第七章
第七章
ふと――、思い立って修一は顔をあげた。
……そうだ。
そうだ、床だ。
どうして、いまのいまになるまで忘れていたのだ。
祖母の説教から逃れる時。鍵のかかった蔵に、どうやって忍び込めたというのだ。
縁の下である。床板を持ち上げて、中に入ったのではなかったか。
それならば、床板を剥げば外に出られるはずだ。
暗闇に這いつくばった。舞いあがった埃に閉口しつつ、指先の感覚を研ぎ澄ませる。
たしか継ぎ目の角が取れて、指がかけやすくなっていたはずだった。
……
…………
………………
しだいに焦りだす。
どうしてだ。
ちっとも見つからない。
そんなはずはない。
確かこのあたりに……
ようやくその感触を、指先が取り戻した。
あった、これだ!
ほとんど反射的に爪を立てて引き上げる。
途端、中指の爪が鋭く痛んだ。
安堵も束の間、愕然となる。
釘が打たれているのだ。
床板はびくともしなかった。
どこまで意地が悪いのだろう。証拠はないが、祖母の仕業だと確信した。こっそり修一が忍び込んでいたのを知っていたに違いない。
けれどもそんな怒りも、疲労の前ではため息に変わるだけだった。
(少し休もう……)
再び机に腰を下ろす。精神の磨耗は肉体的な消耗よりはるかに重い。
すべてはこの暗闇のせい。視界が利かないせいで、敏感になっているだけ。気が昂ぶっているだけなのだ。落ち着いて、冷静になれば、きっと良い考えも浮かんでくるだろう。
大丈夫、と自分に言い聞かせる。もうじき誰かが気づいてくれる。鍵など壊してもらえばよい。だからそれまでの間、妄想と戦う。敵は自分のなかにある。
疑心暗鬼の闇の中。
目に見えない恐怖だった。
息を吸う。
深く、長く、吐く。
もう一度。吸う。
そして、何度目かの確認。
何度も否定してきたが、そのたびに矛盾して、やはり最後には認めざるを得ない結論――
ここに、誰かが閉じ込められていた。
それはきっと祖父の妹である。彼女はなんらかの理由で、家系図からも消された。
いや。消されたからこそ、ここに隠匿されていたという可能性もある。
そして、とっくにこの世にいない。
それは祖父が万華鏡を懐かしんでいたことや、この蔵がおそらく当時のままで残されているだろうことなどからの推測だった。証拠はないが確信はあった。閉鎖的な思考が導いた妄想であっても、疑うことをしなかった。
なによりも、修一自身が知っているはずだった。
(――おにいさま)
あれは死者の呼び声ではなかったのか。
自分は祖父に似ているのだろうか。血縁だから、そういうこともあるだろう。
だから呼ばれた。他ならぬ未練に。
頬をかすめるように、光の帯が差し込んでいた。
ふと、つられるように天井を見あげる。
闇になにかが、ぼんやり浮かんでいるようだった。
なぜかは分からない。本能的に心が、これは見てはならないものだと叫ぶ。
真っ暗ななかに白く見えるものがあるというのは、本来おかしなことなのである。
人の目が色を捉えるのは、物体に反射した可視光線の波長を判断するからだと聞く。白は最も明るい色であるから、暗くなれば当然明度が落ちる。それでも白さを保てるとするならば、それは自ら発光しているか、物理の法則を無視した存在であろう。
だが修一には、どうしてもそれが気になった。
――人形である。
赤い着物を着た、どこか悲しそうな顔をした和人形。髪は乱れて、顔も薄汚れて見える。それがこちらに顔を向けているのだ。
修一はしばらくそれを眺めていて、ようやく思いついた。
なるほど。先程、鏡に映ったのはこれであったか。
疑心暗鬼とはよく言ったものだ。怖いと思うから怖いのだ。
そういえば以前、髪の伸びる人形について検証していた番組があった。昔は実際の人間の髪を使っていたという。切られたばかりの髪はまだ細胞が生きており、湿気などでわずかに成長するのだそうだ。そんなことから、女性の長く美しい髪などは高く売れたそうだ。
手品と同じで、オチを知ってしまえば案外たいしたことはないものだ。とはいえ、このような場所で見るには、いささか気味の良い物とは言えないが。
それは本来、天井の梁にもたれるように置いてあったのだろう。なにかの拍子に――修一があばれたせいで転んだのかもしれない。
おそらくこの人形も、祖父の蒐集品のひとつであったに違いない。
見覚えはなかったが、万華鏡も記憶になかったのだから、まだ蔵には修一の知らない品が眠っているのかもしれない。人形など少女趣味ととられかねないとばかりに、祖父が天井に隠したのだろうと想像した。
ここからでは見えないが、天井に板でも敷いた空間があるのかもしれない。なにかの隠し場所のような気がして、こんな状況にも関わらず修一は妙な興奮を覚えた。
主亡き後、ひっそり埃にまみれて置き去られている人形が、なんだか気の毒になった。踏み台になるような物はないかと見まわすが、手頃なのは背の低い文机ぐらいだ。それでは長い棒のような物で突いて落とすか、箪笥にでもよじ登って梁にしがみつくかだろう。
しかし、棒も見あたらないし、服を汚してまで取る価値があるかといえば考えるまでもない。気味の悪い人形などあきらめて、脱出する方法を考えるのが優先である。第一、天井に登れるくらいなら、忌々しい明かり窓の板を蹴り飛ばしている。光さえあれば――隅々まで見渡せれば、恐怖の正体が分かる。そんなもの、どこにも存在しないことが証明されるのだ。
ドン、と背中で物音がした。
なにかが……、
落ちてきた。
――人形だった。
悲しそうに天井から見おろしていた顔が、今度は恨めしそうに足もとから見あげている。
「おにいさま」
声は慕っているような、甘えたように媚びた響きだった。
「お待ち申し上げておりました」
声は言った。
「ずっと」
修一は己の脳髄に、まるで真綿が水を吸うがごとく、じわじわと鈍く昏い影が染み込んでくるのを感じた。それは背筋が凍るほど冷たいのに、肺も心臓も胃も焼けるほど熱く締めあげるのだ。そうしてその温度と湿度に、脳はしだいに感覚を失っていく。
(ああ、俺はとうとうこの暗闇に、頭がどうにかしてしまったのだ!)
切り離された感情の底で、修一はぼんやりそんなことを思っていた。すっかり腰が抜けてしまい、立ちあがることができない。
迫り来る闇と対峙しようとしても、それは否定からくる思い込みである。恐ろしくなどないと思い込ませるために、怖いものが存在しないことを自らに証明して見せようとした。
しかし、このほの暗い樟脳と埃の匂いのなかには、修一などには及びもつかぬ、得体の知れない存在が確かに棲んでいたのである。
修一は激しく首を振った。
それでも想像は妄想を掻きたて、過剰に分泌された脳内物質は修一の感覚、感情、意識、思考、神経を容赦なく麻痺させていく。
何度も深呼吸し、残り少ない勇気を奮い立たせると、修一はゆっくり――、人形を見た。
別段語りだすでもないし、動きだすでもない。
闇のなかに倒れている、ただそれだけの人形だ。
恐る恐る近づいて、そっと触れてみる。
人形の肌は、硬質のなまめかしさがあるばかり。ここでも動かない。しゃべらない。
そうして何事もないのを確認して、ようやく過度の妄想にすぎなかったことを認識する。修一はそっと息をついた。
そういえば今朝、こんな夢を見た気がする。
だから余計、そんなふうに感じたのだろう。人形はやはりただの古い人形である。
壁に立てかけるとそれは、危なげに寄りかかるようにしていた。
薄暗いせいで、微かに動いているようにも見えるのだったが、当然錯覚にすぎない。夜、布団に入って、天井の木目を見あげているのと同じだ。ただの錯覚。
閉塞の闇のなか、修一は何度目ともなるため息をついた。