8 丘野誠大佐-2
生まれつき弱い身体が、嫌いで仕方なかった。
まるでその場所だけが居場所のような、真っ白な部屋。私の部屋。余り通ったことの無い学校の宿題。先生が、3日に一度だけ送り届けてくれた。
市立病院の一角、私の部屋。お父さんとお母さんが、夜だけは毎日居てくれる。きっと、凄く忙しいのに。
私の部屋。私だけの病室、二人部屋。
その日、ちょっとだけ騒がしくて眼が覚めた。多分お昼、いつもは見える窓越しの空が見えない。仕切りのカーテンが閉じられていた。
「もう、落ち着いたか?」
「うん、ごめんね」
「謝らないで良いから、早く治してくれ」
カーテンの向こうから声がする。きっと、お隣さんが出来たんだ。
初めてだった。おそるおそる、カーテンへ身を寄せてみる。覗き込めば、大きな背中がそこにあった。
「あ」
少しだけ驚いて零してしまった声を合図に、女の子がこちらを向いた。多分、同い年ぐらいの子。
少し悲しそうだった顔が、笑みへと変わっていく。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
「お兄ちゃん、良かった、女の子」
お隣さんの視線が大きな背中へと向く。振り返って笑みを浮かべたこの人は、お兄ちゃんらしい。
少しだけ怖くなって、うつむいてしまう。
「あやね、挨拶をしなさい」
「うん、丘野あやねです、よろしくね」
「よ、吉野、愛美です」
巧く自己紹介も出来ない自分が、嫌いで仕方なかった。
「愛美ちゃん、にんじん食べられるの?」
「うん、おいしいよ」
お昼ごはんの煮物に、お隣さんが苦しんでいる。
お隣さん―――あやねちゃんと暮らし始めて2週間くらい。お互い初めての友達同士、すぐに仲良くなれた。
彼女もずっと、学校へ行っていないらしい。
「いやだなあ、食べないとお兄ちゃんに怒られる」
「食べてあげようか?」
尋ねれば、大きく首を振られた。
「だめ、ご飯はちゃんと食べなさいって言われたもん」
「でも、誠さん、もうすぐ来ちゃうよ?」
誠さん。丘野誠さんは、あやねちゃんのお兄さん。いつもお昼過ぎに、30分だけお見舞いにやってくる。
多分、中学生か高校生くらい。あれくらいの歳の人とお話をしたことがなくて、まだ怖い。顔は、覚えられていない。
むー、と、愛美ちゃんが唸る。
「えいっ」
ぱくり。唐突ににんじんを口に含んだ彼女の顔が、みるみる泣きそうになっていく。
「だ、だいじょうぶ?」
「んー」
大丈夫じゃなさそうで、お水を手渡してあげる。こくこくと、刻み良い音。
お見舞いにやってきた誠さんに良い子だと撫でられる彼女が、少しだけうらやましかった。
あやねちゃんには、お父さんもお母さんも居ないらしい。彼女と一緒に居て一ヶ月。今日も良い天気、朝10時。
「ね、寂しくないの?」
「お兄ちゃんと愛美ちゃんが居るから、全然寂しくないよ?」
首を傾げる彼女は、嘘を言っているようには見えなかった。寂しくない理由に私が在ることに、嬉しくなる。
「今日ね、わたし誕生日なの」
「そうなの、おめでとう!」
なんだ、早く言ってくれれば何か作ってあげられたのに。私のテーブルに、フェルト布と糸と針。
お裁縫だけは、この部屋で巧くなれた。言えば、彼女が顔を綻ばせる。
「じゃあね、飛行機、作ってほしい」
「飛行機?」
「うん、お兄ちゃんの飛行機」
そう言って、テーブルから写真を取り出す。どんと、画面いっぱいに細長い飛行機が写っている。
「お兄ちゃん、パイロットなんだ」
「え、そうなの?」
パイロットって、大人の人がなるものだと思っていた。嘘を言っているようにも見えず、彼女の顔も誇らしげ。
「今日ね、お兄ちゃんがプレゼントくれるって―――あれ、愛美ちゃん、今何時?」
プレゼント?気になりつつも10時だよと応えれば、しまった、とあやねちゃんが慌てだす。
「どうしたの?」
「ううん、10時くらいに窓の外を見てろって、お兄ちゃんが―――よいしょ」
彼女が窓を開け放てば、大きな音が部屋の中に潜り込んでくる。病院は、基地に近かった。たくさんの飛行機がそこにある。
「凄い音だね!」
「うん!」
あやねちゃんが窓から身を乗り出し、私もそれを真似てみる。こんな風に空を見たのは、久しぶりだった。
「広いね、そら!」
「うん、良い天気!」
多分同じことを考えていたんだろう。小さな声じゃ聞き取れないから、がんばって大きな声を絞りだす。新鮮だった。
大きな音が、だんだん近付いてくる。
「あれかな!」
―――え、何が?
そんな質問をする暇も無かった。甲高い音が部屋の中に響いた瞬間、手の届きそうなところに飛行機が居た。
多分あやねちゃんは、お兄ちゃんと叫んだのだろう。肩越しに手を振っているようにも感じるが、そちらを見ることなんて出来なかった。
雲を引いて、横向きに一回転。そのまま空の上まで凄い勢いで昇っていく。たった数秒のこと。たったそれだけなのに、心臓がばくばく言っている。
その日の誠さんのお見舞いのことは覚えている。怒られたよと笑う彼の右の頬が、ぶたれたみたいに腫れていた。
「わあ、ありがとう!」
「良かったな、あやね」
誕生日から5日遅れでのプレゼント。
飛行機のワッペンを、あやねちゃんが大事そうに胸に当ててくれる。
「ずっと大事にするよ!」
「あやね、少し落ち着きなさい―――ありがとう、愛美ちゃん」
ううん、と首を振る。少しだけ誇らしかった、初めてのプレゼント。
でも、もうひとつ。
「あ、あとね、これ、誠さんに」
差し出したそれは、おんなじワッペン。飛行機のそれを、彼に手渡す。
「え、俺にもくれるの?」
頷く。
「あやねちゃんへのプレゼント、一緒に貰ったから、そのお礼です」
あの広い空の中で、自由に飛び回る飛行機。とっても格好良かった。
あの飛行機を動かしているのが知っている人だと思うと、凄く嬉しかった。
「そうか、ありがとう」
大事にするよ。よくよく見ればへたくそなワッペンを、大事そうに見つめてくれる。少し、恥ずかしくなる。
「お兄ちゃん、やったね、おそろいだよ」
「ああ、嬉しいな」
その次の日から、誠さんの上着の胸元に、あのワッペンが縫い付けられていた。
「ありがとうね」
その日は珍しく、誠さんが朝早くにやってきた。何がだろうと、首を傾げる。あやねちゃんは、今注射を打っていて部屋に居ない。
「あやねと仲良くしてくれて、ありがとう」
ぶんぶんと首を振る。そんなの、私こそ。
「こっちに来てから、あの子は毎日楽しそうだから」
「わ、わたしも、楽しい」
あやねちゃんが来てくれたから、この部屋が好きになれたのだ。だから私こそ、ありがとうを言うべきなのに。
「は、初めての友達、だから、もっと、仲良くしたいです」
「そっか」
不意に、彼の手が私の頭に伸びる。
「なら、二人が仲良しで居られるように、俺も頑張るよ」
撫でられている。気付くと少し恥ずかしくなった。まだ覚えられていない彼の表情は、きっと笑っている。
優しいお兄さんで、うらやましいな。
彼の胸元に、飛行機のワッペン。
「ま、誠さんは、どうして、パイロットになったの?」
突然の質問に、頭を撫でてくれる手が止まってしまう。少しだけ眼を上に向けて、やっぱりやめた。怖くは無いけれど、ちょっと恥ずかしい。
少しだけ静かになって、遠くから基地の音が聞こえてくる。
「―――あやねを守りたかったから」
その声も、とても静かだった。まだまだ駆け出しだけれどね。そう言う彼の表情は伺えないけれど、これもきっと、笑っている。
でもね、と続く。
「今は、愛美ちゃんのことも守ってあげたい」
「わたし?」
そうだよ、と、彼の手が動く。今度はぽんぽんと、軽く。
「あやねを幸せにしてくれた愛美ちゃんは、俺の恩人なんだから」
そんな大層なことをした覚えは無かった。だからね、そう聞こえる。彼を見上げる。
「俺は、二人のために飛ぶよ」
ああ、どうして私は、この人の顔を覚えていないのだろう。
眼を覚ませば、もう朝の6時半。頭に手を載せて、感触を確かめる。
誰も居ない、私の部屋。
懐かしい夢を、少し眼を閉じて噛み締める。
あの後すぐに、お父さんの転勤で病院を変えることになった。ふたりで大泣きして、お父さんとお母さんを困らせてしまった。
また会おうねの約束は、まだ果たせていない。今、どこに居るんだろう。
―――丘野誠、大佐。
誠さんがパイロットだったのだから、私もパイロットを目指せばいつか、二人に会える。そんな安直な理由だけで、ここまで来られた。きっと私には、あの兄妹しか無かったんだ。
初めて"大佐"を知ったのは、まだ彼が大尉の頃だった。極東空軍の新鋭。
彼が本当に誠さんなのか、判らないけれど。それでも目指そうとしたのは、あの兄妹しかなかったから。
あの二人のおかげで、今の私が居る。たくさん話したいことがある。またあの頃みたいに、話せるだろうか。
顔も覚えていない誠さんは、私のことを判ってくれるだろうか。
眼を開ければ、わたしの部屋。誰も居ない、私の部屋。深呼吸。気持ちを切り替える。
立ち上がって、三等空士の制服に手を伸ばした。
時間が掛かりすぎました・・・良くないです、投稿ペース、上げていきます・・・!