04
雷のあと、大地を叩きつける水音が響く。一斉に降りだした雨は、今まで堪っていた鬱憤を晴らすかのように激しく地面を打ちつける。
その光景を窓から眺めて、シェットは廊下奥を注意深く目を凝らした。目当ての人物が居るはずであったが見当たらない。
一体どこに行ったんだ? もしかして、掃除はもう終わったのかな。
あれからあまり時間は経っていないが、レレムンの姿はどこにもなかった。当てが外れてがっかりした。そして同時に苛立ちも沸き起こる。
何してるんだよ、まったく。
認めたくはなかった。こんなに苛々する原因も、気になってしまうことも、本当は全部気付いている。全ては、レレムンにあることに。
独りで寂しく不安に肩を震わせているであろう彼女に、黙って居なくなられたことに腹を立てる自分自身に惑い、混乱する。違うんだと言い聞かせるには、もう十分遅すぎることにも気付いていた。
だから余計に、認めたくないのだ。だから、腹が立つのだ。
「……ああ、もうっ!」
苛立ちを吹き飛ばそうと、大きく身震いする。いつまでも考えるのは性に合わない。
覚悟を決めると、シェットは三階へと足を運んだ。
◇ ◇ ◇
三階にある部屋は、音楽室と空き部屋数室、そしてラースと双子の自室である。
シェットは迷うことなく目的の部屋の前まで歩みを進める。そしてルルムンの部屋の隣まで来たところで、シェットは足を止めた。
見上げる扉の、中央より少し上の部分に鈍色の金属板が掲げられている。各部屋に必ずあるもので、金属板にはこの部屋の主であるレレムンの名前が刻まれていた。それを見て、少しだけしり込みしてしまう。しかしここまで来ておいて立ち去ることなど出来なかった。
様子を見るまでは帰らない。少し覗いて、それから帰ればいいじゃないか。
シェットは前足を使って扉を押した。錠がかかっていたら厄介だと思っていたが、どうやら取り越し苦労ですんだようだ。軽い音を響かせながら、扉は簡単に開いた。
恐る恐る覗くように中を窺うと、寝台の上に蹲る人影が見えた。ぬいぐるみを抱えたまま、身を小さくしている。独りきりで恐怖と戦っているのだろうと、その姿で想像がついた。大きな物音や声が苦手なレレムンにとって、雷は相当に恐れるものであるからだ。
自然と、シェットは歩み寄っていた。寝台の傍まで来ると、足音に気付いたレレムンが顔を上げた。不安げな表情の中に、疑問が浮かび上がっている。何でここにいるの? と、思っているのだろうか。シェットは寝台の上に飛び乗ると、レレムンの隣に腰を降ろした。
その瞬間、稲妻とともに雷鳴が響く。脳天から突き刺すような鋭く激しい音が身体中に伝わり、思わずびくっと身を竦めてしまう。
音が消えてから隣を横目見ると、レレムンが震えているのが分かった。悲鳴こそ上げなかったが、恐怖値はかなり上昇しているはずだ。ぬいぐるみに埋める顔は、いまにも泣き出しそうな表情をしていた。
どうしたら、不安を軽くしてあげられるんだろう。どうしたら、安心してくれるんだろう。
そう思ったら、居ても立っても居られなかった。シェットは自分でも気付かぬ内に、行動を起こしていた。
久しぶりであったことと、リゼルヴァーンが近くに居ない為に、変化を長時間保つことは出来ない。それでも、シェットが人型に変身したのはひとえにレレムンの為であった。同じ人型であれば、少しは安心することが出来るかもしれないと、それだけの理由で変化した。
人に変身してしまえば何も身に付けていない状態、即ち全裸になってしまう為、即座にシーツを剥ぎ取り身体に巻きつけた。狼の姿である時は何も咎められないのに、人型に変身した途端服を着ろと注意されることにいささか反抗心はあったが、ここはレレムンの手前大人しく裸のままは避けることにした。何となく、その状態のままは恥ずかしいと思った。
長くなった手足の感覚を久々に感じた。図体がでかくなると途端邪魔になり、胡坐をかいてその上に肘をつく。人型になっても流石に屋敷の男共の中では一番小さいが、それでもレレムンの寝台の上に二人座るとなると窮屈に感じた。
少し失敗したかなとも思ったが、変化してしまったものは仕方が無い。視線を感じて隣を見ると、レレムンが目を瞠っていた。
久方ぶりの姿を凝視されるのは気恥ずかしい。堪らず目を逸らしてから、シェットは肘をついていない右手を差し出した。
何故そんなことをしたのか、シェット自身も分からなかった。ただ、少しでも不安を取り除いてあげたいという、その気持ちに嘘はない。それ故の行動がこれであったが、別の方法はなかったものかと今更後悔しても後の祭りである。
視線を下げて、物言わず差し出す手を見つめる気配がする。それから、またこちらに視線を向けているのだと分かった。
やっぱり光線を放っているのかもしれない。視線というものは、こんなに熱いものだっただろうか。顔が火照るのは光線を放つ眼差しの所為だと、シェットは自分の中で解釈した。
差し出しているにも関わらず、レレムンは相変わらず手を凝視したままで何の反応も示さなかった。それが何だか悲しくて、悔しい。
「ねえ、何の為にここまでしたと思ってるの? 握ってくれなきゃ、意味無いでしょ」
もっとまともなことは言えないのかと、呟く言葉に心中で突っ込みを入れたがもう遅い。自分でも制御出来ない眉根の皺は、一層深くなっているに違いなかった。
「……いいの?」
程なくして、ぽつりと尋ねる声がした。見るとレレムンは眉を八の字にして、躊躇いがちにおずおずと口を開いている。
「いいに決まってるでしょ。だから、早くしてよね。いつまでもこの状態のままは辛いんだからさ」
もどかしい気持ちが早口に表れていた。口を衝いて出る言葉を抑えることが出来ない。
レレムンはそれでもしばらく躊躇っていたが、ようやく意を決したのかそっと手を重ねた。ふわりと舞う羽根の様な、優しい感触が伝わる。自分より小さく細い指が、降る雨のように冷たい。その感触に、自分とは異なる存在なのだということを改めて実感させられる。
――彼女は、女の子であると。
不意に、心臓がありえないくらいに早鐘を打ちだした。意識してしまったら、もう駄目だった。激しく鼓動する心臓に驚き、咄嗟に手を離してしまいそうになったが、何とか堪えると重ねるレレムンの手を握った。すると、レレムンもゆっくりと握り返した。
手を握ってるだけなのに、何でこんなに緊張するんだ? 何でこんなにどきどきするんだ?
正面を向くことしか出来ず、シェットは石のように固まってしまった。こんな状態になってしまった自分が理解出来ず困惑したが、繋ぐ掌から伝わる温もりに安堵を得てもいた。このまま離さず、ずっと握っていたいと思わせるような安心感が、シェットを包み込む。
「ありがとう……シェット」
小さな声であったが、嬉しそうなその声音に、そろりと隣を見やる。声と同じく嬉しそうに微笑むレレムンの表情は輝いていて、それは初めて見るものであった。
こんな風に笑うのかと思った次には、案外可愛いかもしれないと考えている自分にシェットはまた驚いた。だがこの心地良さの前では、そんな自分も悪くないと思い至る。緊張するのも、安堵するのも、可愛いと思うのも、全ては真実であるのだから、覆すことも、弁解する必要もない。これ程快いと思える気持ちは、そうそう無いであろうから。
シェットはもう一度手を握り締めると、「別に」と素っ気無く答えた。
◇ ◇ ◇
雨と雷の所為で帰宅が遅れたガルフとルルムンは、次の日の朝にようやく屋敷に帰り着いたらしい。
いくら声を上げて呼んでも姿を現さないシェットとレレムンが、寝台の上で寄り添って眠っているのを発見されたのは、間もなくのことであった。
狼の姿に戻っていたシェットを抱きしめながら眠るレレムンの表情が、この上なく幸せそうであったということは、後から知った事実である。




