第六章
第六章
目が慣れるまで、随分と時間がかかった。
腕を上げれば、まとわりつくように絡む湿った黒。
まだ万華鏡を持ったままだということに気がついた。
そういえば、祖父は一人で蔵に閉じこもり、これに思いを馳せていたという。
(……おかしい)
それはおかしい。万華鏡を覗いていた、と叔父は言っていた。
こんな暗い場所で?
一応、明かり窓はある。しかし、板が打ち付けられていて光が入ってこない。管理上の理由であろうが、少なくとも修一が子供の頃から開けられたことはない。
無理矢理にでも押し開けられないだろうか。そうすれば外に声が届くだろう。
けれどもそのためには、まず天井までよじ登る必要がある。
なにか役に立ちそうな物はなかったかと、ポケットをまさぐる。
指先が冷たい感触を探りあてた。
――一瞬にして、血の気が引いた。
しばらくその場を動くことができなかった。
取り出して見るまでもなく、手の中には小さな真鍮の温度があったのだ。
他ならぬ、この蔵の鍵である。南京錠は鍵がなくても錠は閉められるが、鍵がなければ開けられない。そして、この鍵はひとつしかない。
袋小路の絶望が、修一の身を包んだ。
吐きだす息は激しく、異様に熱い。心臓の音とともに叩きだされ、空気の温度と湿度まで上げているようだ。汗なのか涙なのか分からないものが、一滴頬を伝った。
その時。
ふっと、なんの前触れもなく、――甘い香りがした。
すっかり染みついてしまって、気がついたら忘れてしまいそうになる、嗅ぎ慣れた匂い。
それをともなって、なにかが目の前を横切った。
まるで修一の絶望に追い討ちをかけるかのように。修一の他、誰もいるはずもない闇に。
甘い樟脳の香りをまとったなにかが駆けたのだ。
自分でもみっともない声をあげた。
扉を叩きつける。
痛みなど構っていられなかった。
助けを求めた。
肩をぶつける。
拳を打ちつける。
蹴ったり、引っかいたり。
そして、修一は見てしまった。
部屋の隅に置かれた小さな鏡台。
鏡の中――
和服姿の少女が微笑んでいた。
とり殺されるというのは、はたしてどんなものであろう。
上の空で修一は思った。
死因は、原因不明の心臓麻痺ということにでもなるのだろうか。
不可解な死は、たいがい心臓麻痺と決まっている。撲殺や刺殺では信憑性に欠けるからに違いない。目に見えないものだからこそ、きっと目に見えない殺し方があるのだ。
自分がおかしくなりかけているのが分かった。
笑いだしたかった。
なるほど。極限状態では笑うしかないというのは、こういう状況をいうのか。
恐る恐る鏡台に目を戻す。
鏡は容赦なく闇の色を映していた。
まるで、修一の見間違いだったと言わんばかりである。だが先程の姿が現実のものであるならば、光のない場所であれほどはっきりと見えるはずがないのだ。
暗いのが怖い、というのはどうしてだろう。
見えないからだ。そこに、自分の知らないなにかがあるかもしれない。
得体の知れないものに対する、捉えどころのない不安。
けれども、見えないから怖いものの存在も分からない。正体の分からないものに怯え、正体が分からないがゆえに畏れる。さながら、恐怖をさぐりあうイタチごっこのようなものだ。
怖いものなら見たくない。
見てはならないものだ。
それゆえ、闇が隠す。
だからむしろ、その暗さに感謝すべきなのだ。
でも、知らなければならないと思った。
逃げ場がないのだ。
ならば――
恐怖を取り込む以外にない。
意を決して踏みだす。
知りたいが、見たくないという相反する気持ちで、はたして足取りも危うい。
これは暗さのせいなのだと、必死に自分を奮い立たせる。
――板間は暗かった。
手には万華鏡。
慎重に。闇を掻きわけ。掻いくぐり。
視線をめぐらせる。
暗いが、なにも変わらない。
暗いから、なにも分からない。
箪笥も鏡台も、屏風も振り子時計も、いまはただの家具としてじっと息を殺しているのが分かる。まるで修一がかくれんぼうの鬼で、気づかずに通りすぎてしまうのを、ひたすら胸躍らせながら待っているかのよう。
首の後ろがちりちりした。
闇の中では自然と感覚が鋭くなる。だが感覚を研ぎ澄ませると、神経が麻痺してしまう。麻痺すれば、正常な判断ができなくなる。判断ができなくなれば、闇にとり殺される。
見失ってはいけない。決して己を。
見逃してはいけない。闇の先を。
目を凝らせ。心を強く持て。
足を擦りながら、修一は奥を目指す。
突然、白く細い光が闇を裂いた。
とっさのことに修一は、腰を抜かしてしまった。もう情けないという意識さえなかった。
なんということはない。壁の穴から光が洩れただけである。差し込むのは、まぎれもなく昼間の日差しだった。そのまぶしさに求めていた安心感すら抱く。
――それは、暗闇が育てた慄然とした妄想。
修一はそこに至った己の思考に、一瞬呼吸を忘れた。
なぜ。
なぜ、いままで暗かったのか。なぜ、いまになって明るくなったのか。
そのタイミングの良さといったらどうだ。まるで、誰かが穴を塞いでいたようではないか。
そう。さながら、修一が近づいたから逃げたような……そんな子供の悪戯めいた――
ありえない。
有り得ない!
落ち着け。
おちつけ!
怯えながら穴に顔を近づける。
まぶしくて目を当てられない。それでも外が見たかった。光の温もりを感じたかったのだ。
目があった。
誰かが修一を覗いていた。
壁を隔てて内と外。小さな穴でお互いの眼球を見つめあっていた。
まばたきひとつせず。
じっと。
じっと――
耐え切れず修一は言った。
「お前は誰だ」
外の目は答えず、修一を嘲笑うかのようにゆがむと、すうっと視界から消えてしまった。
あわてて呼ぶが、返事はない。
なぜこんな目に遭わなければならないのだろう。理不尽さとやりきれなさに、もはや立ち向かう気力すら湧かず、いまはただ休みたい気持ちでいっぱいだった。
ずるずると倒れ込むように文机に腰を下ろすと、修一は膝に顔をうずめて、深くため息をついた。
理不尽といえば、祖母の説教もよくよく理不尽なものだった。口癖のように、「長男なんだから」と言われた。修一には兄弟がないのだから、長男なのは当たり前なのだが。長男だからしっかりしろ、と言う。長男でなければしっかりしなくても良いということだろうか。
小学生の頃、クラスメイトにいじめられて泣いていた時、担任の教師はこう言っていた。男なんだから泣くな、と。世のなか不公平だな、と子供ながらに思ったものである。
祖母にしても教師にしても、ただ一方的に我慢を押しつけるだけ。おかげで修一は、随分と自分の感情を表にだすのが苦手な人間になってしまった。
こうして薄暗い蔵の中で膝を抱えていると、そんな子供の頃を思い出す。
特に厳格な祖母の説教から逃れる時には、ほとぼりが冷めるまでよくここで過ごしたものだ。
ここにいれば、時間が止まる。忘れられる。こうしていればなにもかも――祖母の機嫌も、都合の悪いこともすべて、知らないうちに終わってくれているはずだったのだ。