自我
光が世界を包み、自室へと帰ってくる。
心世界で最後に見たあの景色。
光が舞い上がり、自分以外の…。
「…」
…天使が、悪魔と戦う姿。
天使とは、自分一人ではなかったのか?
見たところ、あの時目撃した天使は、仲間と共に悪魔と戦ってるようにも見えた。
一瞬の出来事であった為、正確には分からない。
だが…確かに、光の中に複数の人影が見えたのだ。
…彼女に聞けば、全て分かる。
「…レイ」
ベッドに腰掛けていたレイは、冷や汗をかきながら目をそらしている。
例の男はいない。
長年付き合ってきた相棒と、二人きりだ。
…気弱な夜雨でも、今だけは遠慮なく聞ける。
「私以外にも、天使はいるの?」
最早、誤魔化しきれないと見たのだろうか。
レイは声を震わせながらも、真実を告げた。
「…夜雨みたいに」
一呼吸置いてから、続ける。
「夜雨みたいに不幸な人間が、天使の力を与えられるの。私みたいな…神の使いによって」
「…レイは神の使い…?」
友人として、相棒として同じ部屋で過ごしてきたレイが、神の使い。
唐突に、距離を離されたような感覚に陥った。
天使や悪魔がいるのだから、神の存在だってすんなりと受け入れられる。
だがそれ以上に衝撃を受けたのは…。
あの天使たち。
孤独な自分とは異なり、仲間がいた事だ。
レイは夜雨の疑問を察したように、説明した。
「…通常、天使同士は干渉し合わない事になってるの。でも、同じ不幸を共有する人間…例えば、親を失った兄弟だったり、同じ事故に巻き込まれて体の一部を失った被害者だったり…同じ事案の不幸の下に立たされた人間達は、グループとして戦う事を許されるの」
レイは夜雨の顔を見上げる。
「…夜雨は、昔から一人で苦しんできた。心をスムーズに通わせられる相手がいないから、独りで戦う事に…」
「そうじゃないっ!!!」
レイはひっくり返った。
夜雨の怒鳴り声。
初めて聞いた声だった。
想像以上に響き、想像以上に黒い。
昔から穏やかで、必ず自分に矛先を向けていた夜雨が、人を大胆に責める姿など想像もつかない彼女が、怒鳴ったのだ。
肩を震わせながら、彼女はレイにゆっくりと問いかけた。
「…私以外に、天使が…?私は、私は…」
…震えが収まっていく。力が抜けていく。
「…唯一の天使、じゃないの?」
レイは、答えられなかった。
…これを、恐れていたのだ。
夜雨の唯一の存在意義。
自分は、世界で唯一悪魔に対抗する希望であったという事。
夜雨も、薄々おかしい事には気付いていた。
悪魔は明らかに群生化した存在だ。あの虎悪魔だって、群れをなして襲ってきていた。
それに、悪魔達が毎回同じ場所に現れるのも不自然だ。
何もかも、夜雨の戦場として整い過ぎた世界。
…実際は、数多くの天使が心世界の決められたスペースを[担当]していたのだ。
レイが、遠くに行かないように言ってきたのも、他の天使の存在を知られない為。
夜雨の理想…この世で唯一の天使というイメージを構築し続ける為。
レイの視線が、足元に落ち…。
再度、夜雨を見上げた。
黒い瞳は、落ち着きを取り戻し、平常心へ戻っていた。
そう、平常心…。
あまりにも多くの不幸を蓄えすぎた、穢れに穢れたヒビだらけの心。
それが、今の夜雨にとっての平常心。
「…夜雨…ごめんっ…」
レイの声が潤む。それに対する夜雨の返事は…。
「…ごめん。レイ。レイは私の事を思って…黙っていてくれたんだね。なのに…私は」
息を呑むレイ。
こんな時でさえ、夜雨は…自分を責めようとしている。
「夜雨っ…!待って…」
「夜雨ぇ!!!!」
また別の怒鳴り声が響く。
今度は…下からだ。
父親が帰ってきたらしい。
最早正確な名前すら忘れた、あの父親が。
夜雨は…笑った。
(ダメっ!夜雨、行かないで!もうこれ以上無理したら…)
…言えなかった。
何を言っても、夜雨を苦しめるだけ。
唯一の天使という甘い夢すらも、砕けたのだ。
…おぼつかない足取り、整理がつかない心のまま、夜雨は階段を降りていく。
辿り着いたリビングには…父親が、拳を握りながら椅子に座っていた。
吸い殻だらけの灰皿が、真っ先に目につく。
「夜雨。テメェ、これはどういう事だ」
…父親は、スマートフォンを突き出した。
そこには…。
「…え?」
夜雨の写真が、SNSに投稿されていた。
倒れ込んだような姿勢、どこか見覚えがある。
だが…画面の夜雨の顔は、潤んだような笑みを見せていた。
制服を着ているが、あちこちがはだけ、足や腹を強調したような露出の多いアングルだ。
そして、問題は…写真の上部に大きく添えられたカラフルな一文。
[私とヤリたい人、募集中♥]
思考が追いつかない。
こんなもの、投稿した覚えなどない。
「テメェ、これは裏アカか?俺に隠れてこんな事してたんだな…?いつもクソみたいなドジをやらかす癖して、こういう事には随分力を入れるじゃねえか…怖い女だな?」
「ち、ちがっ…。お父さん、これはいくらなんでも…」
言い終わるより前に、父は立ち上がり、椅子を蹴飛ばし、夜雨に詰め寄る。
無言で彼女を見下ろすと…。
…気づけば、夜雨は家の前に放り出されていた。
腕や足には青い痣。
皮肉にも痛みが、意識を繋ぎ止めてくれていた。
冷たい夜風が体をすり抜ける。
足はピン、と真っ直ぐに伸び、コンクリートの地面の上、脳の指令を待っていた。
「…あっ」
追い出された事に、今気付く。
「…父さん。お父さん、お父さん!」
彼女は扉を叩く。
まさか、追い出されたというのか?
何故追い出されたのだ。あんなもの、投稿した覚えはない。覚えのない罪で、彼女は外界へ放り出されたのだ。
まだ父の夕飯も作っていない。まだ父の身の回りの世話を…していない。
家でやるべき事は山ほどあるのだ。こんな所で立ってる場合ではない。
「お父さん!!ごめんなさい!お父さんごめんなさい…!」
いくら叫んでも返事はない。
夜の町を行く通行人達が、夜雨を怪訝そうに見つめ、そして何も見ていないかのように通り抜けていく。
当然だ。面倒事に巻き込まれたくないのが人間の性。わざわざ首を突っ込んでまで誰かを助けようとする人間など、天使のような存在だ。
そしてそんな人間は、必ず仇で返される。そんな世の中だ。
夜雨は、気づけば手から力が抜けていた。
…何故、今の今まであの男をお父さんと呼んだのか。
彼は自分の事をもう娘などと思っていないし、これからも思う事はないだろう。
…学校の連中も。
あんな投稿、やつらにとっては絶好のネタだ。
どこへ行けば良い?どこを目指せば良い?
(誰か、誰か教えて)
機械のような足取りで、彼女は歩む。
目的地などない。ただ、足が勝手に動くのだ。
体が何かを求めている。何かを求めて動いている。
なのに、頭はもう、何を求めているかも分かっていなかった。
あまりにも連なる不幸の連鎖。思考を塗り固められ、心の身動きが取れなくなっている。
夜雨は、とっくに手遅れだった。
今の夜雨に笑みはない。かと言って、苦しげな表情でもない。
無表情だった。
夜の街。
「ママ〜、パパがまた怖い話する〜」
母親に泣きつきつつも、どこか楽しげな幼い少女。そんな彼女を抱きしめて笑う母親と、二人以上に、輝かんばかりの笑みを見せる父親。
外食帰りの、何の特徴もない家族が、幸せそうに歩いていた。
彼らの周りを通り抜ける人々もまた、日常へ溶け込み、[この世界]を生きている。
友人と話し合うサラリーマン、恋人と連絡をしあっているであろう女性、工事に勤しむ作業員、涼し気な道をジョギングする男性。
街の時間は、誰にでも等しく平等に流れている。
幸せ、不幸せに関係なく。
…木々の陰から、小さな人影が覗き込んでいた。
無表情で、しかし息を荒げて。
「……………」
黒く、光のない目。
右手には…本来雑草を刈り取る際に、裏庭に置いていた鎌。
かつて父と呼んだあの人に仕事を押し付けられ、小学生の頃から持たされてきた鎌。
使い古されつつも、その刃先は街灯の光を受け、怪しく輝いている。
まだ、切れるはずだ。
夜雨は、今抱えてる感情の正体を知っていた。
なのに、どうしてこうも、完全に理解が及ばないのだろう。
憎しみ。
そんなものを抱えても、意味はない。
それこそ、人を傷つけてしまう。
なのに、体が言う事を聞かないのだ。
体が。
心とは別物になりつつある、体が。
夜雨は鎌を振り上げる。
日常が、憎い。
世界が、憎い。
「今度会わねえか?良いレストラン見つけたんだよ」
日之影家。
父は、煙草の吸殻を灰皿に押しつけながら、[次の愛人]との通話を楽しんでいるところだった。
娘などもう忘れてる。
いや、彼女を娘だなどと、ずっと前から思っていなかった。
道具や奴隷とすら、思っていない。
そもそも夜雨に興味や印象もなかったのだ。
いくら殴っても、結局謝るだけ。その後も何だかんだで自分の為に料理を作り、あらゆる家事をこなしてくれる。
どうせこの後もここに帰ってきて、いつもの調子に戻るだろう。
面倒事は全て任せて、自分は仕事先で仲良くなった女性と楽しむ。
夜雨より先に自分が死ぬのだから、一生楽していける。
(俺ってば、勝ち組だよなぁ)
通話先の相手に上手く返事をしつつも、頭のなかでは自画自賛の嵐だ。
…玄関から、何かを叩く音が聞こえてきた。
(ほらな、帰ってきやがった)
…あの投稿の件も、実は夜雨本人が投稿したものだとは思っていない。
あんな気弱な少女があんな大胆な投稿を世界中に晒せるなど、到底ありえない話だ。
だが夜雨を常に恐怖で支配する為、彼はあえて夜雨を疑い、夜雨を殴り、そして追い出した。
あの投稿…既にかなり広まっているようだ。
これだけ広まれば、犯人も直に発覚するだろう。
まあなんとかなる。
軽い気持ちで、彼は扉に手をかけた。
不機嫌な表情を作りつつ、勢いよく扉を開き、怒号を上げる。
「テメェ!!ほんとに出ていくやつがあるか…」
言葉が、途中で止まる。
目の前にいたのが人間である事すら、すぐに認識できなかった。
「…よさ、め…か?」
目の前にいた、[娘]の姿。
虚ろな目。黒く染まった目。
手には…鎌。
全身には…。
真っ赤な血。
赤く染まった手、足、顔。
口元は…満面の笑み。
「あはっ…」
ここまで笑った夜雨は、はじめてかもしれない。
「…お、おい」
天井を見つめ続ける夜雨。
いや、天井ではない。虚空を見つめているのだ。
血の臭いが、鼻を突く。ごく日常的な家に、あまりにも物騒な臭いが容赦なく広がっていく。
父親は、流石に後退りした。
目の前にいるのは娘ではない。
誰かを、大勢の人間を…その手にかけたのだ。
「…き、貴様…貴様というやつは…」
怒りと恐怖が渦を巻く。
目の前の壊れた人間。その姿は、堕落し、甘やかされてきた彼には刺激が強すぎた。
拳が震え、足が震え…この歳になって、知らぬ間に小便を漏らしていた。
「夜雨っ…お前、とんでもない事を…」
いつまで経っても動かぬ夜雨を見上げ、父親は怒号をあげようとした。震える声で、情けない声で…。
「あは、はははっ、あはははは」
壊れた玩具。
そんな笑い声が、父親を再び圧する。
その時。
父親は…ちらりと見た。
全身を震わせて笑う夜雨の服とスカートの、僅かな乱れ。
その裏から見えた、彼女の足や腹。
…無数の切り傷が、刻まれていた。
「…は?」
夜雨は、確かに誰かを殺そうとした。
だが彼女は結局、守ったのだ。
母との約束。
誰かを傷つけてはならないという、呪縛。
そして、いつまで経っても捨てられない…優しさ。その優しさゆえに向けられる、自分自身への怒り。
…傷が熱を帯び、湯気すら立ち上りそうだ。
「あっは…!あはーっはっはっはっは!!」
「夜雨ぇ…!?よ、夜雨っ…」
皮肉にも父親は、今までにない程に娘の名を呼んでいた。
…その時。
夜雨の中で、何かが限界に達した。
「……あははは…」
目から。
熱が、こぼれた。
頬を伝い、落ちる。
「…え?」
それは、何だったのか。
もう思い出せない。
もう戻れない。
「あっ…がっ…」
全身が熱い、全身が痛い、全身が苦しい。
夜雨から、黒いものが溢れ始めた。
溜め込み続けてきた何かが、彼女から溢れ出し始めたのだ。
「あ゛っ!!が……」
喉を押さえ、震える。
何かが、何かが生まれようとしている。
苦しい。苦しい。苦しい。
苦しい!苦しい!苦しい!
…ここから遥か離れた建物の屋上。
都会の喧騒を見下ろしていたあの男が、何かを察知した。
「…神も、残酷ですな」
そして…。
「…夜雨ええええ!!!!」
悲しみと焦燥に狂乱した、唯一の相棒の声が、日之影家にこだました。




