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テンシ  作者: 白龍
3/5

淀み

天使として活動し、人々の為に命をかける。

それが彼女の唯一の存在理由であり、自分以外の誰にもできない事。

私はこの為に生まれてきた、悪魔を倒す為に生まれてきた天使なんだ。

人外がもたらす出来事は、神の存在を思わせる。

そして人の希望における最後の砦もまた、神の存在…神への祈り。


夜雨の心は、たった一本の糸で、長い間保たれ続けてきた。

それがいつまで続くか…あえて考えない事にしている。


不安になるだけだから。


「おいクソ女ぁ!」

その日は、校門前で早速、泥水をかけられた。

登校前だと言うのに、靴の中まで汚れきる。


周囲の生徒の足が止まり、泥水まみれの夜雨へ目を向ける。

困惑したようなどよめきが、彼女を囲む。面白がっている声ではない。

「流石にやりすぎじゃないの…?」

大人しそうな声が、ちらりと聞こえてきた。

全員が全員、夜雨の敵という訳ではないのだ。


…が、味方でもない。


しばらく相談しあうような様子を見せ…そして、その焦りの表情とは不釣り合いな程、あっけなく、校舎へと歩いていく。


「うわー、朝からきったねえな!」

結月の陽気な声。やはり彼女だった。

その場から動かない夜雨に、バケツ片手に近づいてくる。

わざわざ校庭裏の泥濘んだ場所から泥を集め、水道の水で泥水を作ったようだ。

結月の手の込んだ虐めにより、一つの未来が確定した。

制服を汚したので、父にまた殴られる。

父に不快な思いをさせてしまう。

「…っ」

夜雨の目が、一瞬…結月を睨む。

目が合った瞬間、結月の顔が無表情に変化した。威圧するでもなく、けれども臆したような意志も見られない…無表情。

人を縮めるのに慣れきった者の顔。

「…あ?」


…夜雨の怒りを、恐怖が無理やり縮めてくる。


「…あはは、汚れちゃった…」

笑う。

笑わなくてはならない。

最早笑顔は、義務だった。


「きもっ、死ねよマジで」

投げつけられるバケツが、夜雨を押し倒す。

泥水の上に落ちる夜雨。スカートの隅まで汚れきってしまった。


沈黙する夜雨を、結月はしばらく見つめていたが…飽きたのか、それ以上何も言わずに去っていった。


十秒程、夜雨は固まる。


泣いてはいけない。

泣いたら、悲しみのあまりおかしくなってしまう。



…また笑った。




「おい、日之影、大丈夫か」

また聞き覚えのある声が飛び込んでくる。


…担任の後藤だった。

「…後藤、先生」

立ち上がり、泥まみれの姿で彼と向き合う。

後藤は、いつも通り眼鏡を光らせ、気難しい顔で夜雨を見下ろしてくる。


「…またやられたのか。あいつには私からよく言っておこう」

そう言って、何とかなった試しがない。

彼はこう見えて小心者…このクラスの女王たる結月に小言を言えるような肝はないし、例え言ったとしても、あの結月がピタリと止まるなど…隕石を止めるような話だ。

「…ありがとうございます」

笑ったまま絞り出した声は、喜びの欠片もない。

後藤の事も信用していない。というより、できなかった。

本当ならば、彼を嫌いたくないし、生徒として彼の言う事を信じたい。


…本能が、それを拒絶するのだ。


「…だがな、日之影。お前もお前だ」

腰に手をやり、彼は夜雨を見下すような目を向ける。

「お前がいつもそんな態度だから、あいつらもあいつらで苛立つんだろう。少しはやり返せ。今の時代、受けっぱなしは舐められるだけだぞ」


…本当ならそうしたい。

だが何かしらの形でやり返せばどうなるか?


更なる倍返しが来るに決まってるのだ。


「…本当に、すみません。ごめんなさい」

「はあ…謝ってばかりで済むと思うなよ全く」

面倒…その一言が、彼のため息に込められている。



その日は、泥まみれのまま過ごした。

幸いにもその日の結月の攻撃は、あの泥水がピークだったらしい。陰口こそ聞こえてきたが、最早そんなものは慣れっこだ。

泥は制服に染み込み、最早取れそうにない。

みすぼらしさを極めたようなその姿が、彼女をよりその教室から浮かせてしまっていた。



そして。



「テメェ…どれだけ俺に迷惑をかければ気が済むんだクソが!!!」


案の定。

父の拳が頬を打つ。


泥だらけの制服は壁際に投げ捨てられ、夜雨本人は…下着一枚にされていた。

壁に叩きつけられ、ブラジャーを掴まれ、何発も何発も、頬を殴られる。

痣に叩き込まれる鉄拳制裁。激しい目眩が起きる。

痛い、怖い。

目の前にいるのは、鬼だ。

地獄の鬼だ。

金棒を持ち、自分を殴り続ける。まるで親を殺されたような勢いで。


ある程度殴ると、彼は夜雨を放り出し、リビングへと戻っていった。

凄惨な殴打の数々、その終わり方は、あまりに呆気ないものだ。

朝の結月を、思い出させるものだった。



頭蓋骨がひび割れたような激痛が、顔を鷲掴みにする。

裸体を晒された羞恥心、これがまた明日もあるかもしれないという恐怖。

あまりにも重すぎる重りを背負い、彼女はゆっくり立ち上がり、制服を手に取る。





「おかえり〜」

そして、楽園に戻る。


夜雨の前に広がる非日常。


「…ただいま」

歯を見せて笑う夜雨。

意味もなくレイの横に座る。


「これはまた。派手にやられたね」

「痛かったよお」

頬を擦りながら、夜雨はあどけない笑みを見せた。痣だらけの顔に、鞭を打つような笑み。

レイはいつも通り足を揺らし…ポケットから極小サイズの飴玉を取り出すと、それを口に放り込む。

口の中で飴玉を転がす姿は、あまりにも人間じみている。

そして、次の一言も。

「…よく、泣かないね?」


夜雨が日々気にしている事。

それは泣かない事だ。


泣けば、負ける。泣けば、屈した事になる。

そうしてしまうと…ほんの小さなプライドも放棄した事になる。

敗北、敗北、敗北…。

その言葉が重複し、目を締めるのだ。

「…泣いたら惨めでしょ?私、強くなりたいの」

「へえー。強くなりたいのか」

レイは少しの間、黙りこむ。

静かになって、はじめて人形らしさが現れる。

整いきったパーツの数々。いつまでも新品同然のその美しさは、新品の人形を買ってもらったような気分にさえ陥る。

そんな事は、あり得ないというのに。


正直、このまま風呂にも入りたくない。

料理も作りたくない。

ずっと、レイのそばにいたい。



レイも、そう思ってくれてるだろうか。


「ところで、悪魔来てるわよ」


…非現実的な言葉で、現実に戻される。


「…出番だね」

夜雨は頷く。

ようやく人の役に立つ時間が来た。レイを急かすように貧乏揺すりを始める夜雨。待ち切れない様子は、本当にこの時間を愛してるのだと悟らせる。

聖水を取り出すレイの動きを目で追いながら、夜雨は無邪気に聞く。


「今回はどんな悪魔が相手なの?」

「どうやら集団みたい。槍を持ってて、人間に近い形をしてる。でも一人一人は悪意の結合性が弱いから…簡単に倒せるはずよ」



…心世界に飛んでいる間は、現実世界の時間は停止する。

悪魔を倒せば、現実世界へ戻って来る事ができる。

悪魔を倒さなければ、永遠にあの世界へ閉じこもっていられるのだが…。


そんな選択肢は頭になかった。

被害者を助けたい。ただ、それだけを考えていた。

「ちなみに…今回の被害者はどんな人なの?」

レイの手が宙に掲げられたまさにその瞬間での質問だった。


レイの、輝く瞳だけが…夜雨に向けられる。


…一瞬、言葉を飲み込もうとしていたようだった。



「え?レイ?」

ハッ、と意識を取り戻したレイが、呟いた。



「…後藤だよ」



…あの、無力な傲慢教師。


レイは、夜雨から色々と話を聞いている。後藤の事も、彼女は知っていた。


直接いじめには関与していないが、それをほぼ黙認し、夜雨を救える力を持ちながら傍観を続ける彼。

夜雨が彼に良いイメージがある訳がない。



「…大丈夫?」

レイは陽気で、基本一方的に話をする。

そんな彼女でさえ、声は淀んでいた。



しかし。


それは愚問だった。



「…助けるよ」



光が、部屋を包み込む。




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