第二章
第二章
修一はあまり祖母が好きではなかった。
自分にも他人にも厳しいひとで、ぼんやり屋の修一はいつも怒られてばかりいたように思う。何度かぶたれたこともあった。
いまだ古い仕来りだのしがらみだのを気にする家柄だったから、祖父が死んだ後で一番偉かったこともあって、誰もなにも言えなかったのだ。けれども、祖父は修一が生まれた時にはすでに亡くなっていたので、存命の頃の祖母がおとなしかったのかは知るよしもない。
数時間後、弱くなった雨音を聞きながら、修一はひとり客間で先程の万華鏡を弄んでいた。
葬儀の方は滞りなく終わり、大座敷では酒宴を始めている。一際大きな声は、体も大きな叔父だろうか。
こういう時でもなければ集まらないような連中が、こういう時でなくとも言えるような話題を肴にしている。死体を囲んで不謹慎だと思うのだが、騒ぐことも供養なのだという。悲しみで故人を引き止めてはならないのだそうだ。
八十を過ぎれば、死はおいそれと惜しまれるものでもないし、かねてより体調を崩していた祖母の死は、必然の知るところであった。聞けば若い頃に大きな病気をして、一度危ぶまれたこともあったという。それを思えば、長生きしたと称えられるべきであろう。
修一も酒を飲める歳になっていたし、長男であることも含め、本来ならばそういった席には進んで参加しなければならない。とはいえ、名前どころか顔すらまともに知らない親戚たちに、「あんたがあの修ちゃんかね」「大きくなったもんだ」などと言われたところで、曖昧にうなずき返すのが関の山だ。
なによりも、そういった連中からする、酒気を帯びた体臭というか気配が、どうにも好きになれなかったのである。
それに、自分の立場ときたらどうだ。
無職の無学。情けなくも大学浪人など、気位が高く、なによりも格調を重んじたがった祖母の面汚しではないか。不様で、とても人前に顔など出せたものではない。
そうやって、祖母のいない祖母の住んでいた家に帰ってきて、ひとり亡くなった祖母のことを考える。これもひとつの供養に違いないと言い聞かせる。
修一にとって祖母は、ただただ恐れの対象でしかなかった。大津に引っ越してからも、ここ数年は屋敷に戻ることを避けていた。おかげで修一にとって、主だった祖母の記憶は七年前で止まっている。
いつもきっちりと着物の襟を正し、白檀のきつい匂い袋を忍ばせていた。髪などは白髪一本たりとも余さず黒く染めていたし、背筋を伸ばし、足早に縁側を横切る姿は矍鑠としていた。
祖母の静かな足音が怖かった。障子戸に映る小さな影が恐ろしかった。なにかの折に立ち止まり、戸を開けて入って来やしないか、そうして刺々しい小言が吐きだされやしないか、勢いが高じてぶたれやしないかと、いつもびくびくしていたのだ。
たしかに気品もあったのだろうが、やはりその気質からか、父や叔父もあまり得意ではなかったようだ。ならば孫である自分も、そんな印象をもったところで無理もなかろう。
指先になじんだ和紙の感触を楽しみながら、そんな現実から目を背ける。
胴に巻かれたそれは随分と褪せており、本来は桜色の地に菫色の格子柄であったと思われるが、手垢や年月による風化などで黒ずんでいる。底の縁は、なにかに擦りつけたようにざらついていた。
子供の頃は秘密基地とばかりに入り浸っていたのだが、この万華鏡には見覚えがなかった。無論、記憶などいい加減なものであるし、引っ越した後に祖母がしまったということも考えられる。その使い込まれ具合から察するに、相応の思い入れで利用されていたに違いない。
たずねようにも祖母はすでにこの世のひとでなく、かといって父や叔父の物であるとも思えなかった。その少女らしさに、どうしてか祖母自身の物であるとは思えなかったのだ。
何気なく覗き込んだ修一だったが、小さな世界でくり広げられる優美な色彩の変遷に、知らず知らずのうちに目を奪われていた。
映しだされる鏡像は無限通りの配列で、二度と同じ姿になることはないという。
仏教の曼荼羅のように見えたり、色とりどりの華やかな雪の結晶のようであったり、風雅であり、どこか物悲しく、時に楽しげで、また愛おしくすらあった。
切り取られた刹那の世界。小さな筒の中で、その一瞬にすべてを詰め込み、様々な表情を見せるさまは、まるで物語のない極上のシネマのようである。
やがてその世界が暗くなってきたことに気づいて顔をあげると、いつの間にか雨は止んでいて、戸外は夕闇に染まりはじめていた。
ちょうど腹も減ってきたので、立ち上がり電灯をつける。
母が台所に食べ物を取り分けてくれているはずだった。
冷えてきた。
食事をとって温かい風呂に入り、寝酒でもして早々に休むのがいいだろう。
大広間の笑い声は、相変わらず絶えない。