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テンシ  作者: 白龍
9/9

自我

光が世界を包み、自室へと帰ってくる。


心世界で最後に見たあの景色。



光が舞い上がり、自分以外の…。


「…」



…天使が、悪魔と戦う姿。




天使とは、自分一人ではなかったのか?



見たところ、あの時目撃した天使は、仲間と共に悪魔と戦ってるようにも見えた。

一瞬の出来事であった為、正確には分からない。

だが…確かに、光の中に複数の人影が見えたのだ。


…彼女に聞けば、全て分かる。


「…レイ」


ベッドに腰掛けていたレイは、冷や汗をかきながら目をそらしている。


例の男はいない。

長年付き合ってきた相棒と、二人きりだ。


…気弱な夜雨でも、今だけは遠慮なく聞ける。


「私以外にも、天使はいるの?」


最早、誤魔化しきれないと見たのだろうか。

レイは声を震わせながらも、真実を告げた。






「…夜雨みたいに」


一呼吸置いてから、続ける。


「夜雨みたいに不幸な人間が、天使の力を与えられるの。私みたいな…神の使いによって」

「…レイは神の使い…?」

友人として、相棒として同じ部屋で過ごしてきたレイが、神の使い。

唐突に、距離を離されたような感覚に陥った。


天使や悪魔がいるのだから、神の存在だってすんなりと受け入れられる。

だがそれ以上に衝撃を受けたのは…。


あの天使たち。


孤独な自分とは異なり、仲間がいた事だ。

レイは夜雨の疑問を察したように、説明した。

「…通常、天使同士は干渉し合わない事になってるの。でも、同じ不幸を共有する人間…例えば、親を失った兄弟だったり、同じ事故に巻き込まれて体の一部を失った被害者だったり…同じ事案の不幸の下に立たされた人間達は、グループとして戦う事を許されるの」

レイは夜雨の顔を見上げる。

「…夜雨は、昔から一人で苦しんできた。心をスムーズに通わせられる相手がいないから、独りで戦う事に…」

「そうじゃないっ!!!」

レイはひっくり返った。


夜雨の怒鳴り声。

初めて聞いた声だった。

想像以上に響き、想像以上に黒い。

昔から穏やかで、必ず自分に矛先を向けていた夜雨が、人を大胆に責める姿など想像もつかない彼女が、怒鳴ったのだ。


肩を震わせながら、彼女はレイにゆっくりと問いかけた。


「…私以外に、天使が…?私は、私は…」

…震えが収まっていく。力が抜けていく。


「…唯一の天使、じゃないの?」



レイは、答えられなかった。

…これを、恐れていたのだ。



夜雨の唯一の存在意義。

自分は、世界で唯一悪魔に対抗する希望であったという事。


夜雨も、薄々おかしい事には気付いていた。

悪魔は明らかに群生化した存在だ。あの虎悪魔だって、群れをなして襲ってきていた。

それに、悪魔達が毎回同じ場所に現れるのも不自然だ。

何もかも、夜雨の戦場として整い過ぎた世界。



…実際は、数多くの天使が心世界の決められたスペースを[担当]していたのだ。

レイが、遠くに行かないように言ってきたのも、他の天使の存在を知られない為。

夜雨の理想…この世で唯一の天使というイメージを構築し続ける為。


レイの視線が、足元に落ち…。


再度、夜雨を見上げた。



黒い瞳は、落ち着きを取り戻し、平常心へ戻っていた。

そう、平常心…。


あまりにも多くの不幸を蓄えすぎた、穢れに穢れたヒビだらけの心。

それが、今の夜雨にとっての平常心。


「…夜雨…ごめんっ…」

レイの声が潤む。それに対する夜雨の返事は…。



「…ごめん。レイ。レイは私の事を思って…黙っていてくれたんだね。なのに…私は」

息を呑むレイ。

こんな時でさえ、夜雨は…自分を責めようとしている。

「夜雨っ…!待って…」





「夜雨ぇ!!!!」

また別の怒鳴り声が響く。

今度は…下からだ。


父親が帰ってきたらしい。

最早正確な名前すら忘れた、あの父親が。

夜雨は…笑った。



(ダメっ!夜雨、行かないで!もうこれ以上無理したら…)

…言えなかった。

何を言っても、夜雨を苦しめるだけ。

唯一の天使という甘い夢すらも、砕けたのだ。





…おぼつかない足取り、整理がつかない心のまま、夜雨は階段を降りていく。


辿り着いたリビングには…父親が、拳を握りながら椅子に座っていた。

吸い殻だらけの灰皿が、真っ先に目につく。


「夜雨。テメェ、これはどういう事だ」


…父親は、スマートフォンを突き出した。


そこには…。


「…え?」




夜雨の写真が、SNSに投稿されていた。


倒れ込んだような姿勢、どこか見覚えがある。

だが…画面の夜雨の顔は、潤んだような笑みを見せていた。

制服を着ているが、あちこちがはだけ、足や腹を強調したような露出の多いアングルだ。


そして、問題は…写真の上部に大きく添えられたカラフルな一文。

[私とヤリたい人、募集中♥]




思考が追いつかない。

こんなもの、投稿した覚えなどない。


「テメェ、これは裏アカか?俺に隠れてこんな事してたんだな…?いつもクソみたいなドジをやらかす癖して、こういう事には随分力を入れるじゃねえか…怖い女だな?」

「ち、ちがっ…。お父さん、これはいくらなんでも…」


言い終わるより前に、父は立ち上がり、椅子を蹴飛ばし、夜雨に詰め寄る。


無言で彼女を見下ろすと…。






…気づけば、夜雨は家の前に放り出されていた。


腕や足には青い痣。

皮肉にも痛みが、意識を繋ぎ止めてくれていた。

冷たい夜風が体をすり抜ける。

足はピン、と真っ直ぐに伸び、コンクリートの地面の上、脳の指令を待っていた。


「…あっ」

追い出された事に、今気付く。


「…父さん。お父さん、お父さん!」

彼女は扉を叩く。

まさか、追い出されたというのか?


何故追い出されたのだ。あんなもの、投稿した覚えはない。覚えのない罪で、彼女は外界へ放り出されたのだ。

まだ父の夕飯も作っていない。まだ父の身の回りの世話を…していない。

家でやるべき事は山ほどあるのだ。こんな所で立ってる場合ではない。

「お父さん!!ごめんなさい!お父さんごめんなさい…!」

いくら叫んでも返事はない。

夜の町を行く通行人達が、夜雨を怪訝そうに見つめ、そして何も見ていないかのように通り抜けていく。

当然だ。面倒事に巻き込まれたくないのが人間の性。わざわざ首を突っ込んでまで誰かを助けようとする人間など、天使のような存在だ。

そしてそんな人間は、必ず仇で返される。そんな世の中だ。


夜雨は、気づけば手から力が抜けていた。



…何故、今の今まであの男をお父さんと呼んだのか。

彼は自分の事をもう娘などと思っていないし、これからも思う事はないだろう。


…学校の連中も。

あんな投稿、やつらにとっては絶好のネタだ。


どこへ行けば良い?どこを目指せば良い?


(誰か、誰か教えて)

機械のような足取りで、彼女は歩む。

目的地などない。ただ、足が勝手に動くのだ。

体が何かを求めている。何かを求めて動いている。

なのに、頭はもう、何を求めているかも分かっていなかった。


あまりにも連なる不幸の連鎖。思考を塗り固められ、心の身動きが取れなくなっている。


夜雨は、とっくに手遅れだった。


今の夜雨に笑みはない。かと言って、苦しげな表情でもない。


無表情だった。














夜の街。




「ママ〜、パパがまた怖い話する〜」

母親に泣きつきつつも、どこか楽しげな幼い少女。そんな彼女を抱きしめて笑う母親と、二人以上に、輝かんばかりの笑みを見せる父親。

外食帰りの、何の特徴もない家族が、幸せそうに歩いていた。

彼らの周りを通り抜ける人々もまた、日常へ溶け込み、[この世界]を生きている。

友人と話し合うサラリーマン、恋人と連絡をしあっているであろう女性、工事に勤しむ作業員、涼し気な道をジョギングする男性。


街の時間は、誰にでも等しく平等に流れている。

幸せ、不幸せに関係なく。





…木々の陰から、小さな人影が覗き込んでいた。


無表情で、しかし息を荒げて。


「……………」

黒く、光のない目。

右手には…本来雑草を刈り取る際に、裏庭に置いていた鎌。


かつて父と呼んだあの人に仕事を押し付けられ、小学生の頃から持たされてきた鎌。

使い古されつつも、その刃先は街灯の光を受け、怪しく輝いている。


まだ、切れるはずだ。




夜雨は、今抱えてる感情の正体を知っていた。

なのに、どうしてこうも、完全に理解が及ばないのだろう。



憎しみ。



そんなものを抱えても、意味はない。

それこそ、人を傷つけてしまう。


なのに、体が言う事を聞かないのだ。


体が。


心とは別物になりつつある、体が。




夜雨は鎌を振り上げる。


日常が、憎い。

世界が、憎い。


























「今度会わねえか?良いレストラン見つけたんだよ」


日之影家。

父は、煙草の吸殻を灰皿に押しつけながら、[次の愛人]との通話を楽しんでいるところだった。

娘などもう忘れてる。

いや、彼女を娘だなどと、ずっと前から思っていなかった。

道具や奴隷とすら、思っていない。


そもそも夜雨に興味や印象もなかったのだ。

いくら殴っても、結局謝るだけ。その後も何だかんだで自分の為に料理を作り、あらゆる家事をこなしてくれる。

どうせこの後もここに帰ってきて、いつもの調子に戻るだろう。

面倒事は全て任せて、自分は仕事先で仲良くなった女性と楽しむ。

夜雨より先に自分が死ぬのだから、一生楽していける。

(俺ってば、勝ち組だよなぁ)

通話先の相手に上手く返事をしつつも、頭のなかでは自画自賛の嵐だ。



…玄関から、何かを叩く音が聞こえてきた。



(ほらな、帰ってきやがった)


…あの投稿の件も、実は夜雨本人が投稿したものだとは思っていない。

あんな気弱な少女があんな大胆な投稿を世界中に晒せるなど、到底ありえない話だ。

だが夜雨を常に恐怖で支配する為、彼はあえて夜雨を疑い、夜雨を殴り、そして追い出した。


あの投稿…既にかなり広まっているようだ。

これだけ広まれば、犯人も直に発覚するだろう。

まあなんとかなる。

軽い気持ちで、彼は扉に手をかけた。


不機嫌な表情を作りつつ、勢いよく扉を開き、怒号を上げる。


「テメェ!!ほんとに出ていくやつがあるか…」


言葉が、途中で止まる。



目の前にいたのが人間である事すら、すぐに認識できなかった。



「…よさ、め…か?」



目の前にいた、[娘]の姿。


虚ろな目。黒く染まった目。



手には…鎌。



全身には…。




真っ赤な血。



赤く染まった手、足、顔。


口元は…満面の笑み。




「あはっ…」


ここまで笑った夜雨は、はじめてかもしれない。


「…お、おい」


天井を見つめ続ける夜雨。

いや、天井ではない。虚空を見つめているのだ。

血の臭いが、鼻を突く。ごく日常的な家に、あまりにも物騒な臭いが容赦なく広がっていく。


父親は、流石に後退りした。

目の前にいるのは娘ではない。


誰かを、大勢の人間を…その手にかけたのだ。



「…き、貴様…貴様というやつは…」

怒りと恐怖が渦を巻く。

目の前の壊れた人間。その姿は、堕落し、甘やかされてきた彼には刺激が強すぎた。


拳が震え、足が震え…この歳になって、知らぬ間に小便を漏らしていた。


「夜雨っ…お前、とんでもない事を…」

いつまで経っても動かぬ夜雨を見上げ、父親は怒号をあげようとした。震える声で、情けない声で…。


「あは、はははっ、あはははは」

壊れた玩具。

そんな笑い声が、父親を再び圧する。


その時。


父親は…ちらりと見た。

全身を震わせて笑う夜雨の服とスカートの、僅かな乱れ。


その裏から見えた、彼女の足や腹。




…無数の切り傷が、刻まれていた。




「…は?」


夜雨は、確かに誰かを殺そうとした。


だが彼女は結局、守ったのだ。

母との約束。

誰かを傷つけてはならないという、呪縛。

そして、いつまで経っても捨てられない…優しさ。その優しさゆえに向けられる、自分自身への怒り。

…傷が熱を帯び、湯気すら立ち上りそうだ。



「あっは…!あはーっはっはっはっは!!」

「夜雨ぇ…!?よ、夜雨っ…」

皮肉にも父親は、今までにない程に娘の名を呼んでいた。









…その時。





夜雨の中で、何かが限界に達した。







「……あははは…」








目から。






熱が、こぼれた。







頬を伝い、落ちる。








「…え?」












それは、何だったのか。



もう思い出せない。



もう戻れない。








「あっ…がっ…」




全身が熱い、全身が痛い、全身が苦しい。



夜雨から、黒いものが溢れ始めた。

溜め込み続けてきた何かが、彼女から溢れ出し始めたのだ。


「あ゛っ!!が……」


喉を押さえ、震える。


何かが、何かが生まれようとしている。



苦しい。苦しい。苦しい。





苦しい!苦しい!苦しい!









…ここから遥か離れた建物の屋上。


都会の喧騒を見下ろしていたあの男が、何かを察知した。

「…神も、残酷ですな」




そして…。







「…夜雨ええええ!!!!」

悲しみと焦燥に狂乱した、唯一の相棒の声が、日之影家にこだました。


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