃって、ぼく、もう」
「そうか」
温かい手が、柔らかな髪に触れた。ゆっくりと、ゆっくりと撫でていく。
「帰りたく、ない。マァムのいないところに、いたくな、いの」
しゃくりあげる子供の頭を、ゆっくりと撫でる。
夕闇は、何の遠慮もなく深まっていく。
「そうか。じゃあ、うちに来いよ」
その小さな子供に、そう告げたのは、偶然ではないのだけれど。