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第四章


第四章




 すでに日は昇っていて、台所から味噌汁の旨そうな匂いがただよってくる。

 涼しい季節だというのに、肌着がじっとりまとわりついて不快だった。

 恐ろしい夢を見た気がする。けれども、どんな夢だったのか思い出すことができない。

 悲しい夢だった気もする。思い出さなければいけないような、もどかしい焦りがあった。

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 脳を全部掻きだして確認したくなる。ところがもがけばもがくほど、まるで底なし沼に溺れるかのように、つかまえそこなった記憶が埋もれていくのだ。そして二度と手が届かない。

 不意にかび臭い、蔵の匂いを嗅いだ気がした。

 枕許には万華鏡が置いてあった。



 朝食後、父に呼ばれ、祖母の寝室に向かった。

 そこにはすでに何人かの親戚の姿があって、腐肉に群がる動物のように祖母の着物をあさっていた。形見分けだという。お前もなにかもらってやってくれ、と父はつぶやいた。

 遺言によると、屋敷は父が相続することになったらしいが、それ以外は自由にして良いとのこと。

 ただし、祖父の遺品でもある蔵だけはそのままでおくようにと。なかには高価な品物もあるが、決して人手に渡すことなく、人目に触れることもないようにと。

 祖母の着物などもらったところで仕方がないので、修一は万華鏡を取り出して見せた。ひょっとしたら、誰かが知っているかもしれないと思ったからだ。もっとも蔵にあった物だから、こうして持ち出した時点で遺言に反するのだろうが。

 ところが所詮は玩具と言わんばかりに、案の定、誰の関心も引かないようだった。土産物屋で数百円で買えるような物より、何百万もする着物の方が大事なのだろう。

 あきらめて戻ろうとした時、叔父が面白い物を見つけたと興奮しながらやって来た。

 何事かと親戚たちが囲むなか、得意げに叔父が広げたのは、どうやら家系図のようだった。年月に焼けた紙には、気が遠くなるほど長い血筋の道程が記されている。感慨深い――壮観とも言える光景に、一同は感嘆の息をついた。


「すごいな、初めて見たよ。お袋、まめな人だったからなぁ」


 そこには修一の名前まで書かれていた。


「今でこそだけど、昔は由緒ある分限者だったんだぞ。ほら、この人が我が家のご先祖様。一代目当主というわけだ」


 父が紙の一番上を指す。その修一などには読めないような名前の人物から、この家の歴史は始まったのだ。そこから枝分かれし、出来損ないのあみだくじのように降りてきて、一番下に修一の名前がある。

 不思議な気分だった。何代も続く家系という流れのなかに、知らない間に自分が加えられている。もし自分が死んでしまっても、ずっと後の子孫が同じように系譜を広げ、そこに修一の存在を知るのだろうか。


「ほら、修一の名前。親父からとったんだ」


 それは祖父の名前。――修造。


「お前が生まれる少し前に死んだんだけど、どうしても孫にも自分の名前を継がせるんだって、口癖のように言ってたっけ」


 そういう父は修治である。しかし祖父の上の代には、名前の関連は見られない。

 名前というのは一生つきまとうものだ。生きている間だけではない。死んでもこうして名前が残る。生まれる前からそれが決められていたという事実に、行き場のない理不尽ささえ感じてしまう。叔父の名に関連が見れないあたりは、やはり長男に家督を継がせたがっていたということだろうか。名前だけで家庭の内部事情が読めてくるのは興味深くもある。

 この家だけなのか、それとも家系図というもの自体がそうなのか知らないが、そこには直系の者しか記されていないようだった。たとえば修一の母の名はなく、修治の下に修一が書かれているといった具合だ。それはさかのぼっても同様で、嫁や婿など他家から入った者の名はないようである。

 ふと、妙なことに気づいた。

 修造の並び、――いわゆる祖父の兄弟姉妹の名が列記されている場所である。どうしたわけか、一人だけ墨で消されているのだ。長い歴史のなかでもここだけだ。

 たずねてみると、父と叔父もいぶかしげに首をかしげた。


「生まれてすぐ死んだとか、そういうのじゃないか」


「でも知らないな。親父の兄弟だろ。何人か戦死したってのは聞いてるけど」


 死んでも名前は残る。死ぬたびに消していたのでは、系譜は墨だらけになってしまう。

 残すための記録で、それが歴史だからだ。

 それが塗りつぶされているというのは――

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 よく分からないが、胸が締めつけられるように痛んだ。


「あァ、思い出した!」


 突然大きな声をあげて、叔父が万華鏡を指さす。


「修ちゃん。それ、蔵で見つけたって言ってたよね? そう、それ。きっと親父んだわ。思い出したよ。親父、よく蔵に閉じこもって、そんなの覗いてたっけ」


 そうだったか、と父は首をかしげている。


「そうだよ、ほら。若かれし日の」


 含みをもたせて叔父がにやにや笑う。


「ああ。お袋の恋敵か!」


 父と叔父は得心がいったように、声をあげて笑いだした。

 興味津々に叔母がせっつくと、二人は困ったように顔を見あわせていたが、すぐに言い訳まじりに語りはじめた。

 祖父がよく一人で蔵に閉じこもっていたこと。そしてこの万華鏡を、時折切なそうになでていたことなどであった。その時の祖母は、あまり機嫌がよくなかったという。そんなことから父と叔父は、じつは好いた相手との思い出の品だったのではと推測したらしい。


「あの親父がだよ。そう考えると、人に歴史ありだよなぁ」


 あの、というあたりは生前の祖父を知らぬ修一には想像できなかったが、子供の頃の秘密の場所が、祖父にとっても秘密の場所であったというのは新鮮だった。


「そういうわけだから、そいつはお前の爺さんの形見だ。さすがにいまさらだから好きにしてもいいけど、できればお袋の気持ちってやつも酌んでやってくれ」


 父たちの言うことが本当ならば、たしかにみだりに持ち出すべきものではない。たとえ祖母にとって嫉妬の対象だったとしても、捨てられることなくしまっておかれた、祖父の遺品のひとつなのだから。

 ――仏教では、死んだ人の魂は四十九日この世に留まるという。死者があの世に旅立つまでの期間で、陰と陽の中間にいることから中陰と呼ばれる。

 修一は特定の宗教観は持ちあわせていないし、大層な死生観もない。けれども、霊魂の存在に懐疑的なわけではない。テレビで心霊番組を見れば怖いと感じるし、その後のシャワーではやたら背後が気になる。それは、本能的に目に見えない存在を認めていることに他ならないのではないか。とはいえ、無条件に肯定できるほど単純な問題でもない。

 目に見えないのなら、存在しないことと同じ。

 けれども、いると言う。

 その説明しがたく理解しがたい存在ゆえに、心霊だのオカルトだのは異端視される傾向にあるのではないだろうか。

 だからきっと、祖母はあとひと月以上この家にいるのだ。誰にも気づかれることなく。

 おそらく修一が万華鏡を持ち出したことを、快くは思っていないだろう。

 子供の頃よく叱られたように、いまも修一の脇で金切り声をあげている姿を想像してみる。

 ひょっとしたら、またしてもあの小さな身体には不釣合いな大きなこぶしを振り上げているのかもしれない。

 幼い時の感触を思い出して、修一は反射的に身を縮めた。

 もちろん、痛みなど襲ってくるはずもない。

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