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第一章













「 お に い さ ま 」




















 と、呼ぶ声がした。








第一章



 先刻から降りだしたにわか雨のせいか、湿った土の匂いが漂ってくる。

 明かりもなく、かび臭い土蔵の中である。

 ただでさえ陰鬱な空気に、さすがに修一も、そろそろ遠慮したい気分になっていた。

 堀田の実家は、黒漆の塀に囲まれた古式然とした平屋敷で、春には中庭の樹齢八百年を超える古桜が見事な花をつけることから、『桜屋敷』とも呼ばれる旧家である。

 また、ちょうど今のような季節には、その高い塀を鉢に見立て、『盆栽屋敷』などと揶揄やゆされることもあったと聞く。現在ではすっかり零落おちぶれ、その名残さえ感じさせないが、かつては何人もの使用人を抱えるお屋敷だったそうだ。明治維新以前という趣きある建物には、修一などには計り知れない歴史もあったのだろう。

 その屋敷から外れた裏門の脇に、小さな白壁の土蔵があった。

 南京錠のかかった重々しい観音開きの扉の奥には、申し訳程度の土間と、薄い板戸に挟まれた六畳ばかりの板張りの部屋がある。

 いまは使われない蒲団ふとんや食器類、衣類を詰め込んだ長持ながもち箪笥たんすなど、古い調度品が保管されているだけの物置であったが、修一にとっては思い出深い場所だった。

 ほこりをかぶった振り子時計に鏡台、せた屏風びょうぶ、桐の箱にしまわれた舶来の青磁器といった、物言わぬ歴史の語り手たちの、そのたどってきたであろう年月や運命の重みに触れるたび、多感な小さな胸は熱くふるえた。

 異国風情漂うビロードの外套コートに、絢爛豪華な極彩色の反物たんもの、小さな獅子をかたどった金箔の香炉から薫るほのかで妖しげな残り香などは、薄闇に儚くも美しい楽園の幻を紡ぎだすのである。

 兄弟もなく、友達も少なかった修一は、罪悪感と背徳感にも勝る好奇心に時間が過ぎるのも忘れ、耽美な幻想世界に囚われていった。

 それらはすべて、祖父の生前の趣味で集められた品々であった。

 けれども祖母はそれを、あまり好ましくは思っていないようだった。扉に錠をかけると、誰も中に入れないようにしていたのである。

 祖母はすぐに声を荒げるひとで、修一はあまり好きではない。それよりも、むしろ遺影でしか知らぬが、幼心にも胸をときめかせる骨董趣味の祖父に惹かれるものがあった。

 しかし、修一が中学に上がると同時に、両親とともに大津の町に引っ越すことになったのである。

 広い屋敷には、祖母ひとりが残された。

 その祖母も今年の季節の変わり目に亡くなり、修一は七年ぶりに『桜屋敷』に帰ってきた。

 自慢の桜の木も、冬になろうという時節のため、大きく広く伸びた枝は、さながら巨大な生物の骨格のようであった。

 黒い雲の下、刀自とじの葬儀はしめやかに執り行われた。

 遺品の整理をしていた修一は、偶然に古びた真鍮しんちゅうの鍵を見つけたのである。

 秘密の場所は七年の歳月を経ても、記憶のままに閉ざされていた。

 口うるさい祖母の説教から逃れる時など、よくこっそり忍び込んでいたことを思い出す。そんな時はむしろ、出し抜いてやったという優越感の方が勝っていたのだが。

 妙にえたかび臭さは、懐古の感情を心地良くくすぐった。

 匂いというのは、記憶に作用しやすいのだという。するすると、まるでアタリ糸でも引くように嗅覚がよみがえり、視覚が思い出し、触覚が取り戻す。足裏のざらついた床板の感触は、記憶の中となんら変わらないのだ。ずっと置き去りにしていた幼い思い出を、長い年月閉じ込められたままの空気が、ほんのわずかな隙にも再現しようとしていた。

 初めのうちは懐かしさに任せて感慨に浸っていたのだが、子供の頃は気にもならなかった静寂と闇に、生物としての本能的な恐れが呼び起こされる。

 突然降りだした雨に、明かりひとつない室内がさらに暗くなった。


 ――そんな時である。







「 お に い さ ま 」     







 ――ふり返る。

 もちろん、なにもない。

 年若い娘の声のようだった。

 しかし、修一を兄と呼ぶような血縁者はない。だが、なにかの物音を聞き違えたというには、いささかはっきりしすぎており、むしろここにいる修一に向けられたとしか思えぬ、自然な呼びかけにとれた。それも屋外からでなく、確かに()()()()()()聞こえた気がしたのだ。

 けれども先刻から修一ひとりで、あとは物言わぬ骨董品があるばかりである。

 瓦屋根を叩きつける雨音が、一段と強くなった。

 どこかの地方では、葬儀の最中の雷は縁起が悪いと聞いたことがある。雷を連れて現れ、死者の魂を喰らうという妖怪の話だった。

 耳を澄ますが、激しい雨の音の以外なにも聞こえない。母屋の坊主の読経も、堅牢な蔵の中までは届かないようだった。

 やはり――、空耳であったろうか。

 不意に耳をつんざく轟音!

 驚いて修一は身を伏せた。天がばりばりと裂けるような音をたて、大地とともに激しく震えた。どうやら近くに雷が落ちたようだ。裏の山は高い木が多いので、それかも知れない。火事にでもならねばよいがと、恐る恐る身を起こす。

 よく「地震、雷、火事……」などというが、地震の時は地震が一番怖いし、火事の時は火事がこの世で一番恐ろしい。当事者にしてみれば、いままさに我が身をおびやかす存在がいつだって一番だ。

 それに……、と考えに至り、少しだけ笑った。自分の場合は「地震、雷、火事、」だ。

 埃を払って立ち上がる。そろそろ式に戻った方がいいだろう。葬儀の最中にも関わらず、こうして家の者が平気で抜け出しているというのもさすがにうまくない。

 もっとも修一にしてみれば、子供の頃に祖母から逃げるため隠れていたこの蔵を、この時になって思い出したのは自然だったのかもしれない。

 表では、すこぶる機嫌悪そうに唸っている空。また大きいのが来そうだ。

 そう思って踏みだすと、案の定再び割れんばかりの音が轟いて、同時に真っ白な光に包まれた。さすがに二度目は身をすくめるだけでやりすごしたが、修一は不思議な感覚にとらわれ、思わず足を止めていた。

 いままで気づかなかった。

 正面の壁に、小指の先ほどの穴が開いていた。そこから稲光が入り込んだのである。

 そして――、ちょうど差し込む光に照らされるように、壁際の文机ふづくえが目に止まった。

 そこに、見慣れない物が置かれていた。

 取り上げるとそれは、不思議としっとりと手になじんだ。毛羽立った和紙の感触から、随分と使い込まれた感じのする、古めかしい万華鏡であった。

 だがそれは、はたして先程までそこにあったであろうか。定かでない記憶が、ふとそんな疑念をとらえる。

 いよいよ雨脚は滝のように激しくなり、葬儀の方も気になりだした修一は、覚悟を決めて外に飛びだした。

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