第五章
第五章
昼食の後、万華鏡を戻すため蔵に向かった。
固い錆びた南京錠を開けて、重い扉を引く。光が土間に差し込んで、閉めきった板戸でさえぎられた。
改めて感じるのだが、変わった造りをしている。土間から板間に続く様子は、まるで住居の勝手口のようだ。
ここが祖父の秘密の場所というより、子供時代の部屋だったという可能性はないだろうか。
それならば、物置用の蔵と呼ぶには中途半端な広さのことや、骨董品をしまっておく意味あいにも納得がいく。土蔵の名の通り土の中にいるようなもので、夏は涼しくて冬は暖かく、それなりに過ごしやすい環境とも言えるだろう。
けれども跡継ぎであった祖父が、離れの蔵などに自室を持たされるであろうか。
蔵本来の機能は貯蔵である。防災や盗難対策で堅牢に築かれ、施錠管理される。当然施錠は外からされる。ところが住居であるならば、鍵は内側からかけるものだ。
途端に馬鹿馬鹿しくなった。
面白い考えだとは思ったが、明らかに不自然だ。残念ながら、好奇心を満たすほどの空想ではなかったようだ。
万華鏡を見つけたのは、 文机の上だった。
細かい彫刻の施された異国風のもので、ここで書物をひろげたら、さぞかし読書もはかどるだろう。だが、机の上に戻すのは気が引けた。なにかの拍子に転げ落ちたりはしないだろうか。そもそも片付けるのなら、戸棚か抽斗だろう。
それではさてどこにしまったものかと、板間の中央に腰を下ろし、ぐるりとあたりを見回した。
壁側に押し付けられた古道具類。戸棚に長持。整然と並べられた蒐集品……
やはり――
ここは蔵ではない。
修一は唐突に、強い考えにとり憑かれた。
戸棚に文机、時計に鏡台、箪笥と長持……それらはすべて、生活空間にあってもおかしくない物ばかりだ。
そして、この部屋はどうだ。まるで実際に利用した場合、使い勝手を意識した配置にさえ思える。
もちろんこれは、修一の勝手な思い込みだった。
けれども物置であるならば、特にこのような持ち主以外に価値のない物で、この整然さは不自然としか言いようがない。
たとえば、箪笥の中の衣類などはどうであろう。幼い頃の修一は知っていた。抽斗には着物や帯のほか、足袋や下着まで入っていたことを。
そうだ、忘れていた。女物のそれらは初心な少年に強い背徳感を抱かせ、それ以来触れないようにしていた物だった。足袋や下着などは消耗品だ。保管目的でしまっておくだろうか。
――ありえない想像が脳裏をかすめる。
ここに、女が住んでいたのではないか。
だが、蔵が住居に適さぬというのは、自分で導きだしたばかり。なによりも、外からでなければ鍵をかけられないのだから――
閉じ込められていたということか!
その途端、時計も鏡台も箪笥も、息を吹き返したかのように生活の匂いを吐き出しはじめた。
湿った黴臭さは眩暈を覚えるほど甘美に立ち込め、その強烈な芳香に立っていることすら危うくなる。それはさながら玉手箱を開けた浦島太郎のごとく、失った長い年月を一瞬にして取り戻し、ようやく己が時計であり鏡台であり箪笥であったことを思い出したかのような急激な変化であった。
修一は思わず身震いした。現代であるならば、監禁事件として騒がれるだろうか。そんな恐ろしいことが、実家で起こっていたというのか。
いや、いくらなんでも突飛すぎている。
妄想だ。それは脳内物質の活躍で興奮した程度の妄想。
父と叔父にもこの話をしよう。きっと笑い飛ばしてくれるだろう。
そうしたら、一緒になって笑おうと思った。声にだして笑うと健康に良いらしいから、こんな不健康な想像は一緒に消してしまおう。
もちろん古家具は妖怪変化さながらに姿を変えることなどなかったし、修一の嗅覚を侵した湿っぽく饐えた匂いは、ずっとしていた樟脳に他ならなかった。
しかし、もし……
もし本当に、ここで誰かが過ごしていたとしたら――、どうであろう?
思い当たったのは、先程の家系図。
ひとりだけ消されていた人物。
この家に生まれながらも、存在しない人物。
背筋を薄ら寒いものが流れ落ちる。
昨日、
誰かがここで、
修一を
呼んだ。
その声を、確かに聞いた。
自分の骨という骨が、細かく砕けるような脱力感に襲われた。そんなもの、本来聞こえるはずもない声である。ここには自分以外、誰もいなかったのだから。
それでは、あれは一体……
ありえない!
夢だ。
そうだ。そうに違いない。
都合の良いもの悪いもの、すべて夢にしてしまえる。人間はとても器用だ。
ここにいてはならないと、本能が激しく警鐘を鳴らす。
開け放たれた扉から、まぶしい明かりが入り込んでいる。
駆けだしたかったが、足が思うように動いてくれない。足首に見えないなにかが絡みついているようだった。
声をあげれば奮い立つかもしれなかったが、喉が渇いて張り付いて、振り絞ることもできない。
その時、突然の闇が修一を包んだ。
扉が閉まったのである。
まるで外に出るのを拒むかのように、鈍い音をたてて。
そして、重々しく鍵が落とされた。
あわてて飛びついた。
押してみる。
動かない。
遠慮がちに叩いてみる。
なんの冗談だ。
声をだしてみる。
返事はない。
叫んだ。
激しい鼓動に、押しつぶされそうだった。他ならぬ自分の心臓である。
落ち着け。落ち着くんだ。
熱いのか冷たいのか分からないものが、全身を駆けめぐる。
きっと開けっ放しだったので、誰かが気を利かせたに違いない。おそらくは母だ。まさか中に息子がいるとは知らず、かといって覗くことも躊躇われたのだろう。
言い訳だった。
分かっていた。
すぐに声を出したのだ。外にいて、気づかないはずがない。
怖がらせて喜んでいるのだろうか。
誰だ。
母ではない。父でも、叔父夫婦でもないだろう。親戚のほとんどは午前のうちに帰ってしまったので、家には両親と叔父夫婦しかいないはずだ。けれども修一の知る彼らは、そんな子供じみた悪戯を喜ぶような人間ではない。そう信じたい。
その途端、恐怖は吹き飛んで、激しい憤りが湧きあがった。
叩く。
今度は強く。
もっと強く。
全身を押しつける。
何度も。何度も。
やはり――、動かない。
声を荒げて叫んだ。
誰かも分からない外の人物への怒りと恨み言。吐きだすように吐き捨てる。
声は引きつり、しだいに謝罪と懇願、ついには哀願へ変わっていく。
それでも、なんの反応もない。扉は重く冷たく、まるで修一の努力を徒労と嘲笑うかのように、愚直までにその役目を遵守していた。
シンとした、耳の痛い静寂だけがあった。その耳の裏側で、血流の脈打つ激しい音が、どす黒い翳りのように脳髄を圧迫していた。
修一はずるずるとその場に崩れ落ちた。
疑心暗鬼になっているだけ。――自分に言い聞かせる。
そのうちに修一のいないことに気がついて、ばつの悪そうな顔で鍵を開けてくれるに違いない。きっと、なんでもない笑い話でおさまるはずだった。