天使
レイ。
彼女がいつから夜雨のそばにいたのか、そして彼女が何者なのかも分からない。
だが、レイだけはいつも夜雨に寄り添い、夜雨を人として扱ってくれた。
人形だけが、夜雨という存在を見てくれた。
夜雨がこの世に留まれる理由。
その一つが、レイだった、
「今日もひどい目に遭ったみたいだねえ?」
青く、大きな瞳がまっすぐ見つめてくる。人工物とは思えぬ、生気に満ちた目。
これほどに感情溢れる目を、夜雨は見た事がなかった。少なくとも、害のない感情を宿した瞳は。
「やめてよー…レイ」
屈曲のない、年相応の少女の笑みは、作り笑いよりもわざとらしいように見える。口角を無理やり上げたようなその表情…笑う事が苦手になりつつあった。
レイは短い脚をブラブラと揺らしながら、顎に手を添えた。全てを見透かしたような得意げな笑みを見せた後、体を傾けて枕へと沈み込む。
「あんたはいつも無理してるんだからっ。まあ、このレイ様がいるんだから、大丈夫だろうけど!」
どこまでも明るく、自信に満ちあふれた声。夜雨が日常を感じる数少ない瞬間だ。
この間に、自分の部屋をよく見ておきたい。
壁や天井を、回るように見つめていく。
何も無い白い壁、白い天井。
質素な机、質素なベッド、質素な緑の絨毯。
勉強道具、山積みの教科書。
…これで、十分だ。
「ところで…夜雨?」
レイの声が、やや低くなる。
彼女の声が変わった時、何が起きるか、夜雨は知っている。
気づくと、レイの顔は先程のおふざけ調子から、引き締まった真面目なものへと変化していた。
「また、誰かのもとへ悪魔が来てるみたいよ」
「…悪魔が?」
悪魔。
そんな言葉を現実で使う事になるとは、レイと出会うまで、一度もなかった。
だが、確かに存在しているのだ。
人外の存在でありながら、狡猾な知性を持つ魔物…すなわち悪魔が。
「とにかく、心世界へ向かうわよ。今回の悪魔はそれほど手強くはないけど…気を付けて。私の言う事をよく聞くのよ夜雨?」
ウインクを挟み、レイはあるものを、枕の下から取り出した。
それは、青い宝石。中には水が入っている。
これは、レイが初めて現れた時から彼女が持っていたアイテム、レイはこれを聖水と呼んでいる。
悪魔祓いに使われる道具である聖水だが、それは人間が知る範囲。
人ならざる存在であれば、聖水の真の効果を知っている。
これを使えば…心世界へと飛ぶ事ができるのだ。
「今回狙われてる人は…知らない人ね。でも、誰かが狙われてる事には変わり無いわ。すぐにでも悪魔を倒すわよ」
レイは、聖水を宙に掲げる。
小さな手の中で、聖水は白く輝き…光を放ち始めた。
「…っ」
その光に、二人は身を投じる。
…そして。
目を開けると、そこは別世界だった。
先程までは部屋の中だったはずが、今では真っ赤な空が広がる不気味な街に立っている。
周囲には…倒壊した無数の建物が立っている。
確かに建物だが、街とは違い、砂漠のサボテンのごとく均一性のない建ち方。
夜雨は慣れた様子で辺りを見渡す。
彼女の手に、レイは抱かれていた。
「あそこ」
それだけ、レイはある方向を指さした。
そこには、水の出ていない噴水が寂しく佇んでいる。そしてその噴水のすぐ横に、黒い何かが立っている。
あれは…人間のようだ。
だがただの人間ではない。全身を黒塗りにした、女性のシルエット。
「あの人か…で、悪魔は?」
夜雨の言葉に応えるかのように、それは現れた。
近くの建物の上から、獣の咆哮が響き渡る。
壁を滑るように…一つの異形が舞い降りてきた。
身構える夜雨。
その異形は、白いトカゲの姿をしていた。
顔面には…無数の目玉が埋め込まれており、胴体にまで届かんばかりに裂けた口、背中にも無数の口がついているが。それらはトカゲのものではなく、人間の口だった。
まさしく怪物、人の世に現れるはずのない、醜悪な生物だった。
これこそが悪魔。夜雨が孤独に戦い続けてきた、未知の存在。
勿論、ただの女子高生である夜雨の力でこの異形に対抗する事はできない。
そんな時こそ、レイの出番だ。
「じゃあ、行くわよ」
レイは、あの聖水をまた掲げる。先程と同様の光が夜雨を包み、共鳴するように点滅。
夜雨に力を与えていく。
それすなわち…悪魔と戦う為の、天使の力。
大昔から、人々を救済し、伝説に名を残し続けた、使者の力。
彼女の制服をすり抜けるように、白い翼が生える。
その手には、弓矢と剣が生成される。
天使の武具…これもまた、人のイメージをそのまま形にしたかのような逸品だ。
「さあ、行くわよ夜雨!」
いつの間にか、レイは離れていた。
威勢のいい言葉を発しながらも、彼女は近くの花壇に腰掛け、どこか他人事のよう。力はくれるが、彼女は基本いつもこんな調子、隙あらば高みの見物だ。
夜雨は剣を構え、呟く。
「ごめんね…」
それを聞き逃さなかったレイが、指をさす。
「こら!悪魔に同情するな!それに、そもそもやつらは人間の悪意が一時的に形をなしているだけで、倒したら元の悪意の姿に戻るだけ!別に殺しを行う訳じゃないんだから、そんな顔しない!」
「…わかってる」
悪魔…その正体は、人間の悪意が具現化し、形を持った姿。
この心世界を通じて、人々の心を食らい、取り込み、現実世界の人間を死に至らせる。
レイ曰く、人間達が気付いていないだけで、日々多くの人間が悪魔に狙われ、殺されているのだという。
これをはじめに聞いた時、夜雨は心底震えた。
悪魔など、ファンタジーの中のものだけだと思っていたのだ。
それが実在、しかも自分達とほぼ隣接するような距離に潜んでいたとは、夢にも思わなかったし、思いたくもなかった。
…更に彼女を混乱させたのは、その悪魔に立ち向かう選ばれし存在が、自分であった事。
レイとはじめて会った日の事は覚えてない。
だが、こう言われた事だけは鮮明に覚えてる。
「あなたは天使。悪魔に立ち向かえる唯一の存在」
天使…それが、この異界、心世界における夜雨の呼び名だ。
この世で唯一、天使として、悪魔を討つ存在。そんなものに選ばれた事自体、光栄な事だった。
悪魔は、女性のシルエットに唸り声をあげ…今にも飛びかからんとしている。
あのシルエットは、現実世界の人間の心だ。あれは心臓とリンクしており、シルエットが食われれば、心臓も消滅する。
「させないっ!」
夜雨はまっすぐに突っ込み、悪魔の目のうち一つに切っ先を叩き込む!
背中から生えた羽が大気を叩きつけ、速度を高めていた。
悪魔の目から飛び散る血液。痛みに弱い個体なのか、凄まじい悲鳴をあげながら頭を揺さぶり、剣を引き離す。
そして、ようやく夜雨の姿を認識。彼女に大口を広げ、捕食しようとする。
「夜雨!矢!矢!」
レイが両手を口の左右に添えて指示する。
彼女の指示は、悪魔との戦いを有利に進める導き。流石にずっと観戦してるだけではない。
言われた通り、夜雨は悪魔の喉奥へと矢を打ち込む。
鋭い痛みが、悪魔を内側から苦しめる。
苦しみに唾液を散らす悪魔。もがくと、喉の矢が突っかかり、例えようのない圧迫感と不快感に追われているのだ。
その隙に、夜雨は羽ばたき、空中へ舞い上がる。
「いけっ!やっちゃえ夜雨!」
剣先に光が集まり、白く輝く。
禍々しい異界を照らすその姿は、まさしく天使…。
無言のまま、彼女は悪魔に急降下!
光の剣が悪魔を顔面から真っ二つに切り裂く。
悪魔は分かれるなり、その体が溶けていき…最終的に、黒い水へと変化。
水からは、悪魔の体を構成する黒い粒子が立ち上り…空気中に消えていく。
何とか、今回も勝てた。
こんな事を、何度も繰り返し続けているのだ。
…名も顔も知らぬ誰かの命を救う事ができた。
これが、生きがいなのだ。
命をかけ、生きがいを得る。
皮肉だとは、最早思わない。
はっきり言って、この世界での命がけの戦いは、現実世界よりも居心地が良い。
誰も自分を否定しない、悪魔も自分を一人の獲物、つまり人間と見て、襲いかかってくる。
レイも言ったが、悪魔は倒しても死ぬ事はない、つまり殺生を犯す必要もない。
天使夜雨の居場所は、ここだった。
「今日もありがとう、レイ」
「アタシが指示しなかったら死んでたぞ?何でそんな清々しいんだよ」
レイは目を細め、指を鳴らす。
…悪魔が崩れた湖から、何かが飛び出した。
光り輝く結晶。これは、レイのお楽しみだ。
結晶と思われた、光るそれは…チョコレート。
「今日はチョコだー!」
レイは、手元に飛んできたそれを、実に嬉しそうに齧りだした。
どういう訳か、悪魔を倒すと彼女はお菓子を入手し、当たり前のように食べ始める。
「レイはお菓子ばっかりだね…」
「は?悪い?」
チョコのカスを口につけて頬張る、何とも行儀の悪い姿。
夜雨は、ほんの僅かに口角をあげた。
これが天使の使命。
聖水の力で心世界へと飛び、悪魔を倒し、人々を守る。
彼女の活躍は誰からも認識されないし、感謝もされない。
だが、これで良いのだ。
誰かを助けられるなら。
…そう、思っていた。




