淀み
天使として活動し、人々の為に命をかける。
それが彼女の唯一の存在理由であり、自分以外の誰にもできない事。
私はこの為に生まれてきた、悪魔を倒す為に生まれてきた天使なんだ。
人外がもたらす出来事は、神の存在を思わせる。
そして人の希望における最後の砦もまた、神の存在…神への祈り。
夜雨の心は、たった一本の糸で、長い間保たれ続けてきた。
それがいつまで続くか…あえて考えない事にしている。
不安になるだけだから。
「おいクソ女ぁ!」
その日は、校門前で早速、泥水をかけられた。
登校前だと言うのに、靴の中まで汚れきる。
周囲の生徒の足が止まり、泥水まみれの夜雨へ目を向ける。
困惑したようなどよめきが、彼女を囲む。面白がっている声ではない。
「流石にやりすぎじゃないの…?」
大人しそうな声が、ちらりと聞こえてきた。
全員が全員、夜雨の敵という訳ではないのだ。
…が、味方でもない。
しばらく相談しあうような様子を見せ…そして、その焦りの表情とは不釣り合いな程、あっけなく、校舎へと歩いていく。
「うわー、朝からきったねえな!」
結月の陽気な声。やはり彼女だった。
その場から動かない夜雨に、バケツ片手に近づいてくる。
わざわざ校庭裏の泥濘んだ場所から泥を集め、水道の水で泥水を作ったようだ。
結月の手の込んだ虐めにより、一つの未来が確定した。
制服を汚したので、父にまた殴られる。
父に不快な思いをさせてしまう。
「…っ」
夜雨の目が、一瞬…結月を睨む。
目が合った瞬間、結月の顔が無表情に変化した。威圧するでもなく、けれども臆したような意志も見られない…無表情。
人を縮めるのに慣れきった者の顔。
「…あ?」
…夜雨の怒りを、恐怖が無理やり縮めてくる。
「…あはは、汚れちゃった…」
笑う。
笑わなくてはならない。
最早笑顔は、義務だった。
「きもっ、死ねよマジで」
投げつけられるバケツが、夜雨を押し倒す。
泥水の上に落ちる夜雨。スカートの隅まで汚れきってしまった。
沈黙する夜雨を、結月はしばらく見つめていたが…飽きたのか、それ以上何も言わずに去っていった。
十秒程、夜雨は固まる。
泣いてはいけない。
泣いたら、悲しみのあまりおかしくなってしまう。
…また笑った。
「おい、日之影、大丈夫か」
また聞き覚えのある声が飛び込んでくる。
…担任の後藤だった。
「…後藤、先生」
立ち上がり、泥まみれの姿で彼と向き合う。
後藤は、いつも通り眼鏡を光らせ、気難しい顔で夜雨を見下ろしてくる。
「…またやられたのか。あいつには私からよく言っておこう」
そう言って、何とかなった試しがない。
彼はこう見えて小心者…このクラスの女王たる結月に小言を言えるような肝はないし、例え言ったとしても、あの結月がピタリと止まるなど…隕石を止めるような話だ。
「…ありがとうございます」
笑ったまま絞り出した声は、喜びの欠片もない。
後藤の事も信用していない。というより、できなかった。
本当ならば、彼を嫌いたくないし、生徒として彼の言う事を信じたい。
…本能が、それを拒絶するのだ。
「…だがな、日之影。お前もお前だ」
腰に手をやり、彼は夜雨を見下すような目を向ける。
「お前がいつもそんな態度だから、あいつらもあいつらで苛立つんだろう。少しはやり返せ。今の時代、受けっぱなしは舐められるだけだぞ」
…本当ならそうしたい。
だが何かしらの形でやり返せばどうなるか?
更なる倍返しが来るに決まってるのだ。
「…本当に、すみません。ごめんなさい」
「はあ…謝ってばかりで済むと思うなよ全く」
面倒…その一言が、彼のため息に込められている。
その日は、泥まみれのまま過ごした。
幸いにもその日の結月の攻撃は、あの泥水がピークだったらしい。陰口こそ聞こえてきたが、最早そんなものは慣れっこだ。
泥は制服に染み込み、最早取れそうにない。
みすぼらしさを極めたようなその姿が、彼女をよりその教室から浮かせてしまっていた。
そして。
「テメェ…どれだけ俺に迷惑をかければ気が済むんだクソが!!!」
案の定。
父の拳が頬を打つ。
泥だらけの制服は壁際に投げ捨てられ、夜雨本人は…下着一枚にされていた。
壁に叩きつけられ、ブラジャーを掴まれ、何発も何発も、頬を殴られる。
痣に叩き込まれる鉄拳制裁。激しい目眩が起きる。
痛い、怖い。
目の前にいるのは、鬼だ。
地獄の鬼だ。
金棒を持ち、自分を殴り続ける。まるで親を殺されたような勢いで。
ある程度殴ると、彼は夜雨を放り出し、リビングへと戻っていった。
凄惨な殴打の数々、その終わり方は、あまりに呆気ないものだ。
朝の結月を、思い出させるものだった。
頭蓋骨がひび割れたような激痛が、顔を鷲掴みにする。
裸体を晒された羞恥心、これがまた明日もあるかもしれないという恐怖。
あまりにも重すぎる重りを背負い、彼女はゆっくり立ち上がり、制服を手に取る。
「おかえり〜」
そして、楽園に戻る。
夜雨の前に広がる非日常。
「…ただいま」
歯を見せて笑う夜雨。
意味もなくレイの横に座る。
「これはまた。派手にやられたね」
「痛かったよお」
頬を擦りながら、夜雨はあどけない笑みを見せた。痣だらけの顔に、鞭を打つような笑み。
レイはいつも通り足を揺らし…ポケットから極小サイズの飴玉を取り出すと、それを口に放り込む。
口の中で飴玉を転がす姿は、あまりにも人間じみている。
そして、次の一言も。
「…よく、泣かないね?」
夜雨が日々気にしている事。
それは泣かない事だ。
泣けば、負ける。泣けば、屈した事になる。
そうしてしまうと…ほんの小さなプライドも放棄した事になる。
敗北、敗北、敗北…。
その言葉が重複し、目を締めるのだ。
「…泣いたら惨めでしょ?私、強くなりたいの」
「へえー。強くなりたいのか」
レイは少しの間、黙りこむ。
静かになって、はじめて人形らしさが現れる。
整いきったパーツの数々。いつまでも新品同然のその美しさは、新品の人形を買ってもらったような気分にさえ陥る。
そんな事は、あり得ないというのに。
正直、このまま風呂にも入りたくない。
料理も作りたくない。
ずっと、レイのそばにいたい。
レイも、そう思ってくれてるだろうか。
「ところで、悪魔来てるわよ」
…非現実的な言葉で、現実に戻される。
「…出番だね」
夜雨は頷く。
ようやく人の役に立つ時間が来た。レイを急かすように貧乏揺すりを始める夜雨。待ち切れない様子は、本当にこの時間を愛してるのだと悟らせる。
聖水を取り出すレイの動きを目で追いながら、夜雨は無邪気に聞く。
「今回はどんな悪魔が相手なの?」
「どうやら集団みたい。槍を持ってて、人間に近い形をしてる。でも一人一人は悪意の結合性が弱いから…簡単に倒せるはずよ」
…心世界に飛んでいる間は、現実世界の時間は停止する。
悪魔を倒せば、現実世界へ戻って来る事ができる。
悪魔を倒さなければ、永遠にあの世界へ閉じこもっていられるのだが…。
そんな選択肢は頭になかった。
被害者を助けたい。ただ、それだけを考えていた。
「ちなみに…今回の被害者はどんな人なの?」
レイの手が宙に掲げられたまさにその瞬間での質問だった。
レイの、輝く瞳だけが…夜雨に向けられる。
…一瞬、言葉を飲み込もうとしていたようだった。
「え?レイ?」
ハッ、と意識を取り戻したレイが、呟いた。
「…後藤だよ」
…あの、無力な傲慢教師。
レイは、夜雨から色々と話を聞いている。後藤の事も、彼女は知っていた。
直接いじめには関与していないが、それをほぼ黙認し、夜雨を救える力を持ちながら傍観を続ける彼。
夜雨が彼に良いイメージがある訳がない。
「…大丈夫?」
レイは陽気で、基本一方的に話をする。
そんな彼女でさえ、声は淀んでいた。
しかし。
それは愚問だった。
「…助けるよ」
光が、部屋を包み込む。




