善人すぎる男爵令息に恋した重すぎる聖女
夜会のざわめきの中、私はあの方を見つけるために、少しだけ耳に加護をかけて聴力を高めた。
「ベルナール卿はずいぶんと聖女様に目をかけていただいているようね」
「聖女様に気に入られているからと、勘違いなさらないようにね」
すぐにそんな声が耳に入ってきた。
ベルナール卿——ユリウス・ベルナール男爵令息に違いない。私の招待状を受けて、来てくださったのだ。
「聖女様はあなたのような低位の貴族でも『施し』をくださるほど寛大なだけなのですからね。捨て犬にそうするように」
「あなたのような男爵令息ごときが聖女様の近くにいると、王国の品位が疑われてしまうの」
「聖女様に近づかないでくださるかしら」
私はユリウス様を見つけた。三人の貴族令嬢に囲まれてしまっている。
私はユリウス様のところに近づいていく。
「何のお話かしら?」
そう声をかけると、私の姿を認めた令嬢たちがぎょっとした顔で私を見た。
「聖女エリシア様……」
私に気づいた周囲の貴族の方たちも姿勢を正す。
私はユリウス様の腕に手を回した。
「ユリウス様。お待たせして申し訳ございません。王太子殿下に捕まってしまっていたもので」
周囲がざわつく。
私がユリウス様と親しくするのが、そんなに奇妙なことなのだろうか。
ユリウス様の表情もこわばってしまっていた。
「それで、何をお話されていたのですか?」
「……ベルナール卿に少し助言をしていただけです」
令嬢のひとりが答えた。
「助言……ですか?」
「そうです。聖女様の寛大な慈悲でお優しくされて、身分もわきまえずに勘違いなさらないようにと」
「ユリウス様が何か勘違いされていると?」
「そ……その……」
「私はそうは思いませんけれど……」
その令嬢は言葉を詰まらせて黙り込んだ。
「行きましょう、ユリウス様」
私はユリウス様の腕を引いてその場を離れた。
「エリシア様……。僕なんかにお優しくされると、エリシア様にもご迷惑がかかってしまうかもしれません……」
ユリウス様がそんなことを言うので、私は立ち止まった。
「ユリウス様までそんなことを……。それともご迷惑なのですか……?」
「僕は何と言われてもよいのです。僕は、エリシア様が僕のせいで他の方々と諍いになってしまわないか心配なのです」
この方はそういう方だ。自分が侮辱されようと、そんなことより、私のことを考えてくださる。
「あの聖女様はだめね……。しょせん平民の出自なのですから」
耳に加護の力が残っており、貴族令嬢たちの声がまだ聞こえてきた。
「あんな下級貴族ばかりひいきするようでは、王国の秩序が乱れてしまうわ」
「どうにかできませんか、ヴィオラ様?」
「そうね……。このままで良いとは思いませんわ」
ヴィオラ……ヴィオラ・アルテンブルク公爵令嬢だったかしら。貴族の名前はほとんど知らないけれど、社交界の有名人の名前はよく耳にして覚えている。彼女はその一人だ。
私をどうにかしたいのなら、すればいい。聖女という地位にも何の興味もない。そもそも、私の聖属性魔力が少し高いからと、勝手に王国が私を祭り上げているだけなのだから。
むしろ、私のほうがあなたたちとは早々に決別したいくらいだ。私には、ユリウス様以外の貴族の存在意義を見出すことができない。
そして、何よりユリウス様を侮辱したことは忘れない。
「ここに、私、王太子レオンハルトと聖女エリシアの婚約を発表させていただきます」
突然聞こえたその声に、私は驚いた。声のした壇上を見ると、レオンハルト殿下がそこに立っていた。
会場には大きな歓声が上がり、拍手が鳴り響いた。
私と王太子殿下が婚約……? そんなの聞いていないわ。
貴族だけではない。私は王家の方にも何の価値も見出すことはなかった。
「レオンハルト殿下が取られてしまったわ。聖女様なんて許せない」
そんな令嬢の声まで聞こえてきた。だから、私は知らないのことなのに。
そもそも、王太子殿下であろうと、私は婚約などしたくはない。私がお側にいたいのは、ただひとりだ。
私が隣のユリウス様を見ると、いつもの優しい笑顔を浮かべていた。
「王太子殿下と婚約なんてすごいですね。おめでとうございます」
そのユリウス様の言葉は、私にとって何よりも残酷なものだった。
耳に残っていた加護を、今すぐ消し去りたかった。
※
夜会から私は逃げ出してしまった。
レオンハルト殿下との婚約を、ユリウス様に祝福されたことにひどく落ち込み、加護の維持のお務めのとき以外は、私は大聖堂内の自室に閉じこもっていた。体調が優れないと言って、一切外出もせず、来客もお断りしていた。
けれど夜会から数日後、ある方がいらしたと聞いて、私は自室を出た。
「エリシア様、体調はいかがですか?」
大聖堂の応接室に入ると、ユリウス様が私を心配そうに見た。
「ユリウス様がいらしてくださったから、元気になりました」
私は顔いっぱいに笑みを広げて見せた。
「そうですか。それなら来た甲斐がありました」
ユリウス様も優しい笑顔で応えてくださった。
「私のことを心配して来てくださったのですね」
「はい、そうです。王太子殿下との婚約の発表のあと、急に顔色が悪くなられたので……。ずっと心配でした」
「ずっと私のことを考えてくださっていたのですか」
私は思わず笑みがさらに広がってしまっていた。
「はい、もちろんです。あなたはこの王国にとってなくてはならない存在ですし……」
私は王国よりも、ユリウス様にとってなくてはならない存在になりたいのですけれど……。
「そうそう、王宮からも頼まれごとがありまして……」
「王宮から……ですか? なぜユリウス様に?」
「僕もよくわからないのですが、聖教会から王宮に、僕の言葉ならエリシア様も耳を傾けてくださるのではないかと伝えたそうで。買い被りすぎですよね?」
大司教様ね……。私がユリウス様のお話ばかりするから、私のユリウス様への好意に気づいていたのね。
「そうですか。王宮ということは王太子殿下との婚約の件ですか?」
私の笑みが急速にすぼまった。
何だか嫌な予感がした。
「それもそうなのですが……。あの夜会の後から、どうも聖女様の加護が不安定だと報告がございまして……。エリシア様の体調が優れないことと何か関係がないか確認するように言われたのですが……」
「お務めはきちんとしております!」
いくら気分が落ち込もうが、私も自分のしていることがどれだけ重要なことかは理解しているつもりだ。
「もちろん僕もそう言いました。エリシア様のことは僕が誰よりも信頼しております」
「……」
「……どうかされましたか?」
ユリウス様に「誰よりも信頼している」と言われ、また表情が緩くなってしまった。
「いえ。ユリウス様に信頼いただいているとおり、私が王国の加護のために手を抜くなんてことはありません」
「そんなことはわかっております。僕が言いたいのは、エリシア様がご無理をなさって体調を崩したのではないかと心配しているのです。僕は、王宮や聖教会にかけあって、エリシア様のご負担を軽減できる方法を検討していただこうと思っているのです」
やはりユリウス様は私の心配をしてくださっているのだわ。
「ご心配には及びません。私の無尽蔵の魔力はご存じでしょう?」
「そうですか……。でも少しでもお辛いことがあったら仰ってくださいね」
では、王太子殿下との婚約を破棄してきてください、と言いかけて止めた。ユリウス様のご負担になることは明白だし、今問題になっているのはそのことではない。
「ありがとうございます。ただ、加護が弱まっている原因は突き止めないといけないですわ。具体的にどんな状況なのでしょうか?」
「はい、いくつかの結界の加護に不具合があるようなのです。例えば、先日の夜会の翌日には、王都の西門が魔物の侵入を許し、また翌日にローゼンベルク伯爵領でも魔物に襲われた村が出て……中でも被害が大きいのが、さらにその翌日から異変が起きたアルテンブルク公爵領で、魔物が大量発生しているようなのです」
アルテンブルク……? 最近どこかで耳にしたような……。
ヴィオラ・アルテンブルク公爵令嬢だ。
ユリウス様に失礼な言動をした貴族令嬢の中のひとり……。
まさか私の感情が加護に影響したなんてことは……。
王太子殿下との婚約を嫌がったことも、王家が統治する王都の結界に影響しているの?
私は、加護を大聖堂から王国全土に直接行き渡らせることはできない。加護の魔力は遠くに行くほど減衰してしまうからだ。そのため、大聖堂で注いだ加護のための魔力を中継し、結界を形成するための魔法陣を各地に設置している。魔法陣自体も、私が聖女となってすぐに用意したものだ。
私はもちろん、それぞれの魔法陣の場所を把握している。自分でも知らぬうちに、王都やアルテンブルク公爵領へ送る魔力を弱めてしまったのだろうか……。
「どうかされましたか? 何かお心あたりが?」
「いえ……ここのところ少し気分が優れないことがありまして、もしかしたらそれが加護に影響したのではないかと……」
するとユリウス様が驚いた顔をされた。
私は自分の発言をすぐに後悔した。
「やはり心労が……。それならばやはりエリシア様のご負担を軽減していただくよう、かけ合います」
「いえ……大丈夫です。あの……ユリウス様がお側にいてくださったら、気持ちも安定すると思いますので……」
「僕ごときでは大したことなどできません。必ず何とかいたしますので」
そう言うなり、ユリウス様は応接室を後にしてしまい、私はまた心細い気持ちになった。
私はユリウス様に何とかしてほしいんじゃない。ただお側にいてほしいだけなのに……。なぜ伝わらないの……?
※
それからまたユリウス様のお姿を見られなくなる日々が続き、私はまた塞ぎ込むようになった。
なるべく心を落ち着かせて加護の儀式を行おうとするのだけれど、どうも心が乱れてしまっているのを感じた。それがもし加護の不具合を引き起こしていたらと思うと、余計に心が乱れてしまう。
——ユリウス様にいてほしい。
私はそれ以外に加護を再び安定させるための方法が思いつかなかった。
「聖女エリシア、ちょっとよろしいですか」
加護の儀式を終えたところで、大司教マティアス様が声をかけてきた。
「はい……何でしょう」
「一部の地域での加護の不具合が大きくなっているようで……王宮が騒ぎ始めているのです」
やはり……私のこの気持ちのせいで加護は不安定になってしまっているのね……。
「何日か前に、ユリウス様に聖女様のご負担を軽減するよう相談を受けましてな。ですが、どんな神官であろうと、聖女の代わりを務めるなど無理な話です……」
「それはわかっています。精一杯やっているつもりなのですが……」
「人々は聖女様の加護に慣れすぎたのかもしれませんな。聖女エリシアが誕生する前は、町や村が魔物に襲われることなど珍しいことではなかったのですが……。ユリウス様は、聖女様のご負担を減らすため、王宮に、聖女様に王国のすべてを背負わせるべきではないと進言されたそうです。人々が対処すべきことは自分たちで対応すべきだと。そのうえで、加護の不具合は聖女様のせいではないと主張しているのですが……」
「なぜそんなことを……」
「ユリウス様は聖女様を守るために必死なようです。ですが、王宮では、聖女エリシア様の、聖女としての資質を疑い始めています。そのうえで、ユリウス様こそ、聖女様の精神を乱し、王国を危機に追い込んでいる張本人だと糾弾しているようなのです」
「嘘……」
「王宮は、ユリウス様に、聖女様に近づかないよう命じました。ですから、ユリウス様がここに来ることはもうありません。聖女様があの方に会いに行くことももうできません」
「そんな……」
私のそのときの絶望は言葉にできないほどだった。
次第にその絶望は言いようのない怒りに変わってくる。
なぜ誰も、私が何を望んでいるのか聞いてくれもしないの……?
※
私は大聖堂を出て、王宮にいた。
王宮の門の衛兵は私を見て敬礼をし、止めもせずに素通りさせた。
王宮の玄関広間に入ると、そこにレオンハルト殿下がいた。
私に気づくと、不機嫌そうに声をかけてきた。
「エリシア・ブランシェ。ようやく婚約の挨拶に来たか」
「ユリウス様はどこですか?」
「ユリウス……? ああ、ユリウス・ベルナールか。あの男は王国の安全を脅かした疑いで拘束している」
「何ですって? なぜそんなことを? 今すぐ放しなさい」
「あのような危険人物を外に出すわけにはいかん。そんなことより、結婚に向けていろいろ準備しなければならないことがあるのだ」
「殿下と婚約などいたしません。ユリウス様がどこにいるのか言いなさい」
「あの男は地下牢だ。……ちょっと待て、今何と言った? 婚約をしないだと? そんなことが許されるとでも思っているのか?」
地下牢……。
私を守ろうとした結果、ユリウス様は牢に入れられたというの……?
「誰よりも善良なあの方を牢に入れたのですって?」
私はレオンハルト殿下を強く睨んだ。
「王太子に向かってどういうつもりだ? ……おまえがその気ならいいだろう。おまえが聖女には相応しくないという意見が貴族連中から上がっているのだ。婚約者だからと庇ってやっていたが……そのつもりがないのであれば、聖女の地位からも引きずり下ろしてやるぞ」
「そんなものはどうでもいいです。いいからユリウス様を放しなさい」
「なぜあんな下級貴族に執着するのだ? そこまでやつがいいのなら、同じ牢に入れてやろう」
「連れて行きなさい」
「衛兵! この女を地下牢に連れて行け!」
レオンハルト殿下が命じたが、衛兵は動かなかった。
動けないのだろう。聖女を拘束することができる者などこの王国にいるはずもない。
「自分で行きます。ただ案内してくださればけっこうです」
そう言うと、ようやくひとりの衛兵が動き出した。
地下牢に入れられたユリウス様を見て、私は血の気が引いた。
ユリウス様の顔は腫れ上がり、切り裂かれた服に血が滲んでいた。
「どういうことなの……?」
ユリウス様がゆっくりと顔を上げ、私を見た。
「ああ……エリシア様……。申し訳ございません。エリシア様をお守りするはずが……こんな有り様で……合わせる顔もありません」
「牢を開けなさい! 早く!」
衛兵が慌てて牢の鍵を取り出し、鍵を開けた。
私は急いで牢の中に入る。
「治癒」
素早く詠唱し、ユリウス様に全力で治癒を行った。
顔の腫れは引き、傷もきれいに消えた。
「エリシア様……。僕なんかのために申し訳ございません」
私は思わず泣き出してしまった。
「あなたこそ私のために、こんな目に遭ってしまったではないですか……」
「申し訳ございません。ですが、私は加護が弱まっている原因について思い当たることがありまして……。ですが、王宮では誰も取りあってくださらなくて……」
「加護が弱まっている原因ですか……? 私の感情が不安定だったからではないのですか?」
「それなのですが、もしそうであるならば、一部の加護が、しかも順番に次々と崩れていくというのがどうも不自然に思えるのです」
「ですが……ユリウス様には正直に言います……。私はヴィオラ・アルテンブルクに対してよい感情を持っておりませんでした。私の意思に反した王太子殿下との婚約も不快に思っておりました。それで、アルテンブルク領や王家が統治する王都に悪影響が出たのではないかと……」
「もうひとつ、加護が弱まったローゼンベルク伯爵家はどうですか?」
「ローゼンベルク伯爵家ですか……? 特に存じ上げません」
「では、エリシア様のその仮説が正しいとは思えません。そもそもエリシア様のご気分で加護が弱まるくらいであれば、今まで同じようなことがまったく起こっていなかったことが不自然です。それに、僕が確認した限りでは他の地域では加護の不具合は一切起きていません」
「では……」
「人為的に加護の妨害がされていると考えています」
「……誰かが意図的に妨害していると仰るのですか?」
「はい。そして僕がそのことを主張すると、意見を取り下げて聖女様の加護そのものに問題があると証言しろと取調官に言われて……。私が抵抗すると、『聖女の飼い犬』などと罵られ、ついには私が聖女様を操っているのではという疑いまでかけられて、自白を強要するために拷問までされて……」
「……私のために、あのようなひどい怪我を負わされていたのですね?」
「僕は、エリシア様が不当な評価を受けることは決して受け入れられません。皆、聖女様の加護を当たり前のように考えすぎて、感謝の念を忘れて、少しでも問題があれば聖女様を非難するなんてあんまりです。聖女様だって同じ人なのです。聖女様に問題があるのであれば、普段加護によって守っていただいている僕たちが、全力で聖女様をお助けするのが筋というものではありませんか?」
そのとき、私の目から涙があふれ出した。
やはり、私にはこの方しかいないのだ。
私を守ろうとしてくださるのはこの方だけなのだ。
そして、私が守るべきなのも……。
次第に、私の中に、とても聖女に似つかわしくない感情が湧き上がるのを感じた。
※
私がユリウス様をお連れして王宮を後にしようとすると、玄関広間でレオンハルト殿下が立ち塞がった。
「どこに行くのだ、エリシア。罪人を逃すつもりか!」
レオンハルト殿下が叫ぶや否や、轟音が鳴った。
「落雷だ!」
王宮の外でそう叫ぶ声が聞こえた。
地面が振動し始めた。
「せ、聖女様がお怒りだ……」
王宮内が騒然とする。
「その女はもう聖女でも何でもない! 魔女だ! 捕らえろ!」
レオンハルト殿下はそれでも私の行く手を阻もうとした。
「結界の修復に行くのです。その後であれば私のことをどうされようと構いません。もし阻もうとするならば……。おわかりですね?」
私は殿下を射すくめるように見つめた。
殿下が体をこわばらせているので、私は歩み進んだ。
王宮を後にして、まずは王都の結界魔法陣のところに行った。
「エリシア様、魔力を流していただけますか?」
ユリウス様の言葉に頷き、私は加護のための魔力を流した。
魔法陣が聖なる光を放つが……。
「結界が弱い……」
何かがおかしい。
「エリシア様、ここを見てください」
ユリウス様が魔法陣の一部を指差した。魔法陣を形成する直線のひとつが途中から消えており、私の魔力が全体に行き渡っていなかった。
「削られている?」
「自然に摩耗したようには見えません。この魔法陣の石板が削られているように見えます」
「なぜ……」
「エリシア様、修復はできますか?」
「はい、壊すのは誰でもできるでしょうが、修復は私の魔力がないと難しいでしょう」
私が魔法陣形成のための魔力を流し込むと、途切れた直線が再び刻み込まれた。
それから再び加護の魔力を流し込むと、王都の結界は復旧された。
次に向かったローゼンベルク伯爵領の魔法陣にもやはり異常があった。
それも、王都の西門の魔法陣とまったく同じ箇所の直線が寸断されていたのだ。
私はその魔法陣も修復し、魔力を流し込んで結界を復旧した。
「王都の魔法陣と同じ方法で魔法陣が壊されていましたね。偶然とは考えにくいです。いずれにしても、やはり、エリシア様のせいで加護が弱まったわけではないことがはっきりしました」
ユリウス様が笑顔を見せた。
私のせいではなかった。ユリウス様はそのことを信じ、証明してくださったのだ。
「ありがとうございます」
お礼を言うと、ユリウス様は不思議そうな顔をした。
「何がです?」
この人はこういう人なのだ。聖女が加護を行うことを当たり前だと考えて感謝もしない人々を非難しながら、自分の善行は当たり前のことだと思って感謝を求めようともしない。
私は思わず笑ってしまった。
「どうかされましたか?」
「人には感謝を忘れるなと言いながら、ご自分は何の感謝も求めないのですもの」
「いえ、僕は感謝されるほど大したことなどしておりませんから」
「ご自身が人のためになさることは『当然』のことと考えていらっしゃるのですね」
「はは……。申し訳ございません……」
ユリウス様はよくわからない、といった顔で苦笑いして頭を掻いた。
私たちは、その足でローゼンベルク伯爵を訪ね、魔法陣に近づいた不審な者がいなかったか尋ねた。
けれど、魔法陣には護衛も何も置いておらず、わからないと言われた。
「なぜ、大事な魔法陣を守ろうともしないのですか?」
私はその不用心さを咎めるように尋ねた。
「誰もが魔法陣がどれだけ大事なものかわかっているからですよ。魔法陣に何かあれば、自分も含めて、人々を危険にさらすことになるのですから、誰も魔法陣を壊そうなどと考えるはずもないのです」
ローゼンベルク伯爵はそう答えた。
「それはそうですよね……。あえて魔法陣を壊して得をする者がいるとしたら……」
ユリウス様がそう言って考え込んだ。
その表情は曇っていた。
※
アルテンブルク公爵領の魔法陣にも同じ異常が見られた。魔法陣のひとつの直線が削られ、途中で消失しているのも同じだった。
けれど、ひとつだけ他と異なることがあった。
鑿のような工具が、そこに置いてあったのだ。
その鑿の形状と、石板を削った跡がきれいに一致していたため、もはや人為的に削られたものであることは疑いようがなかった。
私は魔法陣を修復し、結界を復活させた。
そして、私とユリウス様は、アルテンブルク公爵邸を訪ねた。
「聖女エリシア様、よくお越しいただきました」
アルテンブルク公爵は笑顔を浮かべ、両手を広げて歓迎の意を表した。けれど、その目は少しも笑っていなかった。ユリウス様には視線を向けようともしない。
公爵邸の応接室に通されると、そこにもうひとり若い令嬢がいた。
「ヴィオラ・アルテンブルクです」
令嬢はそう名乗った。
アルテンブルク公爵に促されて席に着くと、すぐに公爵が口を開いた。
「エリシア様のおかげで、我が領地は大変な状況です」
その言葉には棘があった。
「この損害の責任をどう取っていただけるのでしょうか? 加護が不具合を起こしたせいで、公爵領は荒らされて死人も出てしまいました」
「加護が弱まったのは、エリシア様のせいではございません」
隣のユリウス様が発言すると、ようやくその存在に気づいたように、アルテンブルク公爵がユリウス様に視線を向けた。
「あなたは……?」
「ユリウス・ベルナールです」
「ベルナール……。ああ、あなたが……。『聖女様の飼い犬』ですか。いや、エリシア様を操っていると言われている男爵家のご子息でしたかな。エリシア様のせいではない、ということは、まさかあなたがエリシア様を操って加護を弱めさせたのですか?」
「違います! ユリウス様はそんなことはいたしません!」
私は思わず声を上げてしまった。
「聖女様が取り乱すとは……。加護の問題といい、エリシア様は聖女としての資質に問題がありそうですな」
「ちょっと待ってください。今、僕のことを『聖女様の飼い犬』と呼びましたか?」
ユリウス様が訝しげに尋ねた。
「これは失礼。ただ、そのご様子だと事実のようにお見受けしますな。聖女様とその飼い犬が我が公爵領に大損害をもたらしたということですか」
「加護を弱めたのは、エリシア様でも僕でもありません。他の誰かが、加護の中継用の魔法陣に傷をつけていたのです」
「……何を言っているのだ? 魔法陣など聖女以外扱えるものではなかろう」
「壊すのは誰でもできます。魔法陣に傷をつければよいだけですから」
私がアルテンブルク公爵に答えた。
「聖女エリシア様は、女神の祝福を受けたその力により、すでにその犯人を見抜いております」
ユリウス様が言うと、アルテンブルク公爵が少し狼狽えた様子を見せた。
けれど、私はもっと狼狽えていた。私は犯人のことなんて知らない。
「エリシア様、僕は、たった今、『聖女の飼い犬』と呼ばれました。僕をそう呼んだことがあるのは、他にただひとりです」
「……あっ。ユリウス様を拷問した取調官……」
「そうです。その取調官はおそらくどなたかから指示を受けていたはずです。僕に嘘の証言をさせるために拷問しろと。そこには明らかに、事実にかかわらず聖女エリシア様の立場を悪くしようという意思が働いていました。一介の取調官がなぜそんなことをするのか、僕には疑問でした」
「何を言っているのだ、貴様……」
アルテンブルク公爵の声がかすかに震えていた。
「ただ、その取調官の背後に高位の貴族がいたのなら、説明がつきます。その貴族は、平民の出自の聖女が自分よりも高い地位にいることが気に食わない。しかも、王太子殿下との婚約まで決まってしまった。……もし聖女を追い落とすことができれば、自分の家が王太子殿下との婚姻を進め、家の地位を高めることができるのではないか……。聖女様から被害を受けた家として振る舞えば、なおさら注目を浴びるのではないか……。そのためには領民の犠牲ですら利用すべきだと……。ただ、自分の領地だけでは不審に思われるかもしれないので、王都や別の貴族家の領地でも同じ工作を行うことを考えました。どこの領地であれ、加護の魔法陣を壊そうとする者などおりません。警備もされていないのです。工作は簡単に実行可能です」
「いい加減にしろ!」
ついにアルテンブルク公爵が立ち上がり、ユリウス様を怒鳴った。
「……申し訳ございません。話が逸れてしまいました。改めて、もう一度言います。聖女エリシア様はすでに犯人がわかっています。いえ……言い方を変えます。聖女様を庇護する女神様は犯人をご存じです。そして今から、エリシア様は、女神様に『神罰』の祈りを捧げます」
「『神罰』だと……」
私が今抱いている感情が何か、はっきりとわかっていた。
これは「怒り」だ。
つまらない政治的な思惑で、罪のない人々を危機に晒し、犠牲者まで出し、そのうえ、ユリウス様にむごい痛みを与えたその者を許せるはずもない。
公爵邸の建物がゆっくりと揺れ始め、立ち上がっていたアルテンブルク公爵がその場に倒れた。
屋敷の外では雷の轟音が響き渡る。
「罪人は罪を認めなければ、どうなるか保証はできません。命を失うだけでなく、地獄に落とされ、永遠の苦しみを受けることになるでしょう」
ユリウス様が言った。
「お、お父様、罪を認めてください! 私は死にたくないです! 地獄なんて嫌です」
そのとき悲鳴のような声を上げたのは、公爵の隣にいたヴィオラ・アルテンブルクだった。
「ヴィオラ……何を言っているのだ……。もとはと言えば、聖女が気に食わないから陥れろと言い出したのは、おまえではないか」
「だからって、加護を妨害してとまではお願いしていません!」
落雷の間隔が短くなり、もはや誰の声も聞こえなくなった。
私はただ怒りで、荒々しい魔力に身を委ねていた。
そのときふと声が聞こえた。
「エリシア様、お静まりください。罪人は罪を認めました」
気づくと、ユリウス様が私を抱きしめて、耳元でそう囁いたのだった。
私は怒りとは違う熱を胸に感じた。
荒れていた魔力は急速に鎮まった。
※
「エリシア様への侮辱が許せなくて……『神罰』などと……。申し訳ございません」
後からユリウス様はそう謝ってきた。
「ふふふ。『神罰』なんて魔法、知りませんでしたわ」
「それはそうですよ。聖女が人を地獄に落とすなんて聞いたことがありません。でまかせです」
「わかってますよ。……聖女よりも慈悲深く知恵に優れたユリウス・ベルナール卿のおかげで、王国は救われました」
ユリウス様は気まずそうに頭を掻いた。
その後、アルテンブルク公爵とヴィオラ・アルテンブルク公爵令嬢は「神罰」の恐怖に怯え、王宮に出向いてすべての罪を自白したようだった。二人の罪を考えると、少なくとも今後、「公爵」を名乗り続けることはできないだろう。
一方で、私とユリウス様の名誉は回復され、王国の危機を回避した功績を認められた。
王太子レオンハルト殿下が改めて私に婚約を申し出てきたが、私は今度こそはっきりとその申し出を断った。「私には心に決めた人がいます。それは王家であれ、女神様であれ、この心を変えることはできません」と。そのうえで、「ユリウス様への拷問を許可したことは告発させていただきます。あなたが王太子に相応しいとは思いません」とも付け加えた。
「エリシア様は、なぜ僕によくしてくださるのですか?」
ユリウス様がふと尋ねてきた。
「……ユリウス様は私に初めて会ったときのことを覚えていらっしゃいますか?」
「ええ。もちろん。聖女誕生の式典が催された大聖堂で、会場の端の方にいた僕に声をかけてくださいましたよね?
とても美しく立派な聖女様だと思いました。あの日のことはずっと忘れません」
美しいと言われて気恥ずかしかったが、少し寂しい気持ちもした。
「やっぱり……覚えていらっしゃらないのですね」
「えっ……?」
「私は、聖女になるずっと前に、ユリウス様にお会いしたことがあるのです。この王都で」
「そうでしたか……?」
「はい。私は辺境の生まれなのですが、聖属性魔力が高かったせいで、幼い頃に無理やり王都の大聖堂に連れてこられました。前代の大司教様は厳しい方で、私がうまく加護の魔法を扱えずに泣いていると、『あなたは聖女になるのです。泣いている暇があったら魔法の練習をしなさい』とひどく叱られました。私が耐えられなくて大聖堂の外に逃げると、王都の人々は、私など目に入らないかのように通り過ぎるか、汚いものでも見るような目で見るのです。辺境訛りで、粗末な服を着ていましたから、私が王都の子どもでないこともわかったのでしょう。私には、誰も頼れる方がいませんでした。まるで、この広い王国で、たったひとりになってしまった気分で……王都を彷徨っているうちに迷子になって、どうしてよいのかもわからなくなって、うずくまって泣いていました。私の涙に呼応するように雨まで降ってきて、いよいよ心細く、いたたまれない気持ちになりました」
「まさか……」
ユリウス様が呟いた。
「思い出していただけましたか?」
「はい……あの子のことはよく覚えております。とても寂しそうな子でした。手を差し伸ばさずにはいられませんでした」
「そうです。あのとき、人々が通り過ぎていく中、誰かが上着のようなものを私の頭にかけたのです。私は驚いて警戒しました。ところが、顔を上げると、ひとりの男の子が微笑んでいました。すると『寒いでしょう?』と声をかけてきました。それから『迷子? おうちはどこ?』と尋ねてきました。私が大聖堂だと答えると、送ってくれるというのです」
ユリウス様が懐かしそうに、私の話に耳を傾けていた。
「それから、その男の子は私の手を引いて、二人で王都を歩きました。二人でおしゃべりをして、雨の中を歩いて、気づくと私は信じられないほど楽しく、胸が高鳴っていました。でもそんな楽しい時間はすぐに終わり、大聖堂に着きました。そのとき、男の子は言いました。『いつか聖女様が現れて、王国を守ってくれるといいな』と」
ユリウス様は恥ずかしそうに笑って頷いた。
「男の子は『ユリウス・ベルナール』と名乗っていました」
「そうですね。……それは僕です」
「ユリウス様は、王都でひとりぼっちだと思っていた私の、ただひとつの希望でした。あのとき、ユリウス様にお会いできたから、私はがんばって聖女になりました。ですから、ユリウス様がいらっしゃらなければ、今代の聖女は誕生しなかったのです」
「それは大げさですよ」
「いいえ。それだけは譲りません。そのうえ、今度は聖女が失われるのを防いでくださったのです」
「ですから……大げさですって」
「いいえ。あなたがいないとこの王国に聖女はいられないということははっきりしました」
「……」
「だから、ずっと私の側にいてください」
「僕なんかでよいのでしょうか?」
「ユリウス様でないとだめなのです」
私がそう言うと、ユリウス様は恥ずかしそうに微笑んだ。
「では、もう決して離れません」
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