恋々とドクター
「あの、ドクターは私を診るのが嫌でしょうか?」
「そんなことないわよ」
「じゃあ、これからも何かあったらドクターにお願いできませんか?」
白樹さんがドクターよりも信頼できる医師はいないって言ってたのもある。だけど、私自身がドクターがいいと思ったのだ。
男の自分よりも女性医師の方が安心するのではないかと気遣ってくれるような優しい人だから。
「でも、あたしは男よ? こんな見た目だけど、恋愛対象は女性だし」
「男とか女とかじゃなくて、純粋に他人を心配できるドクターだからお願いしたいんです」
あ、恋愛対象は女性なんだ。趣味だって言ってたもんね。なんて思いながらも、まっすぐとドクターを見れば、泣いていた。
「き、聞いたー? ねぇ、恋々も聞いたわよね! あたしだからだって!!」
恋さんのところに飛んで行き、小柄な彼女を抱っこしてぐるぐると回している。
「聞いてたから、さっさと降ろして」
バシリと頭を叩かれ、ドクターは渋々といった感じで恋さんを降ろしながらも、まだ涙は止まっていない。
その涙が止まるまで、何だかんだと恋さんは面倒をみている。兄妹か、親戚なのかな?
「あの、二人のご関係は?」
「夫婦でーす!!」
嬉しそうなドクターと冷めた表情の恋さん。温度差がすごい。
だけど、二人には同じデザインの指輪がはまっている。
「花様、うちの馬鹿がすみません。病み上がりにうるさくするなど言語道断。必ずやこの罪を償わせますので」
「え! 何で!?」
「え! どうしてかしら!?」
私とドクターの声が重なる。思わず顔を見合わせると、これでもかと眉が下がり、哀愁漂う表情だ。
「ふっ……あはははは…………」
何だか可笑しくて、笑ってしまった。そんな私を見て、ドクターも笑う。白樹さんと恋さんも笑っている。
何だかやっていけそう。漠然とそう思えた。
そう思えたのだが──。
「暇すぎる……」
二月も眠ってしまってから、早一月。何もやることがない。
最初の一週間はそれでも良かった。美味しい食事に、温泉、屋敷の探索。お屋敷のことを手伝うことは禁止されてしまったが、暇をもて余すことはなかった。
けれど、それが一ヶ月にもなると社会の一員として働いていた身としては、やることがないと感じるのだ。
ぱらりと惰性で読んでいた本から視線を上げ、この一月でずいぶんと親しくなった恋を見る。呼び方も、恋の旦那さんのドクターを真似して恋々と呼んでいる。
「ねぇ、恋々。四か国会議はまだやらないのかなー?」
「当分はやらないと思いますよ。今やるって言ったら、バカ野郎です」
「そんなことないと思うけどな」
「だって、祝言もまだ挙げてないんですよ! 準備もされてないみたいですし」
「あ、それは私がしたくないって言ったの。それよりも四か国会議、まだかなー」
「白様がクソ野郎でなければ、まだですよ」
あ、バカ野郎がクソ野郎に進化した。
白樹さんのことが嫌いなのかと思うような言い方だけど、恋々のこれは平常運転。恋々は男性が嫌いなのだ。
そんな恋々と付き合いたいがために女性のような服装や話し方を始め、最終的には趣味になってしまったドクター。見せてくれた昔の写真は、普通のイケメンだった。
「四か国会議って、そんなに遅くてもいいものなの?」
「いいんですよ。花様が生活に慣れるのが最優先ですから。それは他国も同様です。それなのに、あのクソ野郎共は……」
あ、また思い出し怒りしてる。私は気にしてないんだけどな。
恋々が男性陣に怒っているのも日常なので、今日も元気だな……と眺める。すると、黒い虫のようなものが視界を横切った。
「恋々ー。悪いんだけど、お湯もらってきてくれないかな? 温かいお茶が飲みたくって」
「最近、冷えてきましたもんね。少しお待ちください。急いで取ってきます」
「ありがとう。ゆっくりでいいから、ついでに恋々と一緒に摘まめる甘いものも欲しいな」
にっこり笑って言えば、恋々の表情はパアッと明るくなる。最初は断られていたものの、一人では寂しいからと一緒にお茶をしてもらうようになったのだ。今ではその時間を恋々も気に入ってくれている。
ぱたぱたと部屋を出ていく恋々を見送る。移動できるドアは使用人は使えないので、戻ってくるまでに少なくとも十分はかかるだろう。
私は腰をおろしていた、黒、アイボリー、えんじ、ネイビーのストライプ柄のソファからゆっくりと立ち上がると、片手で飛んでいた虫を潰した。
小指の爪ほどの虫くらい、田舎育ちの私にとっての敵ではない。
虫は砂のようにパラパラと崩れていき、金木犀の香りが漂う。
「ここ数日で増えた気がする」
もう一匹握り潰せば、金木犀の香りが濃くなった。戻ってきた恋々にバレないように窓を開けて換気をする。
白樹さんは力を使うと『ちりんと風鈴の音が鳴る』が、私の場合は『金木犀の香りが漂う』ようなのだ。
そう。今、私は浄化したのだと思う。この虫は私にしか見えていない。こんなにも存在を主張するかのように視界に飛び込んでくるのに。
「あ、またいた」
窓から手を伸ばして潰し、砂のような粒子になって消えるのを眺める。
一体どこから飛んできているのだろうか。
外からなのは間違いないので、とりあえずバルコニーへと向かう。
バルコニーに足を踏み出せば、遠くに見える森の向こう側、海があるはずの場所が黒く染まり蠢いていた。




