第5話 最善か最悪か
あれからしばらく経っただろうか。
俺はようやく目を覚ました。
夕焼けの明かりで少しばかり眩しいくらいで、それほど体に痛みはなかった。
階段から落ちるのもこれで何度目だろうか…
本来慣れるものではないだろうが、流石に落ち慣れた。
俺の経験値を舐めてもらっては困る。
人を庇いながら落ちるのなんて造作もないことだ。
そんなことより
「ここはどこだ…?」
「あっ、起きたんですね」
聞き慣れない声が聞こえてきた。
俺は声の主を探すため、体を起こした。
「ダメですよ。まだ横になっていて下さい!」
そう言って、俺の体をゆっくりと寝かし直した。
そこで初めてその子の顔を見ることが出来た。
綺麗な黒髪に優しそうな丸っとした瞳。
「君は確か、俺と同じクラスの…」
まずい。名前が分からない。
同じクラスだから、顔は覚えているんだが。
う〜む。
「同じクラスの小日向 香織です‼︎さっきは助けてくれてありがとう!」
彼女は、俺が困っていることに気づいたのか自分から名前を言ってきてくれた。
まぁ、話したこともないのに名前を知っていたら、それはそれで引かれそうな気がしなくもないが。
「えっと、小日向さん。ここは…」
「ここは保健室です。あなたのおかげで助かったので、ここに運ばせてもらいました。それに私、こう見えても保健委員なので頭を冷やしてあげようと思って勝手に氷枕も使わせてもらいました」
「保健委員だったのか。それより、よく俺をここまで運べたな」
女子の力で俺を運べるとは。
運ばれてる姿を想像しそうになったが、恥ずかしくなったのでやめた。
「そこはなんとかして運びました!そんなに重くもなかったですしね。えっと…名前は」
「神在月 雪斗だ」
案外俺の名前って有名じゃないんだな。
てっきり、みんな知ってるものかと。
まぁ教室ではいつも寝てるしな、そんなもんだろうきっと。
「ありがとうございます神在月君」
「まぁ、こんなの慣れたもんさ」
そう言いながらも気絶していたことを思い出して、なんかダサいなーとふと思った。
「それはそうと、俺はあとどれくらいココに寝ていればいいんだ。もう帰りたいんだけど」
用が有るわけではないが、女子と二人きりでいるのはなんだか落ち着かない。
「もう少し安静にしていって下さい」
「もう少しってどれくらいだよ」
「もう少しったら、もう少しです‼︎」
彼女はそういって、新しい氷枕を取り出してきた。
まさか、今からとり替えるつもりなのか⁈
そんなの溶けるまで待ったら学校が終わっちまうよ。
「へへへ〜。枕の交換の時間でーす」
彼女は、やたらと楽しそうに俺の枕を取り替えようとしてきたので俺は必死に枕を守った。
だが、健闘虚しくも彼女の無慈悲な腕力によってあっという間に守りは破られてしまった。
言っておくが、彼女の楽しげな笑顔にやられたのでは無いからな‼︎
彼女のデタラメなパワーに押し負けたのだ!
勘違いするなよ!
「全く、俺はあと何時間ここに拘束されてればいいんだよ」
「まぁまぁ私も一緒にここにいて看病してあげるから。ほらっ、痛いとこは無いですかー」
一緒に⁉︎看病‼︎なんというパワーワード。
女子に免疫のない俺にはダメージがデカすぎる。
危うく心を持っていかれるところだったぜ。
「こっ…心が痛い…」
「ん?何か言ったぁ?やっぱりまだ痛いとこあるんでしょ〜」
「何でもない」
だが待てよ、これはひょっとしたらチャンスなんじゃないか?
女子と一対一で話せる機会なんて滅多にないぞ!
ここはやるしかない。
そんなことを考えていると、ふと彼女の視線が気になった。
どこを見ているんだ?
彼女は窓の外を嬉しそうにただ眺めていた。
俺は、彼女の目線を追っていった。
外には部活に勤しんでいる球蹴り部の男子…それと数人のマネージャ。
まさか…
嫌な予感が脳裏をよぎった。
今すぐ確認せねば。
「なぁ、小日向。君は今楽しげに誰のことを見ているんだ」
俺の言葉を聞いて突然慌て出す彼女。
はぁ〜。こんな酷いことが有るだろうか。
「えっ⁈だ、誰も見てないよ⁉︎」
いや、バレバレだよ。
めちゃくちゃ慌ててるじゃねーか。
これに騙されるやつがいたら見てみたいよ。
「やっぱりか、分かり易すぎ」
「そ、そうかな〜。やっぱ分かっちゃう?」
長い髪をくるくるといじりながら天井を見上げている。
「あー。君を見てたらすぐに分かるレベル」
自分では気づかれないとでも思ってんのか?
あんだけ、感情豊かに一人を見つめていたら誰でも分かるだろ。
「で、どいつなんだ。俺よりイカした男ってのは」
「えっと、今一番前でボールを蹴ってる人」
爽やかそうな顔で身長は俺くらい。
確か小さい頃からサッカーやってて、それなりに上手いって聞いたことが有るなー。
名前は興味ないから知らないけど。
まぁ、俺の方が断然カッコイイしな。
「そうか…あいつを殺せばいいんだな」
「えっ⁉︎今の話のどういう流れからそういう結論に至ったの⁉︎」
しまった、つい心の声が。
漏れ出たというか、漏らしたというか。
いや、漏らしたというのは少々誤解を生みかねないから、この場合は…まぁそんなことどうでもいいか。
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
「そ、そうなんだ…」
納得してない様子だったが、別に大したことではない。
「あのブs…じゃなくて、あの玉転がしてる男のどこが好きなんだ?」
危ない危ない、また本音が漏れそうに…
気をつけねば。
「言わないといけないの?」
彼女は少し嫌そうな、恥ずかしそうな顔をした。
「ここにいる間することがなくて暇なんだよ。軽〜くでいいから。第一ココであいつのことが見たいからこうして俺のことをーー」
「分かった、分かったから‼︎話しますから!」
俺が最後まで言い終わる前に返事を返してきた。
「あれは一年前。クラスでまだ私が馴染めないでいた時うっかり教科書を家に置いてきちゃった時があって、その時に隣の席だった彼が机を合わせて教科書を見してくれたの!」
彼女は顔を真っ赤にしながら、俺の横で椅子の上をピョンピョン跳ねてその話をしてくれた。
「それだけ?」
つい聞いてしまうほどあまりに普通のことだった。
逆に見て見ぬ振りしてたら相当嫌な奴だぞ。
「もちろんまだありますー。でもあの時は心臓の音が聞こえるんじゃないかとドキドキした」
「よかった。それだけかと思ったよ」
俺は皮肉交じりにそう言った。
「それから、しばらくして私が放課後の校庭を歩いていた時に突然サッカーボールが飛んできたことがあって、あまりに突然で私は動けなかったんだけどなんと彼が華麗にそのボールを止めてくれたの!私がありがとうって言ったら、どういたしましてって言って頭をポンポンしてくれてね!危うく倒れそうだった」
彼女は話しながらその時の出来事を身ぶり手振りで必死に表現してくれた。
だが…
んーー。
「それで終わり?」
「うん」
あっさりとした返事が返ってきた。
「なんか普通。それにありがとうしか会話してないじゃん」
それに下手したらそのボール蹴ったの、そいつの友達なんじゃないか?
ボール触った手でポンポンされたら汚いと思うぞ。
まぁ、そんなこと言える訳ないけど。
「それでもいいの!」
ムキになってほっぺを膨らましていた。
「そんなものか…」
これなら、勝てる。
そう思ってしまうほどに大したことなかった。
「神在月君はそういうの無いの?」
「ないね、そんなことしても俺にとっては無駄だと思っていたから」
「なんか勿体無いね」
ん?これは俺がイケメンだから勿体無いということなのか、それともそういう経験が無いことに対して勿体無いということなのか。
非常に悩ましい。
だが、そんなことを聞いて笑われでもしたら目も当てられない。
「今度の休みにね、彼の試合があるらしいの」
「へぇー」
心底どうでもいい情報だな。
今年一番のどうでもよさ。
「でもね、私いけないんだ〜」
「それはどうして。家の用事でもあるのか?」
「ううん。行っても応援できる自信がないの、私そんなに仲がいいって訳じゃないから」
彼女は下を向いてとても悲しそうな表情をしながら、足をプラプラと振り始めた。
「そうか」
それしか言えなかった。
他に俺が言える言葉なんて見当たらなかったのだ。
しばらく沈黙が続いた。
お互いに次に何を言うか迷っているのだ。
保健室に穏やかな風が流れ込み、窓際のカーテンが広がっては閉じてを繰り返している。
外からは部活に勤しむ楽しげな声。
その声がまたこの空気を一段と重いものに変えていっていた。
「…」
流石に耐えようにも耐え難くなってきた。
何か言わなければ。
彼女の悲しげな顔とこの重苦しい空気を取り払えるような一言を…
そんな時、俺にある考えが浮かんできた。
全てを丸っと収められる一言を。
「なぁ、俺と次の休日デートしてくれないか?」
「え?」
彼女は鳩に豆鉄砲でも食らったかのような顔でこちらを見てきた。
鳩に豆を食らったような顔なのだから相当に驚いていると言うことだ。
まぁ、そうなるだろうな。
でも悲しげな表情じゃなくなった。
俺の顔もつい笑顔になっていた。
「俺にはそう言う経験が無い!そして、小日向も異性との会話に慣れていない‼︎ならいっそ、試しにデートなるものを経験してみるしかない‼︎」
ーーー何を言っているのか自分でも分からなくなってきたが、これが全てをまとめる最善の一手で有り、同時にやってはいけない最悪の一手であることは間違い無いだろう。