32.第二王子は、叶わぬ恋を渇望に変える
<第二王子 エルリック目線>
――あの旅の日々を、今でも鮮明に覚えている。
まだ幼さの残る顔で、それでも必死に仲間を支えようとするヒマリ。
僕が無茶をして倒れた夜、彼女は涙を堪えながら両手を重ね、震える声で呪文を紡いだ。
「もう、エルリック様は無茶ばっかりなんですから……!」
ぷくっと頬を膨らませて叱るくせに、その手は驚くほど優しい。
痛みが引くたび、胸の奥に灯りが増えていくのを、僕は知ってしまった。
焚き火の夜、冷え込んだ峠で、彼女が眠たげに目をこすりながらマントを半分押しつけてきたことがある。
火の色が頬に滲んで、まぶたがとろん、と落ちてはまた持ち上がる――その無防備さは、僕だけの秘密だと信じていた。
だから、ヒマリの笑顔はいつか僕のものになるはずだった。
そう、あの日までは。
◇◆◇◆◇
石灯の薄闇に、甘い声が響く。
ヒマリに似た面差しの侍女を腕の中に引き寄せ、熱で空白を埋めようとする。
肩口に触れた唇は熱いのに、胸の底だけが凍っていた。
「お楽しみですな?」
喉がひくりと鳴る。返事の代わりに、抱いた腕に力がこもった。
「聖女は、もうよろしいのですか。そこの娘のように、望みどおりにできましょうに」
「……黙れ」
短く吐き捨てる。腕の中の体温は確かだ。なのに満たされない。満たされるはずがない。
「聖女を手に入れたいのでしょう? ならば急ぐのです。――魔王を“戻す”ことだ」
「本当に――魔王は御せるのだろうな?」
静かに、しかし喉の奥で軋む声で問う。
「クク、信じろ。お前はいまも私の力を使いこなしている。左の鎖骨の内側――焼き付けた印が脈打っているはずだ。女も、自由にしているのだろう?」
「繰り返して問う。御せるのだな。俺が、あの魔王を支配できるのだな」
「御せるとも。ただし鍵はお前の“渇き”だ。満ち足りるな。渇きを育てろ。――欲望は扉を押し開く楔となる」
胸骨の裏で、刻印が鼓動と同じ速さで疼いた。
浮かび上がる名を、噛み砕くように吐き出す。
「……ノイシュ」
幼いころ、勇者として城に連れて来られた少年。
同じ年の友として、すぐに笑い合うようになった。
幼なじみ――心から、親友と呼べる存在だった。
それなのに。
城に掲げられたきらめく聖剣は、幼い日に憧れ続けた“僕のもの”になるはずだったのに、握ったのはあいつだ。
父上の信頼も、母上の微笑も、家臣の忠誠も、民の憧憬も――気づけば、皆があいつの名を呼ぶ。
最初は祝福だった。それが遅れて悔しさに変わり、今は胸の裏側で黒い染みがじわりと広がる。「本来の持ち主はお前だ」と、誰かの声が甘く囁く。
「よいのです。『奪われた』のなら、『取り返せば』よい。――聖女も」
「取り返す。俺が」
「よろしい。あとは扉を開くのみだ、王子」
「手順は把握している。供物も、人も、場所も――揃えてある」
すべて整った――欠けているのは、門をこじ開けるほどの“渇望”だけ。
「では進めよう。お前の渇きが、門を開く。私は囁き、導き、満たしてやろう。お前が望む“すべて”で」
石壁を撫でるような低声が、内側から鼓膜をくすぐる。
印の痛みは蜜に変わり、蜜は理性の縁をやわく溶かしていく。
胸のどこかで小さく欠ける音がしたが、もう振り返らない。
「……進めよう」
闇が微笑んだ気配がした。甘い香が濃くなる。
「ヒマリ……ヒマリ、ヒマリ」
名を呼ぶたび、刻印が嬉々として脈打った。
◇◆◇◆◇
彼女から呼び出しがあった。
心臓がうるさい。あの日の返事だと、勝手に胸が膨らむ。
人目の少ない回廊の陰。午後の光が石床でほどけ、風が花の香りを薄く運んでくる。
先に来ていたヒマリは、指先でリボンの端をいじりながら、落ち着かない視線で空を見上げた。
呼吸の浅さまで伝わってくる。ただの“用件”なら、こんな顔はしない。
「……ごめんなさい。エルリック様はとても優しくて、私にはもったいないくらいの方です」
丁寧にはじめられた言葉が、刃に変わるまでに時間はかからなかった。
胸の奥で、最後の糸が一本ぷつりと切れる音がする。いや、きっと錯覚だ。
「でも……そのお気持ちに、応えることはできません」
小さく、けれど確かな拒絶。
彼女はふっと視線を落とし、すぐ持ち直すみたいに笑おうとして、うまくいかずにまた俯いた。
指先が震えている。僕のための言葉を、ずっと考えてくれていたのだと分かってしまう。
「なぜ……?」
気づけば、喉の奥から零れていた。
問いが風にほどける。泉の水音、遠い兵の靴音、全部が遠ざかっていくのに、彼女の声だけが鮮明だった。
「私……不器用だから、はっきり言えなくて。だから、ちゃんと伝えなきゃって……ごめんなさい」
息を吸うたび、胸骨がきしむ。
“ごめんなさい”がやさしいほど、痛みは鋭くなる。
ああ、やめてくれ。そんなふうに僕をいたわらないでくれ。弱さが露わになる。
彼女は顔を赤らめ、ほんの一瞬だけ横を向いた。
追いかけた瞳の先に、口にされない名前がある。
光の中で、影だけがはっきりする。
――ああ、そうか。
なんてことだ。なんてことだ、なんてことだ。
掌から零れた砂みたいに、気づけばすべてが失われている。
また奪われた。大切な人まで、ノイシュに。
「エルリック様?」
不安げに名を呼ばれて、僕は笑顔を貼りつける。
口角は上がるのに、頬の筋肉が言うことを聞かない。
「……なんでもないよ」
声が少し掠れた。咳払いで誤魔化す。
彼女の痛みを増やさないための、最低限の体裁くらいは、守らなくては。
「うん、わかった。君の気持ちは、確かに受け取ったよ」
言いながら、指先では冷えた石柱の角をなぞる。
冷たさを覚えていれば、崩れずに立っていられる。
沈黙が一拍。
ヒマリが小さく会釈して、逃げるみたいに踵を返した。スカートの裾が光をすくい、角を曲がって消える。
景色から色が抜ける。風の温度だけが取り残された。
それでも――諦めるという選択肢だけは、どこにもない。
「……君を振り向かせてみせる」
誰にも聞こえない声量で、けれど、はっきりと誓う。
笑顔は壊さない。礼節も捨てない。だが、退かない。
振り向かせてみせるさ。何を使ってでも。
もうすぐ、すべての準備が終わる。儀式も、駒も、場所も。
ヒマリの笑顔が、僕だけのものになる――その日を、指折り数えて待つ。
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