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ドアの向こう側

 高校を卒業してから十年以上。俺は毎月一日になると緑川椿の名前を検索する。いつも検索して出て来るのは俺も友達になった緑川椿さんのインスタや姓名判断のサイトばかりだ。それでもいつか作家緑川椿の名前が出て来るんじゃないかとその時を待っていた。

 もう期待も薄れて検索が義務になっていた時、検索結果が変わった。複数のニュースサイトが人気作家の事故死を報じていた。なんで緑川の名前で検索してこんなニュースが出てくんだろ?って思いながら記事を読んで、息が止まるぐらい驚いた。ベッドに寝ころびながらスマホを見ていたから驚きで力が抜けて顔にスマホが落ちて来た。俺の周りだけ音も色も消えた。

 ニュース記事には作家の緑山流星(みどりやまりほ)、本名緑川椿が今朝事故で死亡したと書かれていた。

「あれだけ本名で書けって言ったのに」

 言葉と一緒に涙が出て来た。泣くのなんて中学生の時以来だった。緑山流星で検索するとインタビュー記事が出て来た。『ペンネームは私に小説を書くのを勧めてくれた友人から取りました』と書かれていて、流星の流でながる。と言ったあの日の記憶が鮮明に蘇っていた。


 私が初めて小説を書いたのは中学三年生の時。友達がマンガを描いていて「そんなに小説好きなら書いてみれば?」って言われたのがきっかけだった。私もずっと書いてみたいって思っていたからその言葉に背中を押されて書いてみる事にした。書くって決めたらストーリーは自然と浮かんできた。

 自分が思うよりも簡単に書き上げる事が出来た。私、意外と才能あるんじゃ?なんて自惚れていた。そんな事思ったの人生でその一度だけだから許して欲しい。

 そして友達とお互いの作品を見せ合った。お互い家に持って帰ってゆっくり読もうって作品を交換して持ち帰った。私は偉そうに人の作品を批評出来る様な人間じゃないって分かっていたけど、その子が描いたマンガはお世辞にも面白いとは言えなかった。それでも作品を作り上げたのは凄いなって思った。私は次の日にマンガ描けるって凄いねって言葉と共に作品を返した。


 その子から私の小説が返って来たのは十日後。時間掛かっちゃったって言われてマンガより小説の方が読むのに時間が掛かるのは当たり前だからと小説を受け取った。家に帰って返してもらった小説を見てビックリした。そこには赤ペンでぎっしりと文字が書き込まれていた。それを見て、データがあるから返してくれなくても大丈夫と言ったのに私は例えコピーでも返して欲しいって思うから返させてって言われたのかって納得した。恐る恐る赤で書き込まれた文字を読んで後悔した。そこには普段の大人しい雰囲気からは想像出来ない程、上から目線で辛口な言葉が並んでいた。冗談抜きで私が書いた文字数より多いんじゃないかって思う程だった。それ以降私は赤字恐怖症になった。

 その日の内に赤ペンを捨てたけど、テストで先生が赤で書き込むのを防ぐ事は出来ないし、友達にノートを見せてもらうと赤ペンが使われていたりする。その度に私はドキッとするし、目を塞ぎたくなった。

 

 私は赤ペン恐怖症と共に執筆恐怖症にもなっていた。書こうと思ってもこれを書くのは間違いなんじゃないか。この言葉を使ったらおかしいだろうかと書いては消してを繰り返して、最終的には私の書きたいって気持ちも消えた。これさえなければって赤字で埋められた小説を手に家から少し離れた公園に向かった。ボートを漕げるぐらい大きな池があって、そこの周りにベンチが置かれている。私はそこで本を読むのが好きだった。大好きな場所にトラウマになる程の物を持って行ったのには訳があった。その公園は幸せが溢れている場所だと行く度に思っていた。どんなに辛い事があっても気持ちを落ち着かせてくれる。そんな場所だった。だからその場所に持って行けば何かが起こるんじゃないか。気持ちの整理をつけられる。そんな事を考えていた。何も変わらない事は分かっていた。それでも何かに縋りたい。そんな気持ちだった。ゴミ箱に捨ててそれを拾った人が「あなた才能ありますよ」って言ってくれないかな。なんて本気で考えた。そう考えている時点で小説を書きたいって事の表れだったけど、その時の私は気付かないフリをした。もうこれは小説じゃなくてただの紙の束だ。私に紙の束は必要ない。そう思って私は公園のごみ箱に捨てた。

 

 そんな事があったのに今私が小説を書いているのは高校二年の時に同じクラスになった一人のクラスメイトがきっかけだ。私は勉強が苦手だった。本を読むから頭が良さそうってイメージを持たれるけど、そんな事はない。ある程度の国語力は身に着くかもしれないけど、理数系は小説を読んで身に着く物ではない。だから私は髪型も服装も自由な偏差値低めの高校に入学した。中学の時みたいに当たり前の様に教室で本を読んでいたら地味で真面目って笑われた。あぁ、そうか。本を読むってバカにされる事なんだって気付かされた。一回そういうイメージが着いてしまったら払拭するのは難しい。それでも私は一人になりたくなくて、お化粧の仕方や髪の毛をどうしたらいいかアドバイスを求めた。そうしたら親身に教えてくれた上に、一緒に居てくれる様になった。皆と居る時間は楽しかったけど、なんとなく虚しさを感じていた。

 

 二年生になって、一年の時に一緒に居た五人の中で一人だけまた同じクラスになれて他の子と話すきっかけまで作ってくれた。二年生のスタートは上々だ。もちろん本は読まない。そう思ってたけど、ここ数か月これを楽しみに生きていたって言っても大袈裟ではないぐらい楽しみにしていた小説を買って、家で読んだけど少しだけ読み切れなかった。バスに乗っている時間に読むチャンスがあるかもしれないと思って学校に持って行く事にした。

 その日の放課後、理科室に忘れ物をした事に気付いて友達には先に帰ってもらって取りに行った。カバンを持って行けばそのまま帰れたのに何故か私は教室にカバンを置いて行った。でも今はあの時カバンを置いて行って良かったと思っている。それがなかったら今の私はない。ここからは私の人生を語る時には絶対に欠かせない彼との話しを書く。

 

 教室に戻るともう誰もいなかった。そうなると小説の続きを読みたいって思い始めて、その気持ちはもう読まない事には止まらないって思って教室で続きを読み始めた。夢中になっていた私は人が入って来た事に気付かなかった。シャッター音が聞こえて来て誰かいる事に気付いた。反射的に本を閉じた。その時の私はやってしまったって気持ちでいっぱいだった。シャッター音の先に居たのは私とは住む世界が違う名前も見た目も少女マンガに出て来そうな主人公みたいな彼だった。用事を頼まれて終わったからカバンを取りに来たと言われて、私は初めて彼の席にカバンが置かれている事に気付いた。カバンに気付いていたら私は間違いなく教室で本を読むことはなかった。そして今の私もなかった。今となってはその時の自分の鈍さに感謝している。

 

 カバンを持ってそのまま帰るのかと思ったけど、何故か私の前に座って話し始めた。二年になって一か月ちょっと。彼とちゃんと話すのはその時が初めてだった。それでも彼は私の名前を知っていた。それもフルネームで。本当に驚いた。彼みたいな人が私を認識しているなんてと。

 一年の時の事があったから私は彼に本を読んでいた事は黙っておいて欲しいと言った。その時に彼に言われた言葉を今でもハッキリと覚えている。「自分の好きな物を自分で否定するのはダサイ」と。彼の言っている事はもっともかもしれない。でも、その時の私は彼みたいな人気者だからそんな事言えるんだってひねくれていた。もしも彼が教室で本を読んでいたとしても「何読んでるの?」って聞かれてそこから本を読むってカッコいいねなんて言われたりするのだろう。対して私が読んでいたら地味で真面目。あなたみたいなタイプに私の気持ちは分からない。そう思っていた。それでも彼は今撮った写真で周りの目を変えられると言って写真を送ってくれた。でも、私はそんな事出来る訳ないと思っていた。(ちなみにその写真は今のツイッターのアイコンになっている写真で、その写真が十年後にちょっとしたブームを巻き起こすなんてこの時の私には知る由もなかった)

 

 彼と話すのはその時だけと思っていたけど、次の日彼は一緒にお昼を食べようと言って来た。クラスの人気者に声を掛けられたとなると周りからの視線が痛かった。それでも友達も彼に誘われてるんだからって雰囲気だったから人気のない場所で私は彼とお昼を食べる事になった。

 一体何を言われるんだろうって思った。昨日の事は別に責められる事ではないし、彼は私みたいな人間と積極的に関わりたいと思っているはずもない。だから本当に何の想像も出来なかった。食べ終わってから彼はまた一緒に食べようと言った。そして食べた後は本を読めばいいと言われた。意味が分からなかった。そもそも彼と一緒に居たら周りから色々と憶測される。だからそれを正直に言った。そしたら彼は驚くべき事に付き合えばいいじゃんと言った。私の事好きなの?って聞いたら好きだって即答された。なんで彼みたいな人が私なんかにそんな事を言ってくるのだろう。これは絶対に何かある。私の心には警戒心しかなかった。それなのにいきなりキスをされてドキドキした?って聞かれたから素直に頷いたらまた付き合ってと言われた。普通なら何かしらリアクションを取る所なのかもしれないけど、私は彼に心を操られた様にただ頷くだけしか出来なかった。

 

 帰って昼の事を冷静に考えられる様になって大パニックになった。どういう事?私は本当に彼と付き合うの?明日からどんな顔をすればいいんだろう?とにかく頭の中が混乱して実は家に隠し財産があって彼はそれを狙ってる?なんて事を真剣に考えてしまった。それでも私の人生で彼みたいな人と付き合える事なんてもう絶対にない。彼に何か目的があるのは間違いないけど、それでも二度とないチャンスを逃したら後悔すると思って私は私の為に彼と付き合ってみる事にした。


 彼と付き合い始めて一番最初に本当にこんな事あるんだって思ったのが、嫌味を言われる事だった。彼と付き合う事がなかったら私の事なんて存在すら知らなかったんだろうなって思う様な彼と同じタイプの女子。すれ違う度に「なんであんたなんかが」「釣り合うとでも思ってんの?」とかハッキリとブスと言われた事が何度もあった。私は自分が可愛くない事ぐらい知っている。それでも面と向かって言われると傷つく。最初は嫌でしょうがなかった。その人とすれ違う度に怯えて下を向いていた。彼と関わらなかったらこんな事にならなかったのにって思ったけど、最終的に彼と付き合うって決めたのは私だから彼に八つ当たりするのは違うなって気付いた。嫌って気持ちは消えなかったけど、こんな美人に私が妬まれるなんてとちょっとだけプラスの感情が芽生えた。


 付き合い始めてもお互いの事を名前と年齢しか知らないって言っても大袈裟ではない程、私達はお互いの事を知らなかった。深く知った所で長く付き合う訳じゃないと思っていたから自分からはあまり踏み込まない様にしようって決めた。彼も積極的に私の事を知ろうって感じではなかった。だから彼は彼の目的の為に私と付き合ってるんだなって確信を持った。

 彼は私に本を読ませる為だけに声を掛けて来たって仮説を立てて考えた事がある。彼は私に何の為に本を読ませたいのか。その答えは出なかった。彼が私の為に時間を割くメリットが見当たらなかった。そしてある時ふと頭にある考えが浮かんだ。それは彼は私に小説を書かせようとしてるんじゃないかって事。書かないの?って聞かれた事もあったし、その考えは絶対にないとは言い切れない。私が捨てた小説を彼が拾って読んで気に入ってくれたんじゃないかって都合のいい事を考えてしまった。私があの公園で小説を捨てたのは中学三年の時。彼とは違う学校だった。その彼がたまたま拾って読んで、たまたま同じ高校に入学して同じクラスになるなんて奇跡なんて言葉じゃ片付けられない。本当に都合の良過ぎる考え。でもそうじゃないなら何の為に?ってまた考えが振りだしに戻ってしまう。

 

 彼が純粋な気持ちで私と付き合っている訳じゃないと分かっていても彼と過ごす時間は幸せだった。一番楽だなって思ったのが頑張って喋らなくても大丈夫な所。テンションが上がっている時はスラスラと喋れるけど、普段の私は何か聞かれても直ぐに答えられない事が多い。考えている間に話題は次に変わって、私は空気を読まずに前の話題に答える。そして笑われる。彼も最初は私の言いたい事が分からずに戸惑う顔をする事が多かった。でも次第に私の言いたい事を分かってくれる様になった。嬉しかった。そして楽だった。いつもはちゃんと会話についていかないとって気を張る。気を張って一日を過ごしたら帰ってご飯を食べるのもしんどくなるぐらい疲れる事もあった。でも彼とお昼を食べる様になって昼休みは気が抜けた。一日の内、少しでも力を抜ける時間が出来ただけで毎日がすごく過ごしやすくなった。友達と居る時間は心の底から楽しいって思っていた。でも全てを言葉にしなくても理解してもらえるのは本当に楽だった。彼との時間を過ごす内にいつしか虚しさも消えていった。


 彼と付き合い始めて数か月経った頃、私の考えはもしかして都合のいい考えではないのではないかと思う事があった。風邪で学校を休んだ私に前日うっかり教室に忘れたスマホを彼が届けに来てくれた事があった。その時に自分が死んだら小説書いて欲しいって言われた。こたつでうたた寝をした後だったから寝ぼけているのかと思ったけど、次の日に確認したらちゃんと覚えていて、更には一生で一度願いを叶えてもらえるなら私に小説を書いてもらいたいとまで言われた。どうしてそこまでって考えると行き着く答えは一つしかない。そして自分が風邪をひいたらお見舞いに来て欲しいって言われてその時に住所を聞いた。彼の家の最寄駅は知っていたけど、詳しい場所は初めて聞いた。彼が住んでいる場所はあの公園からそう離れていない場所だった。決して近くはない。歩いたら三十分近くは掛かる。でも可能性としては十分にある範囲。本当にそうだったのかって驚いたけど、腑に落ちた。彼みたいな人が私と付き合ってくれるってやっぱりそういう事なんだって。私が小説を捨てる時に望んだ事を彼が叶えてくれた。彼は私の救世主だった。


 彼とは彼とじゃなきゃ過ごせない私には輝き過ぎている時間を過ごせた。色んな人に言い触らしたくなる奇跡も体験した。彼との時間は私の中で大切にしまっておきたいから詳しくは書かない(いつか小説の中で使うかもしれないけど)

 恐らく残りの高校生活全部を私に捧げないだろうって思って彼から別れを切り出されるまでは彼との時間を過ごそうって決めた。彼から別れようって言葉が出て来たのは三月だった。ショックは受けなかったけど、やっぱり少し寂しい気持ちになった。あぁ、もう夢みたいな時間も終わりなんだって。

 この出来事を書かないと彼との最後を書けないから胸にしまっておきたいけど、これだけは書く事にする。彼と初めて映画に行った時、お互い確認せずにそれぞれが座席予約をしてしまった。驚く事に私と彼は隣の席を予約していた。こんな奇跡ある?って本当に驚いた。せっかくだからと両隣が空いている状態で観ようという事になった。すごく贅沢な時間だった。その時にまたこんな奇跡を起こせるか試そうって話しをした。

 三月に入って映画に行こうって彼が言った。そしてそれぞれで座席予約をして奇跡が起こらなかったら別れようと言われた。別れようって言葉が出て来た時点で付き合い続ける事はないんだろうなって私は思った。奇跡が起こったとしてもそれが最後になるんだろうなって。だから最後に絶対に奇跡を起こしたいって思った。場所はもちろんの事、予約するタイミングも話し合っていない。どちらが先に予約をするか分からない状態。もしかしたら全く知らない人が隣になる可能性がある。と言うよりそっちの可能性の方が高い(私達は満席に近くなる作品を選んだ。人が少ない映画館で他の席が空いている状態の時に真横に人が座るのはいい気持ちではないから絶対にマネはしないで欲しい)

 もしも隣の席になれたら彼が買ったポップコーンを分けてもらう約束をしていた。二人でポップコーンを食べながらアクション映画を観てスッキリした所で最後に別れ話をするという流れは悪くない。だから私は熱が出て当日行けなくなるかもしれないというぐらいに悩んだ。前回と同じ場所はなしにしようと彼と決めていた。彼に関係する数字かな?なんて考えて、埋まっていく座席とにらめっこしていたら急にある座席に吸い込まれる様になった。まるで彼がここにしたよってテレパシーを送ってくれているみたいだった。もう迷わなかった。ここしかないって思った。これで隣が見知らぬおじさんでもその人に呼ばれたんだなって思う事にした。

 

 彼が先に劇場に入って座る。そう約束をしたから私は開場してから五分後に劇場に入った。彼を探さない様に下を向いて歩いた。そして自分が予約した列に入って座席が近付いて来るといつも彼が履いている靴が見えた。安心して顔を上げるとそこにはちゃんと彼の姿があった。そして私は彼の横に座った。彼は私が横に座ったのが当たり前みたいな感じで話し掛けて来たけど、私は不安だったからチケット見せてと頼んだ。見せ合ったチケットには間違いなく同じ列の連番の座席番号が書かれていた。狙って出来る事ではない事を狙って出来た。奇跡を起こせた。これで私は悔いなく別れられると思った。

 その日、生まれて初めてポップコーンを食べながら映画を観た。塩とキャラメルが半分ずつになったポップコーンに飲み物はコーラ。幸せな時間だった。同じ場所で同じ物を食べて同じ時間を共有する。その事がこんなに幸せなんだって彼と会って初めて知った。

 映画はあっという間に終わってエンディングロールが終わって場内が明るくなった瞬間に今までありがとうと言って席を立った。私は今でもキャラメルポップコーンの匂いがするとあの日の事を思い出す。


 彼とはいつもドアを挟んで立っていた。彼と過ごしている時間は彼の世界、ドアの向こう側に遊びに行っている感覚。彼の世界で迷子にならない様に彼との時間が終わったら急いで自分の世界へと帰った。戻れなくなったら困るから休みの日に会うのは月に二回だけって自分ルールを作った。彼にはお小遣いが足りないって言ったけど、それは嘘だった。でも彼がドアの向こう側の世界を見せてくれたから私は作家になる事が出来た。きっと彼はもっとお似合いの彼女を作る事が出来た。その方がきっと彼の高校生活は私と過ごすよりも何十倍も輝いたはずだ。私なんかの為に彼の貴重な時間を一年も貰ったんだからちゃんと返したいと思って小説を書こうって決めた。それを彼が望むのなら私はその望みを叶えたいと思った。本名で書いてって言われていたけど、ペンネームにしても彼は気付いてくれる。そう思ってペンネームにした。ペンネームにしたのはどうやっても返しきれない恩がある彼の名前を入れたかったから。そして彼に気付いてもらう為に自分の要素も少し残した。何度も奇跡を起こした私達だから彼は絶対に気付いてくれる。私はそう信じている。


 ここまでが緑川のエッセイ『ドアの向こう側』に書かれていた俺との時間。緑川が死んだって記事を見たのは夜中だったから俺は朝になって会社には休むと連絡して直ぐに本屋に行った。早くも緑川を追悼するコーナーが出来ていて俺はそこに並べられた本を一冊ずつ買って来た。全部で八冊。適当に手に取った順から読んで三冊目が『ドアの向こう側』だった。俺は緑川が本名で書くって信じていたからペンネームで書くなんて一ミリも考えてなかった。そして緑川はとんでもない奇跡を最後に起こしていた。

 俺には六歳下の流星(りほ)という名前の妹がいた。シスコンって言われるぐらいに俺は妹の事を可愛がっていた。流星がドラマやマンガが大好きだったから俺も一緒に見た。過去形なのは流星はもうこの世にいないから。流星は九歳の時に病気になった。成功率七十パーセントと言われた手術が失敗して死んだ。流星もちゃんと自分の置かれていた状況を知っていて「この前見たドラマの中で成功率三十パーセントの手術が成功してたから私は大丈夫だね」って笑顔で言っていた。俺もそう思っていたし、万が一の事なんて考えたくもなかった。

 俺も両親もどん底に落ちた。家族の太陽みたいな存在だった流星がいなくなって俺達は家族だけど、ただ一緒に住んでいる人みたいな関係になった。俺はそれをしょうがないと思っていたし、もしも俺がこの世からいなくなる様な事があって同じ思いをしたくないから俺との距離を取る事にした。そう思う事にした。唯一母さんが母さんらしい事をしてくれるのは晩御飯を作ってくれる事だけ。その唯一が俺と母さんの繋がりだった。父さんはほとんど家に帰らなくなった。流星がいなくなってからも変わらずに接してくれたのはじいちゃんだけ。じいちゃんがいなかったら俺は絶対に腐っていた。

 流星はいつも私の名前の中にお兄ちゃんがいるねって言っていたから自己紹介をする時は流星(りゅうせい)の流。って言う様にしていたし、お兄ちゃんって少女漫画に出て来るイケメンみたいだねって言ってくれていたからマンガの登場人物になろうと努力した。俺が水色が好きなのも流星が水色はお兄ちゃんの色だねって言ったから。俺は流星によって作られていた。でも、どんなに頑張っても笑顔で褒めてくれる流星はもういない。俺は一体何の為に存在してるんだろう。そんな風に考える様になった。流星が好きだったドラマもマンガも都合のいい展開を見るのが嫌で一切見なくなった。


 家にあまり居たくないから出来るだけ外に出る時間を増やした。と言っても中学生の俺に頻繁にカラオケやマンガ喫茶に行く金はなかった。だから流星が好きだった公園によく行っていた。俺と流星がボートに乗って父さんと母さんがベンチから手を振るのが小さい頃の定番だった。

 いつもの様に公園に行くとそこには俺と同じぐらい絶望を感じてるって一目で分かる女子が座っていた。手には何か紙の束を持っていて俺は少し離れた場所から様子を見ていた。しばらくして立ち上がったかと思うと手に持っていた紙をゴミ箱に捨てた。俺は姿が見えなくなったのを確認してゴミ箱からそれを拾った。それは小説だった。誰が書いたのかとんでもない量の修正が赤ペンで書き込まれていた。ご丁寧に表紙までつけられていて俺はその時緑川椿という名前を知った。俺はただのクラスメイトの名前をフルネームで覚えたりなんかしない。この時に緑川椿という名前が頭に刻み込まれたから覚えていた。

 俺は拾った小説をその場で読み始めた。赤字で読みにくい所があったけど、それでも読んだ。緑川の小説にはフィクションによくあるご都合主義が一切なくて生きる上で感じる暗い部分とか人の闇が巧みに書かれていて俺はその小説に引き込まれた。流星がいなくなってから初めて夢中になる事が出来た。もっと読みたい。そう思った。その小説の最後のページには余白が多くてそこに力強く大きな文字で『もっと世界を知るべき』と書かれていた。どこのどいつが書いたのかは知らないけど、お前こそもっと世界を知るべきだろって腹が立った。でも、もっと世界を広げた時、緑川椿の小説はどうなるのだろうとは思った。この小説はメッチャいいけど、読む人を選ぶ。もっと色んな世界を知ったらこれ以上の物が書けるんだろうか?もっと色んな人に読んでもらえる物になるんだろうか?考え始めたら止まらなくなって、緑川椿の小説は世に出るべきだって本気で思った。緑川椿に小説を書いてもらう事が流星がいなくなった今、俺の唯一の希望だって。思った所で名前しか知らない人とまた会う事なんてない。そう思っていた。


 高校二年になった時、名簿を見て俺は固まった。そこに緑川椿の名前があったからだ。あの小説を同い年が書いたなんて。拾って読んだ事言ってもいいかな?なんて考えていたけど、緑川の姿を見て最初は同姓同名の人かってガッカリした。教室にいたのはセミロングの明るい茶髪に慣れていないって丸分かりの化粧をした緑川椿だった。黒髪ロングに赤ぶち眼鏡。それが俺の中の緑川椿だった。それがあの日の緑川椿だった。

 その緑川があの緑川だって気付いたのは緑川が教室で本を読んでいた日。上手く言葉には出来ないけど、あの日公園のベンチにいた緑川だって思った。そもそもよくある名前って訳じゃないから同姓同名の人と会う方が難しい。最初からそう考えるべきだった。ここにいる緑川はあの日、俺に希望をくれた緑川だって確信を持った。俺は緑川椿がペンネームって可能性を全く考えてなかった。もう違ったらその時はその時だ。って思って俺は緑川に声を掛けた。緑川の知らない世界を見せるのが俺の役目。そんな風に思っていた。それは小説を読んだ時から思っていたけど、実際に緑川を目の前にすると改めてそう思った。もっと生きやすい世界あるんじゃないの?って言いたくなった。

 緑川が書いた小説を読みたい。無気力だった俺に唯一芽生えた欲。俺は俺の為に緑川に小説を書いてもらいたいって思っていた。

 緑川に小説を書いてもらおう。色んな世界を見せよう。って思っていたけど、そうしている内に俺の日常も楽しくなった。流星がいなくなってから暗かった毎日が明るくなった。俺は緑川の知らない所で二度緑川に救われていた。


 緑川は一つ大きな勘違いをしている。緑川は私なんかの為にって書いてるけど、もしかしたらエッセイ用にそう書いたのかもしれないけど、俺は緑川の事が本気で好きだった。緑川だったからこその時間だった。最初は好きって気持ちよりも俺の知っている世界を緑川に見せようって気持ちの方が大きかったけど、一緒に過ごす時間と比例して俺の好きって気持ちも増えていった。好きな人が好きな物を好きになろうとしないって思ってたけど、好きな人が好きな物を好きになるっていいなって緑川は思わせてくれた。

 普通に付き合い続けてたら緑川は小説を書かない。そう思っていた。だから別れるって事は前提にあった。別れた所で緑川が小説を書くかなんて分からない。だから俺は素直に小説を書いて欲しいって言ったし、あの公園は徒歩圏内だって事をほのめかした。緑川はちゃんと気付いてくれた。それに小説を書いて欲しいって俺の気持ちを受け取ってくれた。

 でも俺は作家、緑山流星に気付けなかった。緑川と別れてからは本を読む事がなくなった。俺は緑川と一緒に読むのが好きだったんだって気付いた。だから次に本を読む時は緑川の小説って決めていた。結果的にはそうなったけど、俺が望んでいた結果はこんな形じゃなかった。


 緑川のエッセイでそうだったのかと思わされた事が三つ。まずは赤が嫌いな理由。これは考えれば分かりそうな事だった。俺はあの赤字にムカついたけど、緑川はそれが怖かったんだ。言われてみればそうだよなって思う。二つ目は緑川はわざとデートの回数を減らしてたって事。これは全く気付かなかった。普通にありそうな理由だったからそうなのかって受け入れていた。それでも俺は十分に楽しかったし、デートが少ない分、その一回を大切にしていた。最後は緑川は俺と過ごす時間が落ち着く時間だったって事。そうやって思ってくれてたんだって分かってマジで嬉しい。緑川の事分かろうとして良かったなって思う。たまに超難問だったけど、緑川の言いたい事を考えるのは楽しかったし、当てた時は嬉しかった。緑川に聞きたい。あれから俺以上の人と出会ってないだろ?って。


 エッセイを読んでから緑川と過ごした時間で頭がいっぱいになった。そう言えば俺が撮った写真がブームになったってどういう事だろうってネットで検索する。検索した結果によると緑川がツイッターを始めた時にアイコンの写真がいいと話題になって、『本を読むって美しい』ってハッシュタグがプチブームになったらしい。そう言えば友達もそんなハッシュタグでインスタに投稿してたなって思い出した。その時にも気付くチャンスがあった。なのに俺は全く気付かなかった。緑川が生きている内に気付けなかったのは人生最大の後悔だ。


 今すぐ緑川に会いたい。もし今死ねば天国で緑川に会えるって言われたら迷わず死を選ぶ。色んな奇跡を起こしたのに一番大事な所で奇跡を起こす事が出来なかった。小説を読めば緑川に会えるなんてキレイごとじゃ嫌だ。俺は言葉はシンプルなのに表情は豊かな緑川に会いたい。そして『ドアの向こう側』ってタイトルじゃ大ヒット映画にはならないなって言って、緑川に俺ならなんてつけるの?って聞いて欲しい。聞いて来なくても自分から言う。俺は『俺たちがいる場所はいつだって近いようで遠い』ってタイトルかなって言う。あっ、でもここだけは俺じゃなくて僕の方がキレイか。俺が緑川との時間にタイトルをつけるなら『僕たちがいる場所はいつだって近いようで遠い』だ。いいねって笑う緑川の顔が浮かんだ。なんて都合のいい展開はない。現実はこんな物だ。


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