45.鈍感聖女は、恋する魔王にブチギレる
――魔王。
それはただ魔族の王というだけではない。
世界に渦巻くすべての闇を束ね、あらゆる魔物を従える支配者。
血と破壊を糧とし、命あるものの悲鳴を悦びとし、希望をことごとく踏みにじる者。
豊穣を荒廃に変え、愛を絶望に変える。
大地を黒く染め、空を覆い隠し、魂すら呑み込む――恐怖の象徴。
かつて世界【イルワノール】を血に染め、人々を恐怖に沈めた存在。
私たちが一年かけて旅をし、命を削ってようやく討ち倒した――その魔王が、復活してしまった。
「ははは! 見ろ、この世の地獄を!」
広間に響いたのはベルサリスの歓喜の笑声。黒翼を震わせ、恍惚と笑う。
「愚かな王子を利用し、ついに蘇らせたぞ……我らが魔王を!」
瓦礫を押しのけて現れたその姿は、確かにエルリック様だった。けれど血に濡れた角が突き出し、背には漆黒の翼。
その声は人間の温もりと魔族の濁声が混ざり合い、金属を擦るような不気味な響きに変わっていた。
「……よくやった、ベルサリス」
魔王の声。優しさに似た響きなのに、耳の奥をざわつかせる威圧を含んでいる。
「魔王様! 今こそ人間どもに復讐の時! まずは人類の希望――勇者パーティーを滅ぼしましょう!」
「ふはは……そうだな。今宵は愉快だ。最高の気分だ」
魔王がゆるやかに笑う。その笑みだけで、広間の空気が歪んだ。
「さあ、世界を混沌に沈めましょう、魔王様!」
ベルサリスの歓喜に応えるように瘴気が渦を巻く。私たちは身構えた。
剣を、盾を、杖を――それぞれが握り締められる。
「……ああ、その女は、生かしておくのでしたな? 聖女ヒマリだけを。あとは不要でしょう」
ベルサリスの赤い瞳が私に絡みつく。
舐め回すような視線に、冷たい鎖で全身を締めつけられるみたいで息が詰まった。
「……ああ。ヒマリは僕のものだ。誰にも渡さない」
魔王の赤黒い瞳が私を射抜く。その瞬間、勇者様が一歩前に出て立ちふさがった。
莉央も、アルバートさんも、エリシア様も。みんなが私の前に壁となる。
「ふられたくせに未練タラタラとか、きっしょ」
「わたくしのヒマリ様は、渡しません!」
「……ヒマリは、守る」
三人の言葉が重なり、厚い壁のように私を包み込む。
「ふざけるな! ヒマリを渡すものか!」
勇者様の声が広間を震わせた。胸が熱くなる。
だけど――守られているだけでは、私は何も変えられない。私にだって、みんなを救う方法があるはずだ。
「……もし、私があなたのものになれば、みんなを助けてくれるんですか?」
「バカ言うな!」
勇者様の叫びが重なる。けれど魔王は嗤い、口元を歪めた。
「ほう……それも面白い。いいだろう、ヒマリ。お前を手に入れるなら、他の人間を殺す必要はない」
魔王の言葉に、ベルサリスが吠える。
「魔王様! それでは我らが納得できません!」
「……納得できぬと?」
冷たく落ちる魔王の声。氷の刃のような威圧に、ベルサリスが一歩退く。
「ふん……しょせん核が人間の王子である時点で、この程度か。出来損ないの魔王よ……」
魔王はゆるやかに降り立つ。黒翼が広がるたび空気が軋み、瘴気が床を這った。
視線ひとつで広間全体が凍りつく。翼が横薙ぎに振り払われ、ベルサリスの身体が壁に叩きつけられる。砕けた石壁にめり込み、血を吐いて呻いた。
「……じゃまだ」
吐き捨てる魔王の声。黒翼を大きく広げ、赤黒い瞳が私を見下ろす。
「さあ……ヒマリ。僕とともに来い」
その声に合わせ、魔王の手がゆっくりと伸びてくる。息が詰まる。触れれば、すべてが終わる――直感がそう告げた。
背中に勇者様の手が触れた。
「ヒマリ……取るな!」
その叫びと同時に、背後からぎゅっと抱きしめられる。
熱い鼓動が背中越しに伝わり、すくんでいた身体を強く支えてくれる。
この人がいる――そう思った瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。
勇者様は私を包んでいた腕をそっと解き、ゆっくりと前へ進み出る。その背中は頼もしく、誰よりも大きく見えた。
「行くな。お前が犠牲になる理由はない。俺がこいつを倒す」
その言葉は剣より鋭く、私の心を射抜いた。
「ノイシュ! おまえさえいなければ!」
「いくら親友でも……ヒマリは渡さない!」
火花を散らす剣戟。魔王の爪と勇者様の剣が激しく打ち合う。
莉央の爆炎が追撃し、アルバートさんの盾が仲間を守り、エリシア様の剣閃が舞う。広間は嵐のような戦場と化した。
「やめて!」私は叫んだ。
「馬鹿なんですか! そんなことで私があなたを好きになるとでも思ってるんですか!」
魔王が嗤い、赤黒い瞳が妖しく燃える。
「愛の言葉など不要だ。魅了さえあれば、お前の心も身体もすべて僕のものになる」
「それは……本当に“私”なんですか?」
自分でも驚くほど声は震えていなかった。胸の奥で煮えたぎるものを、もう抑えられなかった。
魔王の動きが、ほんのわずかに止まる。
「私はエルリック様の――誇り高くて、真っすぐで、困っている人を絶対に見捨てない、そんなところが好きでした」
「やめろ……!」
「本当は臆病なのに、誰より勇敢に立ち向かうところも……弱さを隠さず、それでも歩き続けるところも!」
涙が頬を伝うのも構わず、声を張り上げた。
「なのに、どうして……! どうして魔王なんかに!」
「選んだのは力だ。弱さを抱いたままでは、お前を手に入れることなどできなかった」
「今のあなたなんて、尊敬できない! 応援できない! ただの怪物じゃないですか!」
広間に声が響き、魔王の瞳が揺れる。赤黒い光の奥で、確かに何かが軋んだ。
――まだエルリック様が残っている。そう思った瞬間、胸の奥で燃え上がったのは希望ではなく、堪えきれない怒りだった。
「とりあえず正座してください!」
一瞬、広間が静まり返る。
勇者様も莉央もアルバートさんも、エリシア様ですら目を丸くしている。
魔王もまた、紅い瞳を瞬かせて言葉を失っていた。
けれど私は止まらなかった。
「いいから! 正座してください、エルリック様!」
仲間たちの視線が集まる。莉央が肩を震わせて笑い出した。
「ははっ、やっべ……魔王より陽葵の気迫のが怖ぇ」
「ば、ばかな! お前は何を言っている! 魔王たる我が――」
「いいから、早く!」
私の気迫に押されたのか。広間を支配していた魔王の圧倒的な威容が、ゆっくりと崩れていく。
そして次の瞬間――漆黒の翼を背にしたまま、魔王の姿をしたエルリック様が、私の正面で膝を折り、正座した。
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