勇者、草を食べる
…………。
無。
ただ、無だ。
ここには金も金銀財宝も豪華な食事も豪邸も城もやかましい剣も、非常食も何もない。
まだだ、まだ、俺にはやり残したことが……。
眠気に懸命に抗い、ゆっくりとまぶたを開けると……視界いっぱいに神々しい光が満ちていた。
勇者は悟る。
「そうか、俺……とうとう死んだのか。なんかゲームオーバー的な文字も出てたしな。くそ、勇者なのに勇者専属ナビゲーターに殺されるとかありえないだろ!?」
勇者は憤りながら、周囲を改めて見回す。
あたり一面、彩り豊かな花畑。少し歩いたところには小川のようなものも見える。
さながら大貴族の所有する花園といったところだった。勇者はそんなところには近づいたことさえなかったが。
ぽかぽかとした光が花畑全体に降り注いでおり、とてもほのぼのとした光景のように見える。
空を仰ぐと太陽はなく、ただ神々しい光が天から柔らかく地上に注いでいた。白い光だというのに目が痛くならないのは、それが特殊な光だからだろう。
数秒目を閉じ、再び目を見開くと、勇者の目にはやはり、ほのぼのとした平和な風景が映る。フローラルな花の香りが勇者の鼻をくすぐった。
「……なんだ、ここ?」
疑わしそうな、物乞いの目で勇者はキョロキョロと不信感を全身で表現しながら何度も見回す。
しかし、頬をつねっても、昼寝しても、二度寝しても、うたた寝しても、居眠りしても、小川の水を飲んでも風景は一切変わらなかった。なぜか体に力がみなぎってきただけである。
勇者は首をかしげ、懐から懐かしの勇者のためのガイドブック『ゆうしゃになるには』を取り出し、それっぽい項目がないかとパラパラめくっていく。
「三途の川……じゃないだろうし、天国……でもないかもしれないよなぁ、空がキラキラしすぎだし……お、これか?」
勇者が開いたページ、そのタイトルにはこう書かれていた。
――“魔界”。
みるみる勇者の表情が引きつり、にらめっこのようで何かが違う不気味な表情になっていく。口の端がぷるぷると痙攣していた。
そのような状態で三十分が経過し、思い出して深呼吸を数回繰り返すと、生温かい笑みを浮かべ、再び『ゆうしゃになるには』の本のページに目を落とす。
次は概要を読んだ。
『あらゆる勇者が己の全てをぶつけるラスボス、魔王が支配する世界。神々しい魔王城には魔王がいるので、頑張ってボコってください』
フッ、と小さく笑い、やれやれとお手上げとでも言いたげに手で空気を持ち上げる動作をして首をゆっくりと振った。
全く仕方ないな、レベル1だっていうのにもうラスボスかよ。『GAMEOVER』の文字は、王道を通り過ぎて一気に魔王に挑むという燃える展開の予兆だったという――
「んなわけあるかーーーッ! あのうるさい剣も幸運の非常食もいないのに、レベル1でどうやって魔王に勝てって言うんだ!? ただ俺は最高級の屋敷で金銀財宝のベッドの上で最高級の食事を毎日食べたかっただけなのに、こんな死亡フラグ満載の冒険なんかクリアできるわけないだろうが!」
勇者は嘆き、憤り、ありったけの欲望と不満を天に吠える。
すると八つ当たりとばかりに足元の草花をむしり取って食べ始め、暗い憎悪の込もった目で天を睨み、憎しみに満ちた言葉を花を飲み込んでは吐き始める。
「呪ってやる、俺は飢えにも耐えてやっと勇者になれたっていうのに、金銀財宝どころか、魔界にレベル1で飛ばしやがって……! 俺をこんな風にした村長やユキやその他諸々を呪って死んでやるからなッ……!」
「ほう、それだけの単純な欲望と意味のわからない憎しみを抱く者がこの地に足を踏み入れるとは……。やはり貴様のような者も光剣ティルファングを手にする資質の所有者――覇権の候補者というわけか」
「……ん?」
突如背後で響いた、背筋がぞわぞわとする気色の悪い声に、勇者は素早く振り返る。
そこには寒気がするほどの美貌を持つ長身の男が、切れ長の瞳を細めて、凍りつくような微笑を浮かべていた。
あ、こいつと関わったらめんどくさそうだ。
勇者は直感する。同時に、先程の言葉についても、引っかかる単語があった。
『派遣』。
勇者は、これは新手の悪徳派遣斡旋業者による派遣の勧誘だと気がついた。
冷や汗が頬を伝っていく。
現在の職業は勇者。
しかし、派遣になったが最後……死ぬまで低賃金の、金銀財宝とは無縁なコツコツと働いて死ぬ生活だけが待っている。
そのまま畳で老衰して孤独に往生する自身を想像し、勇者は断固決意した。
俺は、何があっても絶対に死ぬまで“勇者”であり続ける。と。
「俺はそんなものになるつもりはないッ! ただ勇者として、金持ちになりたいだけだ!」
「なんだと……? 候補者から降りるというのか、貴様は」
くっ、なんて自己中心的な悪徳派遣斡旋業者だ。
だが俺は望んだ職に就いた勝ち組。
これだけは言わせてもらうぞ、と腹に力を入れ、勝ち組を代表して勇者は宣言した。
「職は自分で選ぶものだ! 誰かに用意された道をホイホイ行くつもりない。この栄光を約束された勇者様に指図しようなんてな、悪徳派遣斡旋業者には一億光年早いんだよ!」
ビシッ、と勇者はドヤ顔を決める。
すると、何言ってるんだコイツ……と言いたげな気まずい沈黙が二人を包んだ。
だんだんと勇者が指を差す姿勢に疲れ始めた頃、ようやく男は「フッ……」と微笑を浮かべ、銀の前髪を払うという反応を見せる。
「ふむ、なるほど。ティルファングがお前を選ぶわけだ。一億光年……。…………それで、覇権の候補者としての権利を放棄して、お前はなんとする? また使い古しの勇者の真似事でもするのか」
長い沈黙と色々な意味で嘲っているような笑みに苛立ったが、しかし勇者は華麗に流し、見るからに腹立たしいドヤ顔を返した。
「はっ! 勇者と派遣じゃあ、手に入る金と権力が違うんだよ! 金と権力が! 使い古しだかなんだか知らないけどな、俺は【はじまりの村】に戻って、村長から金銀財宝を手に入れて超豪華な屋敷で金銀財宝の風呂に入って最高級の料理を食ってそれから」
「――もういい。貴様が募金を募るべき貧しい出自だということはよく分かった」
呆れたように言い捨てると、銀髪の男はどこか疲れた様子で踵を返し、勇者とは反対の方角へと歩き始める。
勇者は嫌味な笑みを浮かべて拳を振り上げた。
「やーい! 悪徳派遣斡旋業者に勇者が引っかかるわけないだろうが!おとといきやがれー、すっとこどっこーい、負け組ー、ばかー」
勇者が思いつく限りの悪口を口にしていると、やがて男はうんざりしたとばかりに霧のように霧散して、唐突に消えてしまった。魔法なのかもしれないが、MPがいまだ0の勇者の知るところではない。
やがて、勇者は飽きたのか振り上げた拳を下ろすと、改めて自分の危機的状況を理解する羽目になった。
――これ、どうやって帰ればいいんだ……?
勢いで銀髪の男を追い返してしまったが、帰り道を訊けば良かったと改めて後悔する。
ゲームオーバーの文字も気にはなったが、とにかく金銀財宝を手に入れたい貧乏勇者は魔王城を眺め、花畑を眺め、小川のそばで幸せそうに寝転がっている白猫を見、がっくりと肩を落とした。
「くっ……1レベルで、剣も盾も鎧も靴下も手に入れていない俺は一体どうしたら……」
勇者は悩んだ。
辺り一面は花畑。
ちょうちょが舞い、白猫がパシパシとそれを叩き、空からは神々しい光が相も変わらずきらきらと降り注いでいる。
そして、勇者の正面にそびえ立つ神々しい純白の魔王城。
見た者に思わず地に膝をつかせ、「ははぁー」と頭を下げさせるだけの大きさと豪華さ、何より王者が上から見下ろすような圧倒的な威圧感が、明らかにただの城ではないと勇者の貧弱な理性が警鐘を鳴らしていた。
草をもさもさと食みながら、レベル1の勇者は花の上に寝転がる。
やがて勇者は温かな陽気と睡魔により、心地良い眠りへと沈んでゆくのだった。