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テンシ  作者: 白龍
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強情

自身の命が危険に晒されていたとも知らず、教卓に手を置いてホームルームを進める後藤の姿は、呑気なものだった。

彼にとって、毎日というのは色のない時間によって構成された、退屈な時間の連続。悪魔や天使の存在を知った時、彼は驚くだろうか、それとも未知の存在に純粋な興奮を抱くだろうか。

ましてや、その天使が、この教室にいる事を知れば…。



(良かった…)

夜雨は、ただそれだけ、心の中で呟いていた。

もし昨日悪魔を倒さなければ、今頃後藤は無残な姿で命を落としていただろう。

悪魔に殺され、心臓を消された人間はただでは死ねないらしい。魔力で命を無理やり引き留められ、見えない力で全身を裂かれるとも、錯乱して精神が破壊され、幻覚への恐怖のあまりショック死するとも…。


後藤には、傷一つついていない。本来ならば、生の喜びを謳歌すべき状況であった。

(レイにも感謝しないと。レイが教えてくれなきゃ、悪魔に気づけないもんね…)

…彼女の手に乗る、軽い感触。


…机の上に何かが落ちてきた。

クシャクシャに丸められた紙くずだ。

何が書いてあるかは、大体予想できている。


(…今日は、死ね、かな)

紙を手に取り、素直に広げる。


今日のメッセージは…。


(…死ね、消えろブス、か。惜しいな)

横の方から、鈴のような、控えめな笑い声が聞こえてくる。


(今日も同じような事の繰り返しかな)

後藤が色のない毎日ならば、夜雨は色のない、ひび割れた毎日だった。




…そして、放課後。


幸い、今日は結月の呼び出しもない。時間通りに帰る事ができそうだった。


通学路の住宅地。

行きも帰りも、憂鬱な空気、不穏な空気が入り混じる、夜雨の生活の境界線。

その境界線に敷かれた二つの世界、自宅、学校。どちらも大差はない、廃れた場所に感じていた。

「レイが待ってる…今日は何の悪魔だろう?」

唯一の楽しみは、非日常への干渉。

何度も何度も考える…。自分は、特別なのだと。

だから…虐めなどに負ける訳にはいかない。



「…?」

ふと、何かを感じる。


これは、気配…更に言えば、視線だ。

天使として戦い続けてきた経験の賜物だろうか、彼女は人並み以上に、感覚が研ぎ澄まされていた。

恐る恐る、振り返る。


夕暮れに差し掛かろうとする空の下、逆光の中に立っていたのは…。


大柄な男だった。


「…やあ、こんにちは」

「…え?」

見覚えがない男だ。

古めかしい、よれた服装、完全に擦り切れていないみすぼらしい髭。

どこにでもいそうな男だった。

だが異常なのはその目だ。

何かに飢えたような、それでいて既に満たされているような…飢餓感と満足感が入り混じったような、嫌なものを感じさせる目。

息が荒く、時々チラつく歯は黄ばんでいる。


「あ、あの…」


夜雨が声を発すると…。



男は突然、彼女の制服を掴む!

「えっ、ちょっと!!」


ここは人気の少ない寂しげな住宅地。

その光景を目撃している者は、誰一人としていなかった。


近くの、薄暗い住宅の路地裏に飛び込み、男は夜雨の口を手の平で塞いでみせた。

「へへ…可愛いね…おじさんちょっと暇でさ…へへ…」

静かに囁きかけるような声。熱い吐息が夜雨の耳に吹きかけられる。

口を塞がれて、声が出ない。男の力は強く、夜雨の全身の力を、腕力だけで完全に封じてしまっている。

彼女が思うように動けず、手足をばたつかせるその姿もまた、彼の興奮を余計に誘ってしまうらしい。

「大人しくしてて…。少し触れ合うだけだから…」


スカートのホックが、強引に外される。

夜雨の肌の隙間から、男の手がゆっくりと這い寄ってくる。


「…っ!!」

夜雨の目が潤む。


太腿を撫でられ、下着に触れられる。

男は歯を見せて鼻息を荒くする。汚らしい顔つきが、更に醜く歪むのが、視界の隅に映り込む。

「はあっ…はあっ…」

彼は無我夢中で、夜雨の尊厳を、優しく、優しく…砕いていく。


「あっ!!」

あまりの不快感に、夜雨の体に渾身の力がこもった。恐らく、天使の力が体に少しばかり残っていたのだろう。

下劣極まりない男の拘束から、飛び出すように逃れた。

「はあっ…!!」

呼吸すらままならない。ここまでの恐怖は…悪魔との戦い以上だ。

悪魔よりも、遥かに醜いその[怪物]から、夜雨は逃げる。

日頃の疲れなど忘れ、恐怖に背中を押されるがまま。

路地裏から飛び出し、自宅へと流れ込むように…。




ひたすら走る事に集中した夜雨。

気がつけば、玄関で背中を丸めていた。

息が切れ、いつもの目眩が襲い来る。

とんでもない事をされてしまった。だが、それがどんな事だったのか、記憶が無い。

短時間で浴びせられたショック。その量は、脳の許容量を遥かに上回り、記憶の欠落すら起こしている。

が、触れられた感触…それは、本能に刻まれている。

体が震え、鳥肌が立ち…。

それが、あの記憶を思い出させていく。



「…ぷっ」

喉から、何かがこみ上げる。

幸い、父はまだ帰ってきていない…。







「……あ゛っ…お゛ごおおっがぁっ…!!!」


三十分、彼女は便器に向かって吐き続けた。


なのに、涙が出ない。


出るのは、胃液ばかりだ。






「…今日は一段と顔色が悪いね?」

レイは、人形サイズのバナナを頬張りながら、目の前の夜雨をまっすぐ見つめていた。

夜雨の顔は、青ざめている。

何もかもを吐き出し、体が疲労したおかげで、脳も疲れ切ってくれた。

次々蘇る記憶も、今は霞に隠れてくれている。

それでも…返事ができない。


レイは次の一口に出るより前に、一つ、確認した。

「今日は心世界、やめとく?」


今日一日だけで、二日分の疲労とストレスを味わい、一生消えぬであろうトラウマも与えられた。

あの出来事を通報する体力もない。ただただ、疲労、そして…痛み。


そんな状態で心世界で、悪魔との激闘。

天使の力といえど、どうなるか分からない。


それでも…と、彼女は考えてしまう。


「はあ。今日も何かされたみたいね。何があったのか言ってくれないと、分からないよ」

夜雨が何をされたのか、レイは知らない。いつもなら、学校や家…この自室という名の楽園の下で起きた出来事を聞かされているのだが、今回、夜雨は塞ぎ込んだままなのだ。


「…あの仮面野郎も現れるかもしれないし…やめとこうか…」

「いや」

夜雨は、俯いたまま立ち上がる。


「私、行く」


レイは、口を開けたまま夜雨を見上げた。

「…そうなの?…やっぱり、これが唯一の…使命だから?」


夜雨の目は、前髪に隠れてよく見えない。


…レイは、何かを期待した。

その目が潤んでいるのではないかと。

いつも泣かない彼女が、ついに涙を流すのかと。


…いつまで経っても、頬に光が伝う事はなかった。




「うん」

代わりに見せてきたのは、やはり、笑顔であった。


そうだ。

自分は今からこの現実から離れられる。

今から、悪魔と戦い、人々を守る戦士となれるのだ。


おとぎ話の登場人物のように、勇ましい戦士に。



「…夜雨。あなたの意志は尊重する。だけど…もし危なくなったら、絶対私に言ってよね」

「分かってるよ。さあ、早く」

聖水が、掲げられた。







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