十八夜
今夜もあの男のことを書かなければならない。別段この男でもあの男でも構う必要はないのだが、こちらにも事情があってそうしたまでである。
この男、どうやら一日一編、小説を読もうと決めたらしい。はたして何日続くことやら。そんな考え事をしながら、この男の耳元に顔をつけていたときに聞いたのだ。
「まあ短編なら出来るよね。でもさ……長編読みはじめたらどうすんの? 章に分かれてるのはまだよしとしよう……」だ、そうだ。
気の毒なほど臆病な男である。しみったれた心配性である。
そんな男が今夜は、太宰治の『八十八夜』という作品を読んだらしい。
冒頭から、なにやらとても共感したらしく。男は盛んに頷きながら眼も上へ下へと歩ませながら、読み進めていた。途中何度か今きた道を引き返すこともあった。男はある部分に差しかかると、ぽっちりと呟いた。
「ああ、わかるね。でもこれは経験したことのない人には絶対に解らないね……」と、
――偉そうに。
違いのわかる男を気取ったところで、化けの皮が剥がれるのは時間の問題だ。「偉い」と「違い」は似ているが、簡単に騙されるような人はいないのである。そう思って男を観察していた。だが、何も起こらない。なんだか楽しそうに読んでいやがる。困るのだ。これでは困るのだ。今宵も男をネタに小説を書かなければならないのだから。
仕舞いに、男はへへらへへらと笑い出した。
「こっちの都合も知らんと……」。しばし絶句しながら、その光景を眺めていた。
小説はだんどんと物語を紡いでいた。中盤。諏訪へと向かう車窓からは、駒ヶ岳が過ぎ去り、八ヶ岳を望んだあと、主人公は目的地にたどり着いた。諏訪の旅籠にだ。とたんに男の眼が爛々と輝きはじめた。まるで男自身がその旅館を訪ねたような気持ちになっているのだ。気味が悪かった。なにを酔っているのやら。お気の毒様。それは作り物の世界ですから。そう言ってやりたかった。
突如、男の涙腺にあるダムが決壊した。いやそうではない、心にあるダムが決壊したようだ。どれどれと男の前に回って顔を確かめてみる。眼がうるんで涙が滲んでいた。まあ心配することもあるまい。いつもの事だ。そう思って斜に構えて見ていると、男は本を閉じて一服やりはじめた。
「は?……」
仕方なく男が閉じた本に潜りこんで、どこで男の心が決壊したかに目途をつけにいった。その頁にはこう書かれていた。
「そうかも知れない。温泉。諏訪湖。日本。いや、生きていること。みんな、なつかしいんだ。理由なんてないんだ。みんなに対して、ありがとう。いや、一瞬だけの気持ちかも知れない」――と。
蘇りだろう。今感じていることを口にしながら、同時に郷愁を抱き、さらにその先に希望を見ている。確かに美しい口語文ではある。しかし、この文だけでは、この男が涙を滲ませてそれ以上読み進めることが出来なくなって、煙草を吹かした意味はわからない。
仕方なく、男が小説を読み始めたところから回想してみる。八十八夜。死にたくなるような地獄。そこからの脱獄。アンドレア・デル・サルトル。アンリ・ベック。ラ・ロシコフー。諏訪の旅篭。そして、――である。
なるほどね。男は脱獄した主人公が光を見たことに共感したのだろう。
と、――思ったとき。天井を見上げて阿呆面をしていた男が本を手に取り直したのが見えた。今度はこちらが一休みする番だ。そう思って、体を楽にして男が小説を読み終わるのを、ごろりごろりしながら眼だけを男に張り付かせていた。男は「ふーん」と唸って本を閉じた。さて、どうする? 腹ばいになって、両の手で顎を支え、足をぱたりぱたりしながら待った。だが、何も起こらなかった。
「これでは結末が書けない……転も決もない。いやそもそも、この男を題材にしようものなら、尻で結構である。おおーっと、駄洒落を言っている場合ではないのだ……」
そう思って、やんぬる哉、男と一体化することにした。するとどうだろう。見たものに反して男は非常に機嫌が良いことがわかった。相当に共感できたようだ。
八十八夜とは、立春から数えて八十八日目の宵である。閏年などを考えると五月の一日から三日と考えて良い。
主人公の笠井さんが泊まった部屋番号は二十八番。ほうほう、ならば、小説の中の笠井さんはその辺りを歩いていると自覚しているんだね。
で、サルトル――これはつまり、純粋で潔癖なロマンチシズム。ひとくちに言えばプラトニック・ラブ。今時流行らないものだ。
アンリ・ベック――自然主義文学。人間は自然の一部であるのだから、美化し過ぎずに描こうというムーブメント。ゾラの『ナナ』、モーパッサン『女の一生』などがその代表といえる。だが、自然主義は芥川龍之介などによって否定され、やがてプロレタリア文学の潮流に飲み込まれてしまう。太宰が芥川に心酔していたことや、左翼運動に参加していたことは有名な事実である。物書きというのは面倒くさい人種である。
ラ・ロシコフー――人間観察の大家。こう考えてくると、太宰の生きた時代は大きなムーブメントの変動期にあったと言えよう。――それがどうした?
そして諏訪の旅籠。
つまりここで、――笠井さんは、過去の人間ではなく、今ここにいる愛すべき人間たちに導かれて感動するわけだ。――男はここで感涙して、心のダムを決壊させたのだ。
そのあと、色々あった笠井さんは、――結局、ロマンチシズムに戻っていった。それこそが自分自身だと思い知った――ということだろう。
堂々巡りにも意味はある。この男はそう感じたらしい。そんな事を繰り返していけば、笠井一さんのように、いつか一夜の後には十八夜、十八夜の後には、八十八夜が必ず来る。そう思ったらしい。
だが、問題は、この男がその堂々巡りを続けられるか、である。三日坊主にならいことを願うばかりである。まだ外は寒い冬である。雪山寒苦鳥にならないことを願うばかりである。祈る祈らないは、この男自身の問題である。知ったことではない。
ちなみに、あの男の言う、笠井さんの意味はこうだそうだ。
「井」は天井であり市井であり井戸。「笠」はそれを覆って見えなくしているもの――だそうである。――はて? では笠とは何なのであろうか? 多分に察するところ、その人その人の持つ執着であり、偏見であろう。それを捨て去れば、天を仰ぎ見ることも出来れば、人々のありのままの姿も、生き物を生かしている水や大地といった自然の有難味もわかる。そういうことだろう。
純粋である者――天命を知る。
プロレタリアを志す者――市井をありのままに見る。
自然主義である者――草木山河に感謝の念を抱く。
そして、それを知る旅の目的地が――八十八夜であろう。
~完~