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テンシ  作者: 白龍
7/9

誇り

毎日毎日絶え間なく胸を突き刺す無数の不快感。

肉体的な疲労に重圧をかけられ、精神的な疲労は体の中から全身を蝕む。


夜雨は、悪魔に斬りつけられた腕に貼り付けた湿布を軽く撫でながら、いつもの通学路を歩いていた。


…と言いたいところだが。


あの通学路は…例の出来事があった場所だ。

「…」


彼女はその道を避け、少し遠回りで校舎へと向かっていた。


どうせ今日も何かがあるのだろう。

一体どんなスリルが待っているのだろうか?

結月に殴られる?それとも後藤からため息をつかれる?

結月の取り巻きにゴミでも投げつけられるか、名前すら忘れたクラスメートから、わざと聞こえるような陰口を吐かれるのか。


(あー、楽しみ)

心の中でそう呟く夜雨の目には、一片の光も宿っていない。

ストレスに対する構え方が、最早狂いはじめている。

楽しい出来事と心を直結する糸が、いつの間にか悪い出来事に繋げられていた。

その癖、その悪い出来事が起きれば、心に流れるのは楽しさではなく、首を締められるような黒い感覚。


夜雨は、壊れ始めていた。




いつの間に学校についたのだろうか。




彼女に、記憶の欠落が起き始めていた。

少しずつ、少しずつ始まったのだ。


「…あ」

これの何が悪質なのかというと、不注意で済まされるような事から始まった事だ。

その日、彼女は教科書を家に忘れた。いつもなら結月達に隠されているが、この日は、本当に自宅に忘れてしまっていた。

加えて、本日の時間割も忘れ、体操着すら家に置いてきてしまった。

本日あるべき物が無くなっている光景に、彼女は大いに焦る。

(…自分から[種]を植えるなんて…。何してんの、私…)

奥歯が自然と食いしばるのを感じる。

極度に自己肯定感の低い夜雨にとって、このミスは大いに苛つきを募らせるものだった。


撒かれた火種は、すぐに燃え上がる。


「日之影…」

教科書と体操着を忘れたと後藤へ申告に向かうと、彼はいつも以上に深い溜息をつく。

その目、その態度を見れば、彼が考えている事が何となく伝わる。

ダメな生徒を正してやろうという、一種の正義感…それが、後藤を突き動かしているのだ。

そして、その正義感すら、仮面に過ぎない。


本当は、気が弱く、何も言い返さない夜雨を[大衆]の前で虐げるのを、楽しんでいるのだ。


支配欲、人間の本質。

彼は、群れのリーダー。


「そろそろはっきり言わせてもらう。お前は…相当な馬鹿だ」

その声は、張り上げられたものだ。

明らかに、周囲のクラスメートの視線を引きつけようとしている。そして彼の思惑通り、クラスメートの視線は教室の最前、教卓へと集中した。

夜雨は、彼らから視線をそらすように、後藤の言葉をただ聞いていた。

「いつもいつも何かを忘れ、同じミスばかり繰り返す。そんなんで社会でやっていけると思ってるのか?」

教卓にのせられる、後藤の手。

指先一つ動かさないその姿…何かの音声を読み上げる人形のようだ。

「お前の家系が大変な事は知っている。母親を幼くして亡くしたそうだが…さては、それを理由に気を抜いているんじゃないだろうな?お前はいつも被害者のような顔をしている。そのくせ、笑う時は笑う。…自分を可哀想だと思っていないか?」

「クーズ、死ねー」

便乗するように、結月の声が投げかけられた。

単純な一言、そして、続く笑い声。

真顔で沈黙する後藤。


言い返せない自分。



心臓が、悲鳴をあげる。


そして涙は出ない。







…その日の放課後。


教室の掃除当番。

夜雨の班が、箒や雑巾で教室の清掃を行なっていた。

周囲のクラスメートの楽しそうな話し声のなか、夜雨はただ、黙々と箒を動かしていた。

勿論、言葉など出ない。

他のクラスメートや後藤にとっては、アレはあくまで日常の一環…夜雨という玩具を使った遊び。

日々様々な理由で溜め込んできたストレスを、夜雨へ吐きかけ、彼女の背中へ募らせる事で解消していく。


クラスメートにとっては、教師、後藤という絶対的な味方がいるから、遠慮なく夜雨を虐げられる。

後藤にとっては、クラスメートという、訴えられた際の盾となる最高の嘘の証人達が自身を守ってくれている。

人間とは、一人を虐げる際に、思わぬ連携を発揮するのだ。


そして、一人になった人間は…それらに対してあまりにも無力。


今、床のゴミを認識し、箒を動かしているのが奇跡のようなものだ。体が、まだこんなに言う事を聞く。脳がまだ動く。


が、目眩が酷い。世界が常に回るようだ。


「夜雨、バケツに水汲んできて」

誰かの冷たい声。

夜雨はよろよろとした足取りで、教室から出ていく。

このまま逃げ出したい。しかし、逃げれば…また大きな壁に阻まれ、そして虐げられる。




…バケツは、すぐに一杯になった。

蛇口を捻って止め、取っ手に手を伸ばす。


「…」

直前、水に映った自身の顔を見る。


何も感情が湧かない。

ただの皮膚が、水に映ってる。


…取っ手を持ち、力任せに持ち上げる。


腕に力がこもり、脳が驚いたのか…一際強い目眩が襲う。


「…あ」

彼女はバランスを崩し…バケツを手放してしまう。


水がぶちまけられる音が、廊下の大気をも濡らす。








「…おい」






…運命とは、容赦がなさすぎた。



「…あ」




夜雨の背後、つまり水をぶちまけた先にいたのは…結月。

自慢の金髪は乱れ、濡れきり、重力に引っ張られて床を向いている。

制服はぐしゃぐしゃに濡れて、胸ポケットにつけていた人気アイドルグループのマグネットキーホルダーも、濡れた事で嫌な輝きを放ってる。


時が止まった。


「…テメェエエェェ!!死ね!!」

床に落ちたバケツを拾い上げ、夜雨の顔を殴りつける結月。

壁に叩きつけられる夜雨の顔に、足が振り下ろされ、彼女の髪を踏みつけ、時々離して頬を蹴り飛ばし、床に叩き伏せる。

動けない夜雨に、バケツを何度も叩きつける結月。

あいにくこの時間は、他のクラスの生徒もほとんど残っていない。この騒ぎに駆けつけてきたのは、結月の取り巻きだけだった。

「ちょっと、やめなよ結月…」

その言葉に反して、彼女らの口角は上がっている。勿論結月は止まる事はなく、むしろますます勢いをつけていく。

「クソ夜雨…!テメェ、私の事を馬鹿にしてんだろ?少し色々言っただけでよ…」

蹴られたことで制服が乱れ、使い古されたバケツの角が頬に擦れた事で切り傷もつけられた夜雨…。

結月は突如動きを止めると、ポケットに隠していたスマートフォンで、夜雨の写真を撮り始めた。


…そして、無言のままその場から走り去っていく。

最後の行動は、取り巻き達ですらも理解が及ばなかったようだ。

「おい結月ーっ!どこ行くんだよ!待てよ!」

夜雨になど目もくれず、彼女らも走り去っていく。


夜雨は、しばらくその場に倒れこみ、冷たい空気に身を投じていた。






そして、また記憶が飛ぶ。



自宅の前。


夜雨は、体の至る場所に痛みを感じていた。

主に頬と腕だが、何やら喉にも熱いものを感じている。

ここへ来る途中、どこかでまた吐き戻したのかもしれない。

自分の体の中から、何かがどんどん消えていく。




無言で、扉を開く。

無言で、靴を脱ぎ。


無言で、父のいる部屋の前を通り過ぎていく。



「…おい、帰ったなら帰ったと言え」

…扉が僅かに開き、威圧的な表情の父の目がこちらを睨みつけてきた。


「ただいま」

感情のない声が、返された。




気づけば、自室も楽園に感じられなくなってきていた。

本来ならレイと二人きりで話す、一日で唯一、人間として認められる時間。

自分を人間として認めてくれる相手との時間。


だが。

最早それすら、今の夜雨には許されていない。



「おかえり、夜雨!」

いつもの定位置、ベッドの上。

人形サイズのポップコーンを口に運んでいたレイが、夜雨を見る。


…何故、こんな人形しか友達がいないのだろうか。

そんな考えが一瞬、頭をよぎり、ハッ、と、その考えを脳内世界で殴り飛ばす。

唯一の味方すら、自ら手放そうとした自分に、ナイフでも突きつけたくなる。


「…ごめん、ごめんね、レイ…」

「え?よ、夜雨…?何で突然謝るの?だ、大丈夫?」

明るく陽気なレイの困惑した顔も、最早何度見た事か。

何故ここまで。

何故ここまで、他者に迷惑をかけてしまうのだろう。


結月を濡らした件だって、自分の不注意。

いじめられるのだって、自分の気が弱いから…。

この目眩も、胃の痛みも、動悸も、頭痛も、震えも、何もかも、元はと言えば自分のせいではないか。


(笑顔はどうした、笑顔は)



…その笑顔も、最早限界が近づいている。


「大丈夫だよ」


その笑顔に、レイは鳥肌に近いものを感じてしまった。


真っ黒に塗りつぶされたような表情。

目だけが闇の底に投じられている。

口元は糸で縫い合わされたかのように、無理やり口角を上げている…。





「…愚かなお嬢さん」


…突如、男の声が耳に飛び込む。


先にその存在に気づいたのは、レイだった。

「…え!?おわああ!?あ、あんた!いつからそこに!?」



…部屋の隅に、あの仮面の男が立っていた。

心世界以外で遭遇するのは初めてだ。てっきり心世界のみの存在かと思っていたが、どうやらこの現実世界でも問題なく行動できるらしい。

「お邪魔してますよ。さて、無駄話も必要ないでしょう。次の被害者…それをあなたがたにお伝えに来たのですよ。ついでに…お嬢さん。あれからあなたの考えが変わったのかを確認する意味も込めてね」

男は、夜雨にもレイにも視線を向けていないようだった。窓の方へ顔を向けたまま、表情の読めない姿で語りかける様は、独り言を呟いているようだった。

そんな声、彼は…はっきりと、夜雨へある事を伝えた。






そう、淡々と…こう言ったのだ。









「次の被害者は、結月さんです」












レイの口が開く。

彼女の目が震え、小さな手からはポップコーンが落ちる。

床に散らばる白い塊。

ベッドから落ちそうになりながら、レイはその現実から目を背けるでもなく…ただ、自身の内に浮かび上がった感情を露わにした。

それは…怒り、そして悲しみ。

「そ、そんな…!そんなのって…!」

その怒りが、誰に向けたものなのか、自分でも分からなかった。



だが悲しみの向かう先だけは、はっきりしていた。


天使、夜雨だ。

どうしてこうも、彼女は自分の首を絞める相手の手を手伝うような事をしなくてはならないのだろう?


「…夜雨。結月って、あの…あなたを虐めてる…あの結月…」


夜雨の顔を見上げるレイの顔は恐怖に満ちている。


その恐怖が何故来るのかも、はっきりしていた。



「分かった。助けるよ」


…夜雨のこの一言が、何となく予想できたからだ。


その一言に、躊躇すら無かった。

自分を精神的にも肉体的にも虐げ散らし、ここまで追い詰めた相手。

…悪魔などより邪悪と言える存在、結月。


そんな彼女を助ける事に躊躇しないなど…いくら夜雨が優しいと言えど、本能が拒絶するはずだ。

ならば何故…この解答を選んだのか。



…答えは簡単だ。




本能すら、壊れ始めているのだ。

「ま、まって…夜雨っ!今回ばかりは、やめようよ!」

レイは夜雨の手を握ろうと、必死に手を伸ばす。

だが、人間と人形…。その手が交わる事はない。

「よ、夜雨は十分すぎるくらい頑張ってるよ!結月を助ける必要なんて…な、無いと思うよ!一度くらい悪魔の餌食にしちゃっても…!」


「私は天使だから」

夜雨の手は、レイの横を通過し…。


枕の下から、小さな聖水瓶を取り出した。

男は止める事なく…腕を組んでそれを見守る。




「夜雨ぇ!!だめっ!!」

レイの叫びも虚しく…。


光は 、部屋を包みこんだ。




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